波立つ水面
一時間が経過し、再び寝入った世海の寝息を確かめてから、海帆は静かにキッチンへと向かった。
冷蔵庫の扉を開けると、ほのかにひんやりとした冷気が頬を撫でた。奥の棚に冷やしておいたプリンを取り出す。
状態は良さそうだ。型のふちを軽く突いてみると、表面はしっかりとした弾力を返してきた。固まっている。
思わず口元がほころんだ。お菓子作りなど滅多にしない自分にしては、いい出来栄えではないだろうか。
私でもできるもんだな、と小さく胸を撫で下ろしながら、海帆は戸棚から平らな皿を一枚用意し、プリンを型から取り出す作業に取りかかる。
プリンの型の上に皿をかぶせ、両手で挟み込むようにして一気に逆さにする。型のお尻をスプーンの背でトントンと軽く叩き、内部に空気を送り込むようにしながら、中身が落ちてくるのを待つ。
なかなか落ちてこなかったが、徐々にプリンの黄色い端が型の口から出てきた。はやる気持ちを抑え、辛抱強く、重力に任せて中身が完全に落ち切る瞬間を待った。
ちゃんと自立しますように。祈るような気持ちで、型を逆さにしたままの姿勢を維持し続けた。
ついに、ぽとん、と微かな音を立ててプリンが型から離れた。ぷるんと震えながら皿に着地する。
そしてそのまま、ふるふると震えながらどんどんとプリンの足元が左右前後へと広がっていった。とろけだした黄色い生地が裾野を広げ、皿の縁ギリギリまで広がったところで、ようやくその動きが止まる。
「…………」
海帆はしばらくの間、皿いっぱいに広がり、なだらかな黄色い山を築いてなお、ふるふると揺れ続けているプリンもどきを見下ろし、熟考した。
分量を間違えたのだろうか、それとも冷やし時間が足らなかったのか。一体なにがいけなかったのだろう。
お菓子作りは、科学実験である。誰かが、そんな事を言っていたのを思い出す。
材料の比率、温度管理、時間経過、その他諸々の全てを規定通りにこなさないと、思い描いた通りの成果は得られないのだ、と。
どうしようか。
どうにもできない。海帆には分かっていた。
皿の境界線めいっぱいにまで広がったプリンもどきは、少しでも動かそうものなら、縁からどぅるんと零れ落ちてしまいそうだ。
そんなことになったら、キッチンも海帆のメンタルも大惨事である。
「……できたのか?」
低く掠れた声がかかった。
リビングのソファで横になっていたはずの世海が、まだ眠気の残る目をこすりながら、こちらを伺っている。
「あーうん……できたんだけど、ちょっと失敗したっぽい……」
ごにょごにょと小声で濁す海帆の声が聞こえなかったのか、世海はソファからダルそうに起き上がると、重い足取りでキッチンへと歩み寄ってきた。
「できてるじゃないか」
世海はキッチンのカウンター越しに、平らになりながらも微かに震え続けて、健気にアイデンティティを主張するプリンを見つけた。そして海帆の手からスプーンを取り上げると、無造作にプリンの皿を持ち上げた。
「……!」
海帆は思わず息を飲んだが、彼女の懸念を余所に、プリンは表面張力を保ったまま皿から零れ落ちることなく、世海の素晴らしいバランス感覚によって、ソファのローテーブルへと運ばれていく。
「し、世海くん、無理して食べなくていいよ。今からちゃんとしたやつ買ってくるから」
「なんでだよ、俺はこれがいい」
そう言って、世海はソファ前に腰を下ろし、皿をテーブルの中央に据えた。そしてそのまま、無造作にプリンをすくって口に運ぶ。
「…………」
海帆は身を固くしてその光景を見つめ、彼の反応を待った。世海は表情ひとつ変えず、無言のまま食べ続けている。
「た、食べられるの……? それ」
「当然だろ。プリンなんだから」
「……………………おいしい?」
「ふつう」
そうか、普通か。
海帆は胸の内でそっと安堵の息をついた。
見た目はアレだけど、味は大丈夫だったようだ
体調の悪い彼に無理をさせているのではないかと心配したが、世海の頬に不快感の色はなく、そのまま黙々とスプーンを動かし続けている。
「お前も食うか?」
世海が一口分のプリンを乗せたスプーンをこちらへ差し出してきたが、海帆は首を振って遠慮した。
「私はお茶でいいよ」
海帆はキッチンから自分用の温かいお茶と、世海のために冷えたペットボトルの水を運んできてテーブルに置いた。
(……小さい頃から偏食が激しかったから、食べ物にあまりこだわりがないんだな)
そんなことを考えつつ、食べ続ける世海の姿を静かに見守った。
特に問題もなく、世海は見事にプリンを完食した。
空になった皿を下げた海帆は、処方された薬と水を渡し、早く飲んでベッドへ行くように促した。すると、世海は疑り深い眼差しで海帆を胡散臭そうに見つめ返してきた。
「……さっさと俺を寝かしつけて、寝ている隙に帰ろうとしてるだろ」
「……………………」
図星だった。言葉に詰まった海帆を見て、プリンを食べて浮上していた世海の機嫌が一気に急降下する。
そんな二人を、大きな水槽の中をゆったり泳ぐ金魚が悠然と見つめている。世海の不機嫌な視線から逃れるように、海帆は急いで金魚の水槽へと話題を逸らした。
「そういえばさ、世海くんの金魚って名前あるの?」
「…………ない」
素っ気ない、壁を作るような返答。海帆は慣れているので、そうなんだと呟いて水槽のガラス面に顔を近づけた。
「前に具合が悪いって言っていたけど、もう元気になったの?」
「うん」
ガラス越しに顔を寄せると、艶やかな鱗を揺らした金魚が、ゆらりとこちらへ近づいてきた。まるで挨拶でもされているかのようで、海帆の口元に自然と笑みがこぼれる。
「人懐っこくてカワイイね」
「俊宏とは喧嘩してたけどな」
どうやったら金魚と喧嘩ができるのだろうか。海帆はあまり深く追求せず、大きくて手入れの行き届いた水槽の中を悠々と泳ぐ魚影を眺めた。
「うちの子より、よっぽど人懐っこいと思うよ」
「お前んちも金魚がいるのか?」
どこか意外そうに、そしてほんの少しだけ興味深そうに声のトーンを上げた世海に、海帆はふふと微笑みながら首を横に振った。
「金魚じゃないよ。実家に猫がいるの。カワイイよ」
猫、という言葉を聞いて、世海の金魚に緊張が走る。世海も心穏やかじゃない複雑な顔をした。
「……お前もしかして、将来、猫を飼いたいとか思ってる?」
「え? うん、まあ……思ってるかな。猫好きだし。犬も好きだよ」
海帆の無邪気な回答に、世海は沈黙した。そしてそのまま、金魚とその飼い主は互いに無言のままじっと見つめ合った。人間と魚類の間で、目に見えない謎の意思疎通が行われているようだ。
なんなの、と聞こうとしたその時、机の上に置かれた海帆のスマートフォンが、電子音とともに短く振動した。会話を中断し、液晶画面をタップして通知を確認する。
メッセージがいくつか届いていた。ステータスバーに通知がズラリと連なっている。
ほとんどが職場の業務連絡だったが、今では触れてもいないSNSアプリからの通知もいくつかあるようだった。
海帆はとりあえず、一番最新のものを確認する。
差出人は陳宇翔からだ。
メッセージを読んだ海帆は、まだ金魚と見つめ合っている世海に声をかけた。
「陳宇翔さんからだったよ。世海くんの様子はどうだ、て」
「……なんで、お前に連絡するんだよ」
世海はそうボヤキながら、だいぶ良くなったと伝えてくれ、と言った。海帆が言われた通りに返信を打つと、間髪を容れずに次のメッセージが返ってくる。
「これから、すぐこっちに来るって」
「こんな朝から? 昼過ぎでいいのに」
「なんか急いでるみたい」
それを聞いた瞬間、世海の顔つきが変わって引き締まった。
「……張偉が捕まったのかもな」
確信に満ちたその言葉を聞いて、海帆もにわかに緊張する。無意識に、腕の包帯に触れる。
それを見て、世海の顔がますます険しくなった。
「……なにがあろうと、俺はあいつを絶対に許さない。刑務所にぶち込んで、出られなくしてやる」
「…………世海くん」
「お前の仇を討つんだ」
「まだ死んでないよ」
世海は聞いていないようで、怒りを静かにたぎらせていた。
下手に宥めて怒らせてもいけないので、海帆は何も言わず、手の中の携帯電話を操作する。
大量のメッセージが画面を埋め尽くす中、気になる通知があった。
それはアカウントを開設して以来、ほとんど触れることすらしていないSNSの通知だった。
完全に放置しているのだが、アビーやジェシカといった華やかな面々が加わってからは、勝手に注目を集めていたらしい。フォロワー数が数百人を超え「もうすぐ四ケタ行くんじゃない⁉」と親友の明莉が興奮気味に大騒ぎするほど、順調に増え続けているそうだ。
本人は運用するつもりは皆無なので、気にも留めていなかった。
送られてきたのは、未知の相手からのダイレクトメッセージだった。どうやら画像のようだが、こんなろくに投稿もされていないアカウントに、一体何の用があるのだろう。
添えられた小さなサムネイル画像を表示するべきか、海帆の指先が一瞬だけ迷いを見せた。
嫌な予感がする。
胸騒ぎを抑え込み、吸い寄せられるように画面をタップした。
表示されたのは、どこか薄暗い室内を映した一枚の写真だった。周囲が暗い中、カメラのフラッシュに照らされた人物が浮かび上がっている。
次の瞬間、指先から血の気が引き、海帆は凍りついた。呼吸も忘れて、その場に完全にフリーズする。
「どうした?」
硬直した海帆の異変に気づき、世海が怪訝そうに声をかけてくる。
返事をしなければ。そう焦るのに、喉が引きつって声にならない。海帆は息を整え、かろうじて掠れた声を絞り出した。
「……………………なんでもない」
いや、なんでもないわけがない。すぐに言わなければ。
そう思うのだが、海帆は頭の中が混乱していて、上手く言葉にならない。
「なんでもない訳ないだろ。どうしたんだ」
世海が近づいてくる。海帆は反射的にスマートフォンをポケットへと押し込んだ。
露骨に画面を隠すその動きに、世海は眉間に深いシワを寄せ、鋭い視線を投げかけてくる。
「なんなんだよ」
追及しようと手を伸ばす世海に、海帆は小さく首を横に振った。ポケットの中の端末が、冷たく重く存在感を主張している。
「…………とにかく、陳宇翔さんを待とう。もうすぐ来るから」
震える声を押し殺しながら、海帆は自分に言い聞かせるように言った。
そしてその言葉通り、陳宇翔はすぐに世海のマンションへと現れた。
急いで来たのか、ビジネスライクな服装を心掛けている普段とは違い、服も髪型も乱れている。明らかに慌てていて、心乱されている様子だ。
だが、世海はいつもとは違うマネージャーに気づかないのか、食ってかかるような勢いで陳宇翔に迫った。
「あいつ捕まったのか?」
陳宇翔は深く、重い溜め息をつきながら、ゆっくりと頷く。
「…………ああ、捕まったよ」
その表情は暗く、どこか浮かない。だが、焦りを募らせた世海はさらに追及する。
「それで? どうなった!」
陳宇翔はじっと世海の目を見つめ返し、意を決したように重い口を開いた。
「名前は呉斌。職業はウェブデザイナーだということだ」
「呉斌……やっぱり偽名だったか」
「単独犯ですか?」
海帆の質問に、陳宇翔は淡々と頷く。
「そう供述しています。自分ひとりで計画して、実行したと」
「…………そんなはずは……」
海帆が言いかけるのを制するように、陳宇翔は言葉を重ねた。
「現れた場所がエリックのマンションではなく、ミホさんの寮の前でしたから。警察の見立てでも、エリックへの恨み路線では追及していないようです。なぜあの場所で待ち伏せしていたのかと聞かれて、『ホテルでミホさんに一目惚れし、それ以来ストーキングしていた』と主張をしているそうです」
「…………あの野郎……」
世海が剣呑な表情で拳を握りしめる。今にも部屋を飛び出していきそうだ。
「落ち着け、誰かを庇っているにしても時間の問題だ。それより、今はもっと大変なことが起きてるぞ」
陳宇翔の苦々しい言葉に、世海は眉間にシワを寄せた。
「どういう意味だ?」
陳宇翔は答えない。なんて言おうか考えているようだ。そしてしばらくしてから、静かなトーンで世海に質問した。
「カイルのパーティーに行った日の事を覚えているか?」
思いもかけない過去の出来事を引き出され、世海は戸惑いを見せる。だが、すぐに苦々しそうに首を横に振った。
「……覚えていない。薄暗かったし、とにかく気持ちが悪くて朦朧としていた」
「写真を撮られた覚えは?」
その問いが投げかけられた瞬間、世海の顔色からすっと血の気が引いた。海帆の胸の奥も、重苦しく沈み込む。
世海は大きく見開いた瞳を泳がせながら、当時の曖昧な記憶を必死に手繰り寄せようとしているようだ。しかし、やがて絞り出すような力ない声で落胆した。
「…………分からない」
消え入りそうな世海の返事を聞くと、陳宇翔はポケットからスマートフォンを取り出した。画面を操作し、ある一枚の画像を、世海の目の前に差し出す。
その画像を見た瞬間、世海の全身が完全に凍りついた。隣に立って画面を見た海帆も、立ちすくむ。
それは、海帆のスマートフォンに届いたのと、まったく同じ写真だった。
液晶画面に映し出されていたのは、薄暗い部屋の中で焚かれた鮮烈なフラッシュの中、それに照らされて力なく崩れ落ちている世海の姿だった。目は閉じられ、口は半開きになっており、酩酊状態であることが一目でわかる。
グロンブル台湾に駆け込んで来た時の、あの痛々しい姿そのままだ。
これだけだったら、ただの泥酔写真だと思うだろう。ショッキングではあるが、深刻さで言えば、過ちとして処理できたかもしれない。
問題なのは、世海は一人で写っていない、ということだった。
脱力する世海の腰の上に、髪の長い女性が跨っていた。カメラに背を向けているため顔は伺えない。ミニスカートから露出した細くしなやかな脚が、生々しい肉感と艶めかしさを強調している。
女性は世海にのしかかり、その手は、意識のない世海のボトムスのウエストラインから下へ向かって、明らかに挑発的な手つきで伸ばされていた。
「……なんだよこれ……」
世海が呆然と呟く。掠れた声には怒りすら混ざらず、ただ圧倒的なショックによって顔面は蒼白になっていた。今にもその場に膝をついて倒れてしまいそうだ。
「…………この画像、陳宇翔さんに送られてきたんですか?」
海帆の低い、絞り出すような問いに、陳宇翔は暗い表情で首を横に振った。
「私が個人的に受け取ったものではありません。……今、この画像がネット上のあらゆるSNSや掲示板で、物凄い勢いで広がっているんです」
陳宇翔の声が、部屋の空気を絶望的な重さで塗りつぶしていく。
「今や凄い騒ぎになってますよ。エリック・スンの大スキャンダルとして」
いつも『Oh! Myリトルマーメイド』を読んでいただき、本当にありがとうございます。
ここで第三章は終わりです。
よくここまでこれたなぁ、としみじみと感無量です。
頭の中でこねくり回していた物語が、文字として起こされる不思議。特にここから先は、絶対に書けないだろうな、と思っていた領域に突入します。
大きな試練が襲い掛かかってきますね。
果たしてどうなることやら。
主人公二人も、作者本人も戦々恐々としております。
少しでも楽しんでいただけるよう、日々精進してまいります。
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。




