波紋
「ミホさん、今日十六時からタクシーを予約していたお客様ですが、キャンセルになりました」
受話器を置きかけた海帆の耳に、後輩スタッフの申し訳なさそうな声が届いた。
振り返ると、気まずそうに眉をひそめた女性スタッフが立っている。
「そう、分かりました。理由はお伺いしてる?」
「……いえ、ただ、タクシーはもう手配してしまっていて、キャンセルが直前すぎて……どうしたらいいでしょうか」
「私が対応します」
予期せぬトラブルや急な変更はこの仕事では日常茶飯事だ。海帆は迷うことなく受話器を再び手に取ると、いつも配車をお願いしているタクシー営業所へと電話をかけた。予想通り、受話器の向こうから聞こえるオペレーターの声はどこか素っ気なく、急なキャンセルに対する不満が滲み出ている。海帆は謝罪を口にし、言葉を慎重に選びながら丁寧に事情を説明した。幾分かの嫌味は言われたものの、覚悟していたほどのものではなく、無事に手配を解除することができた。
受話器を戻し、海帆はそっと息を吐き出す。
「ミホさん、あの、今いいですか?」
ふうと息を切り替えた直後、背後から声をかけられた。振り返ると、そこに立っていたのはジェシカだった。
出そうになるため息をこらえ、海帆はいつもの穏やかな微笑みを浮かべて振り返る。
「どうしたの?」
ジェシカは、少しおどおどした様子で、海帆のすぐそばに寄り添うように立ち、視線を小さく泳がせている。
また何か現場でのトラブルだろうか、あるいは他部署との不都合な調整ごとだろうか、と身構えた海帆だったが、聞いてみると大したことはない内容だった。新人ならともかく、ジェシカほど経験を積んだスタッフであれば、自己判断で問題なく対処できる案件である。
だが、海帆はそれを指摘するような真似はせず、ひとつひとつ順を追って丁寧に対処法を伝えた。ジェシカは「なるほど」と深く頷き、笑顔を見せたものの、なぜか一向にその場を離れようとしない。資料を抱えたまま、海帆のすぐ脇に佇み、所在なさげに周囲を伺い続けている。
そういうことか、と海帆は苦笑してしまった。
「ジェシカ、気を使わなくて大丈夫だから。自分の業務に戻って」
「……はい」
普段通りに振る舞っているつもりだったが、ジェシカが海帆に気を使っているのが伝わってくる。一人でいる海帆を心配して、ただ傍に居ようとしてくれているのだろう。
隙を見せず、感情を表に出さず、粛々と業務をこなしていても、やはりどこか気にかかる所があるのかもしれない。
彼女たちの気遣いはありがたかったが、同時に自分の脆さが暴かれているような気がして、我ながら不甲斐ない。
気を使っているのは、ジェシカ一人だけではなかった。
「ミホさん、戻りました。休憩、行ってきてください」
元気な声とともにアビーが足早に現れると、海帆とジェシカの間に少々強引に割り込んでくる。
「アビー、ちょっと早いんじゃない? 交代の時間にはまだ……」
「そんなことないです。ちゃんと時間どおりです。ミホさん、休憩行って来てください」
小柄な体をフルに使い、アビーは海帆を持ち場からぐいぐいと押し出そうとする。
「でも……」
海帆が言いかけると、アビーは足を止め、海帆の顔を真下からまっすぐに見つめ返した。
「私、知ってるんですよ。ミホさん、最近、休憩取ってないですよね。毎日残業しているし、働きすぎです」
「……………………」
「ちゃんと休まないと体が持ちません」
アビーはそう言って頑固な態度を崩さず、とうとう海帆を持ち場から追い出してしまった。
「ゆっくり休んできてください」
ゆっくり休んで戻ってこない限りは絶対に持ち場を譲らない、と言わんばかりに、アビーは小柄な体を精一杯伸ばして、むんっと胸を張った。
そこまでされてしまっては、戻るわけにもいかない。海帆は半ば諦めたように笑い、ここ最近すっかり足を向けていなかったスタッフルームへと向かうことにした。
誰かと世間話を交わすような余裕も、誰かの視線を受け止める元気もなかった海帆にとって、幸いにも休憩用のフリースペースが無人だったのは救いだった。
静まり返った部屋でぽつんと一人佇み、海帆は深く息を吐き出す。
なぜアビーがあそこまで強引に自分を追い出したのか、その真意が身に染みた。
同僚たちの温かい思い遣りに感謝すると同時に、自分のせいで周囲に余計な心配をかけさせてしまっていることへの心苦しさが、胸を締め付ける。
アビーだけではない。ジェシカも、そしてシフトを共にする他のスタッフたちも、各自の業務をこなしながら、海帆の様子を心配そうに伺っていた。
全ては、あの画像が流出してから。
海帆は再び重い溜息をつき、遅めのランチの準備をする。買っておいた弁当をスタッフ共有の冷蔵庫から取り出し、電子レンジにセットする。レンジが低い稼働音を立て始めるのを見つめているだけで、全身の体力が奪われていくような錯覚に襲われ、海帆はぐったりと椅子に座り込んだ。
テーブルの上に無造作に置いた携帯電話が振動する。仕事の連絡かと思い、重い手つきで拾い上げ、画面をタップしてロックを解除した海帆の目に真っ先に飛び込んできたのは、ポータルサイトの急上昇ニュースの見出しだった。
【画像あり】人気俳優エリック・スン、プライベート画像が流出拡散! 暗闇の室内で女性が腰にまたがる生々しい衝撃ショットにファン騒然。CM降板や違約金発生の可能性も————。
バンッと激しい音を立てて、海帆は携帯電話をテーブルに叩きつけた。そのまま、じっと動かず顔を伏せ続ける。電子レンジが加熱時間の終了を告げても、しばらくそのままでいた。
ようやく呼吸が落ち着いてきたところで、のろのろと立ち上がって弁当箱を取り出す。食欲は完全に失っていた。けれど、あのニュースの見出しに心を乱されたと認めたくなくて、意地でも弁当を広げて箸をつける。
味が全くしない。粘土か紙くずでも噛んでいるかのように無機質な咀嚼を繰り返しながら、ただただ噛み砕き、強引に飲み込んだ。
エリック・スンの衝撃的な画像が撒き散らされてからというもの、数日のうちに彼を取り巻く環境は一変してしまった。
清廉で真面目なイメージを持たれていた俳優のスキャンダルは世間に大きなショックを与え、その余波は彼の仕事にまで及んだ。
出演が決定していた番組やドラマは相次いで降板。契約中だった大手企業のCMも差し替えが決まり、莫大な違約金の噂が飛び交っている。そして何より、当の本人は現在、あらゆるメディアからの追及を逃れるため、自宅謹慎を余儀なくされていた。
画像が流出したあの日以来、海帆は世海と会う事を禁じられている。
接触はもちろん、SNSや通話アプリでの連絡すら極力控えろと命じられており、現在の世海の様子は、マネージャーである陳宇翔を介してしか窺い知ることができなかった。
数日前、密かに海帆の元を訪れた彼の話によれば、世海は世間の大バッシングの中でも取り乱すことなく、落ち着いているという。外出も叶わない部屋で、毎日筋トレをしたり、飼っている金魚の世話をして過ごしているらしかった。
「あの金魚はすごく偏食でしてね。やたらと高価な餌しか食べないから金がかかるって、ぼやいてましたよ」
そう言って、陳宇翔はやつれた顔で力なく笑っていた。
海帆はとても一緒に笑う気になどなれず、すがるような思いで「あの画像を投稿した人は見つかったんですか?」と質問をした。
陳宇翔はすぐに真顔になり、深く思い溜息をつきながら首を横に振った。
「見つかりません。当然ですが捨てアカウントですから、プロバイダ側の特定作業が難航しています。開示請求の手続きは進めていますが、海外のサーバーを経由していることもあって対応が遅く、時間がかかっています」
悔しそうに拳を握り締めていた陳宇翔の様子を思い出し、海帆は胸の奥が暗く沈んでいく。
弁当は結局、半分以上を残してしまった。箸を置き、弁当箱をしまう。
テーブルの上に伏せられたままの携帯電話を開く気にもならず、かなり余った休憩時間をどう過ごすか思いあぐねた。
別のことを考えようとしても、結局のところ、頭の中を占領するのは今一番の懸案事項だ。
先日、陳宇翔と会って話した時のやり取りを思い出す。
流出した世海の酩酊画像は、カイルのパーティーで撮影されたものだった。大物俳優と新人女優との不倫スクープの発端となった、あのパーティーである。
あの時の大騒動とトラブルが起きて以降、世海は羽目を外すような遊びはしていない。陳宇翔が目を光らせていたという理由もあるが、何より世海自身の仕事が多忙を極めており、遊ぶ余裕などなかったからだ。
あの画像を投稿したのは何者か。
なぜ、かなり前に撮った写真を、今になって突然流出させたのだろうか。
海帆の疑問に、陳宇翔は顔を曇らせ、自身の見解を重々しく語った。
「おそらく、呉斌が捕まったからでしょうね」
呉斌、という名前に海帆の左腕がうずく。彼に切り付けられた傷は、まだ包帯を巻いているが、ほとんど癒えてきている。痕も残らないですみそうだが、痛みの記憶ははっきりと覚えていた。
「私は、画像をアップしたのは、呉斌と共犯関係にある人物だと思っています。彼が逮捕されたことは、本人にとっても、共犯者にとっても、想定外だったはずです。実行役だった呉斌が警察に身柄を拘束され孤立したことで、焦って次の行動に出たんでしょう。呉斌が警察の取り調べで自分の事を口を割るかもしれない、と考えたのかもしれませんね。警察の手が及ぶ前に、手持ちのカードを全部吐き出してしまえと考えたんじゃないでしょうか」
共犯者、と聞いて海帆の脳裏に、あの面影が浮かび上がる。
画像を投稿した相手は、サングラスの女だろうか、という問いに、宇翔は確証はないと前置きしつつも、深く頷いた。
「……彼女について、何か心当たりはないんですか?」
「ありません」
陳宇翔は即座に首を横に振った。
「ミホさんも知っての通り、エリックはかなり潔癖です。若者らしく遊んだりしても、女性との距離感には常に細心の注意を払っていたんです。共演女優に言い寄られたりしても、常に礼儀正しく、一線を引いて遠ざけていました。もう少し遊んでもいいのに、と思うほどでしたから、個人的な恨みを買うような覚えはなかったはずです」
「…………そうですか」
落ち込む海帆に対し、宇翔はさらに表情を沈ませ、苦々しく言った。
「彼が唯一、羽目を外したのが、カイルのあのパーティーでした。記憶を無くすほど酔っぱらうなんて、普段なら絶対にあり得ません。現場から逃げ出してきたと言っていたくらいですから、よほど断れない状況だったか、何かを盛られたか……」
はあ、と陳宇翔は大きくため息をつく。
「……だからこそ、あの写真がカイルのパーティーで撮られたものだ、ということが分かりますけどね。一緒に写っている女も、芸能関係者か、それに極めて近い内部の人間でしょう」
「もしそうなら、一緒に写っている女性が何か知っているかもしれないですよね? あのパーティーの出席者に、彼女の素性を当たれば……!」
期待を込めて身を乗り出した海帆に、陳宇翔は暗い顔をした。
「僕のルートを使って、当日の出席者何人かに当たってみたのですが、手応えはありません。エリックはあの写真を撮られた直後、女を振り払ってすぐにその場を離れたそうです。当日は会場全体がごった返していて人も多く、当時の状況を明確に記憶している目撃者が見つからないんですよ」
「……………………」
海帆は唇を噛みしめ、しばらくしてから、ようやく口を開いた。
「…………呉斌は、何か言っていないんでしょうか?」
陳宇翔は溜息をついた。
「言いません。相変わらず黙秘です。変なところで義理堅いやつですよ」
息が詰まるような宇翔との会話だった。
海帆の八方塞がりな思考は、出口のない迷宮へと迷い込んでいき、右往左往するだけである。
もう一つ、どうしても解けない大きな疑問があった。
なぜ、エリックのあの不快な画像は、海帆の個人SNSアカウントへ直接送られてきたのか。
目的は何なのだろう。
画像流出とはまた別の、海帆個人に対する悪意を感じられて、眼差しが剣呑になる。
全ては、あのサングラスの女が仕組んだことなのか。
海帆は眉間に険しいシワを寄せ、脳裏に刻み込まれたあの女の曖昧な面影を、何度も、何度も反芻した。
陳宇翔によって画像流出の報せを受けたあの日、対策を協議する二人を残し、動揺する世海を残して海帆は彼の部屋を後にした。
帰宅途中の路上で、海帆が真っ先に行ったのは、画像を送りつけてきた不気味なアカウントに対するダイレクトメッセージの送信だった。
どういうつもりだ、と送った海帆のメッセージに、返事が返ってくることはなかった。その後も何度かメッセージを送信してみたが、画面の向こうからの反応は一切なく、梨の礫だった。
返事が来ると本気で期待した訳ではない。ただ、行動を起こさずにはいられなかったのだ。あのアカウントの向こう側には、もう誰もいないと分かっているのに。
はあ、と海帆はため息と一緒に、重苦しい空気を吐き出す。
消化不良になりそうだが、一人で思い悩んでいるうちに、休憩時間はある程度すぎていたようだ。
時間を確かめようとテーブルの上の携帯電話を手に取ると、画面の通知ランプが静かに点滅していた。画面を開くと、そこに表示されていたのは世海の母親である蔡恵君からのメッセージで、自宅への食事の誘いだった。
(メグさん……きっと、色々話しを聞きたいんだろうな)
正直なところ、乗り気にはなれなかった。世海の惨状について語ることは、海帆にとっても苦痛であり、何をどこまで話すべきかも分からない。
けれど、母親として世海を誰よりも心配しているはずだし、世海自身は親に心配をかけまいと詳しい事情を隠しているに違いなかった。
断る理由も見つからず、海帆は『ありがとうございます。伺います』とだけ短い返信を打ち込んだ。
そして、重い体を起こし、深く一度息を整えると、職場へと戻っていった。
読んでいただき、ありがとうございます。




