マリンブルーの記憶
「小帆、いらっしゃい! さあ、上がって!」
玄関のドアが開くや否や、世海の母・メグさんこと蔡恵君が弾けるような満面の笑みで海帆を出迎えてくれた。
「お邪魔します」
久しぶりの世海の実家。促されるままリビングへと通されると、そこには穏やかに微笑む世海の父孫逸洋と、ソファに腰掛けた祖母の林雅芬の姿があった。
「小帆、いらっしゃい」
「いらっしゃい、ああ、近くへ来て顔を見せて」
差し伸べられる林雅芬の腕に、海帆はそっと自分の顔を近づけた。
「ご無沙汰してしまって、ごめんなさい。今日は夕ご飯、ご馳走になりに来ました」
「かしこまらなくていいのよ。いつでも好きな時にいらっしゃい」
そう言って微笑む世海の祖母は、肌艶は良く、声にも張りがあって元気そうだ。最近は杖をつきながら近所を少しずつ散歩をしているという話を聞いていた。海帆は小さい頃にお世話になった人の、昔のままの、行動的な性格が変わっていないことにほっとする。
「仕事が忙しいのはいいことだけどね、呼ばなきゃ来ないのは感心しないわね。もっと頻繁にいらっしゃい」
不義理をした海帆への小言の言い方も、昔と変わらない。海帆はにっこりと、子供のように笑った。
「はい」
素直に頷く海帆の腕を掴んで離さない林雅芬が、長袖の下にある包帯の感触を探り当ててハッと表情を強張らせた。
「小帆、どうしたのこれ! 怪我をしたの?」
「あ、これですか? 大したことないんです。ちょっと怪我しちゃっただけで、もうすっかり治ってますから……」
「見せなさい」
そう言うや否や、半ば強引に袖をめくられた。その迷いのない行動が世海にそっくりで、海帆は苦笑しながらされるがままに任せる。
(やっぱり、血は争えないな)
「怪我は酷いのかい?」
世海の父までもが心配そうに覗き込んできたので、海帆は慌てて首を左右に振った。
「本当に大したことないんです。ちょっと切っちゃっただけで、痛みもありませんから」
巻かれている包帯まで引っぺがそうとする林雅芬を慌てて止め、海帆は何でもないのだと強調する。だが、食事の準備をしていた蔡恵君がリビングの騒ぎを聞きつけ、海帆の腕の包帯を見て更に大騒ぎとなり、リビングは騒然となった。
やれ包帯を新しくしろ、香灰を塗った方がいいんじゃないか、秘伝の軟膏を持ってこい、とてんやわんやする一家を前に、海帆は必死に手を振って引きつった笑顔を見せる。
「本当に大丈夫です! 医者にも診てもらいましたし、薬もちゃんと塗っています。傷は残らないって言ってもらいましたから。実際、ほとんど残ってないです」
必死に訴えかける海帆の様子を見て、家族はようやく落ち着きを取り戻し始めた。
だが、林雅芬と蔡恵君母娘は、なおも疑り深い目つきで海帆の袖口を凝視している。
「本当に大丈夫なのね?」
「はい、大丈夫です!」
少し大げさなほどの笑顔を作ってみせると、ようやく蔡恵君は納得したように頷いた。そして、まだ何か言いたそうな母親を促し、食卓へと誘った。
テーブルにつく前、海帆は世海のスキャンダルについて、どう質問されるだろうかと密かに身構えていたが、食事の場は穏やかに過ぎていき、今起きている騒動について聞かれることはなかった。
いつものように海帆の好物ばかりが並んだ食卓を囲み、仕事の話しや昔話に花を咲かせる。
世海の話題が上ることもあったが、それは決まって二人が幼かった頃の笑い話ばかりだったので、その頃には海帆も、現在世間を騒がせているあの騒動について、彼らが敢えて聞かないでいようとしているのだと理解した。
本当は心配で仕方なくて、少しでも情報を得たいはずなのに、当事者の家族として静観することにしたのだろう。
海帆は胸がつまされる思いだった。
賑やかだった夕食が終わり、再びリビングに落ち着き、海帆は食後のフルーツとお茶をいただいた。
和やかな雰囲気で話は弾む。だが、ふとした瞬間に、会話が途切れることがあった。
そんな静寂の中、林雅芬は何でもない事のように海帆に話しかけた。
「ところで、阿海の様子はどうなの? あの子の事だから、取り乱すことはないだろうけど、気落ちしているんでしょうね」
唐突な一言に、世海の両親の動きが止まって、蔡恵君が慌てて母をたしなめた。
「お母さん、いきなり何を言うの」
「何って、あんた達二人が今一番気にしている事じゃない。いつ話すのかと待っていても、ちっとも聞かないから、代わりに聞いてやったんだよ」
うろたえる娘を、呆れたように林雅芬は横目で見た。
「まったく、二人でこそこそ話しをしているんだから」
「お母さん……知ってたの? 阿海のこと。耳に入れないようにしていたのに」
「母親を舐めるんじゃないよ。私は足は弱っても、耳と口は達者だよ」
憤慨する林雅芬に、蔡恵君は戸惑った顔で夫と顔を見合わせた。
「除け者にするつもりじゃなかったのよ。お母さんに心配をかけさせたくなくて……」
「心配するかしないかは私が決めることだよ」
ぴしゃりと言う母親の言葉に、娘は大きくため息をついた。
そんなやり取りを聞きながら、海帆は手元の茶碗を見つめて、ぽつりと呟く。
「……心配、ですよね」
そう言って、海帆は身を固くして俯いた。
「…………すみません。私も、詳しいことは何も教えてもらっていなくて。今は、彼とは連絡も取らないようにしているんです。あまり接触するな、と止められていて。だから安心してもらえるような事が言えなくて」
珍しく意気消沈した様子の海帆を見て、少しの間リビングが静寂に包まれる。
「小帆、どうして君が謝るんだい」
孫逸洋が穏やかな声で言い、蔡恵君は笑って、項垂れる海帆の手を優しく握った。
「ああいう職業だもの、ちょっとしたことで大騒ぎされるんでしょ。まったく、ちょっと酔っぱらっただけなのにね。…………まあ、一緒に写っていたあの変な女の人は感心しないけど」
蔡恵君はふんっと鼻を鳴らしながらそう言って、海帆の事を心配そうに覗き込んだ。
「あんな訳の分からない女のことなんて、気にしちゃダメよ。あの子が素面だったら、あんな怪しげな人なんて絶対に近寄らせなかったはずよ」
「……そうですね」
スキャンダルの内容ではなく、世海が女性と一緒に写っていることを、海帆が気にするのではないかと心配している蔡恵君に、思わず苦笑してしまった。
そういえば世海も、あの画像を見せられた後、ショックから我に返って一番最初に言った言葉が「俺はこの女と何もしていないからな!」と海帆に弁明することだった。
問題なのは、そこじゃないんだ。
海帆は蔡恵君に向かって神妙に頷きながら、気にしないなんて絶対にできないな、と心の中で呟いていた。
あの不気味な画像、世海を陥れた悪意、そして自分のもとに届いた謎のメッセージ。それらが頭から離れることはない。
そんな海帆の心情に気づいたのか、林雅芬が静かに切り出した。
「小帆、阿海は気難しやで心配性だけど、自分の事に関しては変なところで肝が据わっていて、何か起きても冷静でいられる子ではあるから、私はあまり心配はしていないんだ」
「————はい」
頷く海帆に微笑み欠けて、林雅芬は続けた。
「それでも、多少は落ち込んでいるだろうからね、あんたが慰めてあげてね。小帆がいてくれれば、あの子は落ち着いていられるから」
それは小さい頃の話しではないだろうか。そう思った海帆だが、口にすることはなく、素直に頷く。
二人のやり取りをみていた蔡恵君が、殊更に明るい声を出した。
「あんな変な写真の事は忘れましょう! そんなことより、今日あなたを呼んだのは、もっといい写真を見つけたのよ!」
ちょっと待ってて、と言い残し、蔡恵君はいそいそと奥の部屋へ向かった。
広いリビングに残され、海帆は他愛無い会話を続けながら、蔡恵君は何を持ってくるのかと待った。そう待たせることもなく、彼女は手にアルバムを持って戻ってきた。
「ほら、これ。懐かしいでしょう!」
テーブルの上に広げられたのは、幼い頃の海帆と世海が写っている写真が収められたアルバムだった。姉の帆波も写っている。
海帆の顔が懐かしさでほころんだ。
「うわあ、懐かしい。小さい頃の写真なんて、久しぶりです!」
そう言って、渡されたアルバムのページを、ゆっくりとめくっていく。
そこに写っている海帆と世海は、自分の記憶の中にある姿よりもずっと幼かった。海帆は長い髪を垂らしていたり、おさげにしてもらったりして、女の子らしい服を着ている。
そして、どの写真を開いても、そのすぐ隣には人形のように整った顔立ちをした、幼い世海の姿があった。海帆の服の裾を掴んでいたり、隣でちょこんと座っていたり。
赤ん坊の世海を、小さな海帆が危なっかしく抱っこして笑っている写真まであった。
思わず、くすくすと笑みがこぼれる。
「本当に、いつも一緒にいたんですね」
「そうね、離れなかったわね。あの子は毎日、あんたの後を追いかけていたわ」
昔を懐かしむ蔡恵君の声を聞きながらアルバムをめくっていた海帆の手が、ある一枚の写真の上でピタリと止まった。
「これ……」
それは、日差しが眩しい庭先で撮影された写真だった。晴れ着に身を包んだ海帆と世海が、しっかりと手を繋ぎ、まっすぐカメラを見つめて立っている。海帆は首元にコットンレースの襟をあしらったマリンブルーのワンピースを着ていて、長い髪を綺麗に結い上げてもらって満面の笑みを浮かべている。
そしてその隣には、白いシャツにネイビーブルーのハーフパンツを合わせた幼い世海が、緊張した面持ちで寄り添っていた。
「小帆の五歳の誕生日に撮ったものだね」
孫逸洋が懐かしそうに目を細める。それに頷いた蔡恵君が、優しい声で教えてくれた。
「本当はね、小帆一人で撮る予定だったのよ。そしたら、あの子が一緒に撮りたいって言い張って。それで撮ってもらったの」
「覚えています。確か、専門のカメラマンさんを呼んだんですよね」
「そうそう、あんたの誕生日じゃないんだからって言っても、阿海は聞かなくって。結局、根負けして、その日は二人で撮って、別の日に小帆一人の写真を撮り直そうって話になったの。そうしたら、これでいいよってあんたが言ってくれたのよね」
「そうでしたっけ」
正直、細かいやり取りまでは覚えていなかったが、海帆はこの青いワンピースを着た時の高揚感を微かに思い出していた。少しお姉さんになったような誇らしさと、胸が踊るような特別な気分を体いっぱいに味わっていた。そして世海は、そんな海帆を見て、面白くなさそうな顔をしていた。
海帆は静かに微笑むと、二人の写真を指でそっと撫でた。
小さな男の子と、それより頭一つ背の高い女の子。二人はぎゅっと手を繋ぎ、仲良く寄り添って、こちらを向いていた。
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