↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Oh! My リトルマーメイド  作者: 大城まこ豊
第三章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

47/54

青いカプリシャス

 気配を感じて、海帆(みほ)はふと目を覚ました。

 いつの間にか寝ていたらしい。慌てて時計を見ると、針は午前五時を指していた。リビングの大きな窓の向こうで、夜明けの空が薄闇からやわらかな朝の明るさへと変わりつつある。

(起きたのかな……)

 ソファから身を起こし、隣接する寝室へと視線を向け、少しだけ開けられたドア越しに中の様子を伺う。かすかな呻き声が聞こえる。海帆は怠い体を動かして立ち上がり、寝室のドアを開け、静かに部屋へ足を踏み入れた。

 薄暗い室内。青いファブリックに包まれたベッドで、世海(シーハイ)が眩しそうに片腕で目を覆っていた。

「……世海くん」

 そっと声をかけると、世海は顔を覆っていた腕をゆっくりと下ろし、じっと海帆を見つめ返した。額に貼られた冷却シートが痛々しいほど血の気を奪い、ただでさえ白い肌が蒼白になっている。

「起きた?」

 囁くように尋ねると、世海がかすかに頷いた。

 どんよりとした熱の気配が残るその瞳は潤んでおり、喋ることすら億劫そうだ。

 ストレスを与えないようにすぐ部屋を出るつもりだったが、どうしても胸に引っかかっている事があり、海帆はそっとベッドサイドへ腰を下ろした。黙って自分を見上げる世海の顔を見つめながら、その疑問を口にする。

「なんで世海くんは、私が怪我をすると熱が出ちゃうんだろうね?」

「…………知らねえよ」

 世海の声は掠れていて、その返事はとてもぶっきらぼうだった。

 軽傷を負った海帆の治療が終わった直後、世海は高熱を出してその場に倒れ込んでしまった。海帆は慌てて世海を抱きかかえ、再び診察室へ舞い戻って医師の診察を受けることになった。

 世海はほとんど意識がなく、自力で歩ける状態ではなかったため、遅れて病院に駆けつけたマネージャーの陳宇翔と、世海を一晩入院させるかどうかを相談していた時のことだ。朦朧としながらも目を覚ました世海は、家に帰ると騒ぎ立て、宥めようとした海帆に対し息も絶え絶えに言い放った。

「……目が覚めた時にお前の姿が無かったら、今よりひどい状態になるからな…………」

 そう言い残すと、世海は再び昏倒した。

 どんな脅し文句よりも強烈で、縛りのきつい言葉だった。

 海帆は帰宅することもできず、そのまま世海を連れて、彼の住むマンションへと向かわざるを得なくなったのである。

 陳宇翔と二人で世海を寝室へと運び入れて寝かしつけ、「じゃ、僕はこれで」とあっさり帰ってしまった陳宇翔に取り残された海帆は、世海の飼っている金魚と一緒に広いリビングで夜を明かす羽目になったのである。

「喉乾いてない? 水飲む?」

 サイドテーブルに置いた水を入れた保冷ピッチャーとグラスを手に取ると、「のむ……」とだけ呻いた世海は、ゆっくりと上半身を起こしてグラスを受け取った。

 一気に水を飲み干したものの、おかわりを促す海帆には答えず、再び気怠げにベッドへ倒れ込む。

 マリンブルーの掛布団から覗く、力なく投げ出された世海の腕を見た海帆は、この細腕でよく海帆のことを持ち上げられたものだな、とつくづく感じた。

 人生で初めて経験したお姫様抱っこは、とても不安定で危なっかしく、今にも二人まとめて転びそうな恐怖に満ちていた。あの時のひやりとした記憶はしっかりと心に刻まれている。

 できれば、もう二度と経験したくない。

「…………腕は……」

 眠りに就いたかと思った世海が、小声で何かを呟いた。

「ん? なに?」

 海帆は少し前かがみになり、具合の悪そうな顔を覗き込んだ。

 世海は気まずそうに目を逸らし、ぼそぼそと言葉を足す。

「……怪我した腕はどうなんだ?」

 世海の視線は、包帯を巻かれた海帆の腕へと向けられていた。

 海帆は彼を安心させるように、穏やかに微笑んで見せる。

「大丈夫だよ。もう痛くないし」

 世海はその言葉を少しも信じていないようだった。海帆の手首をそっと掴むと、疑り深い目で巻かれている包帯をじっと睨みつける。そして、その表面を優しくなぞった。

「ちゃんと包帯を替えて、薬は塗ったのか?」

「ちゃんとやりました。大丈夫」

 そう言っても、世海はなかなか手を放してくれない。巻かれている包帯が本当に新しいものになっているのか、自分の手で確かめるまで納得がいかないようだった。

 海帆は世海の気が済むまで腕を触らせておくことにした。

「…………俺のせいだな」

 ぽつりと、世海が小さな溜息とともに呟く。海帆は即座に首を振った。

「世海くんが悪いんじゃない。陰でこそこそと姑息な手を使っている奴が悪いんだよ」

 海帆の脳裏に、サングラスの女の面影が浮かび上がる。今回の騒動が、張偉(ジャン・ウェイ)一人の独断による行動だとは、はなから思っていない。

 背後には確実にあの女がいる。海帆は確信していた。

 世海はしばらく無言のまま、海帆の包帯を優しく撫で続けていたが、やがて消え入りそうなほどの蚊の泣くような声で呟いた。

「……あの時もそうだったな」

「あの時って?」

 海帆が首をかしげると、世海の指が包帯を巻かれた傷口から離れ、腕の内側へと滑る。そこには、海帆が幼い頃に負った、うっすらとした火傷の痕が残っている。

「この痕……お前が小さい頃に作った火傷。思い出したんだよ。転びそうになった俺を庇って負ったんだよな」

 世海の言葉に、海帆は躊躇いながら、小さく頷いた。

 この火傷は、二人がまだ小さかった頃、外で負ったものだった。真夏の炎天下にお出かけをする事になり、先を歩いていた海帆を追いかけて躓いた世海が、路肩に停められていたバイクに衝突しそうになった。咄嗟に支えようとした海帆は、勢い余って世海と一緒に転倒してしまい、その際、海帆の左腕が熱を持ったバイクのマフラーに触れてしまったのだった。

 腕に当たったバイクのマフラーの熱さと、転んだショックで泣き出した海帆に驚いて世海も大泣きしてしまい、結局その日のお出かけは取り止めになってしまった。

「あの時も、俺を助けようとしたんだよな……なんで忘れていたんだろ」

「世海くんは小さかったし、ショックで熱まで出しちゃったから、仕方ないよ」

「だからって——俺のせいで」

 悔やむように世海が呻く。小さい頃の記憶と、現在の状況が混同してしまっている。

 海帆は静かだけど、はっきりとした口調で言った。

「世海くんのせいじゃないよ。あの時も今も、世海くんは何も悪くない」

 それに、と海帆は反省するように付け加えた。

「先に意地悪をしたのは、私の方だったんだよ」

 そう言って、海帆はあの当時のことを話し始めた。

 あの日はとても暑い日だった。連日のうだるような暑さが続き、海帆は珍しく機嫌が悪かった。汗でまとわりつく長い髪も、フリルの多い服も何もかも鬱陶しくて、押し黙って塞ぎ込んでいた。そんな時に世海が「海に行きたい」と言い出し、周囲の大人たちがそれに賛同してしまったので、出かけたくなかった海帆の不機嫌は更に極まってしまった。

 普段なら外を歩く時、必ず世海と手を繋いで歩く約束になっていた。けれども、どうしても繋ぎたくなかった海帆は、世海の支度が整う前に、一人で勝手に歩き出してしまったのだ。おてては繋がなきゃダメなんだよ、と後ろから追いかけてくる世海の声を無視し、わざと聞こえないフリをしてどんどん足を早める海帆に、焦った世海が追いつこうとして、覚束ない足取りで転倒してしまったのだ。

「それで世海くんは転んじゃったの。私のわがままのせいで」

「…………お前のせいじゃないだろ」

 世海は包帯が巻かれた腕から視線を外さず、低く呟いた。

「俺を助けてくれたことに変わりはないよ」

 そう言って、世海は今まで以上に優しく海帆の腕を包んだ。

 触れるか触れないかのような微かな接触だったが、包帯越しに世海の熱が伝わってくる。言い知れない安心感に包まれて、海帆は戸惑いを隠せなかった。

 この温かさに、完全に身を委ねたいと思ってしまっている自分がいる。

 そんな誘惑に抗うように、じっと見つめ続ける世海の強い視線から逃がれるため、寝室の大きな窓へと顔を向けた。外はすっかり朝の光で満ちており、明るくなった空を見て海帆はわざと上擦った明るい声を出す。

「朝になったね! 世海くん、朝ごはん食べられそう?」

「……………………………………なんなんだよ急に」

 いつもの不機嫌な調子に戻った世海の声を聞き、海帆は内心ほっとする。努めて笑顔を浮かべ、彼に向き直る。

「ほら、薬飲まなきゃいけないじゃない? 処方箋には食後って書いてあるから、何か食べないと」

「…………食べたくない」

「そう言わずに。ゼリーとかでもいいんだよ」

 励ますように微笑む海帆を、完全に気分を害した顔で睨みつけた世海は、ぷいっとそっぽを向いて呟いた。

「…………水餃子」

「無理だって。具合悪いんだし。材料も無いよ」

 諦めない男、世海のリクエストを海帆はやんわりと断る。世海はますます不貞腐れた顔をしたが、ブランケットに半ば埋もれながら、くぐもった声で言った。

「……………………プリン」

「プリンだね、分かった。すぐ買ってくるね」

 これ幸いと立ち上がりかけた海帆の手を、世海は素早く掴んで引き留めた。

「買ったやつじゃない」

「へ?」

 世海は海帆の手を引き寄せ、自分の頬に押し当てながら、ズルい程に甘えた、熱に浮かされた瞳で海帆をまっすぐに見つめながら言った。

「手作りのプリンが食べたい……アリエルが作ったやつ」

 固まってしまった海帆を残し、世海はそのまま目を閉じてしまった。


 ◇


『もしもし、海帆? なに急にどうしたのよ。あんたって子は普段ろくに連絡も寄こさないのに、こっちが忙しい時を狙って電話してくるんだから。お母さんね、これから歯医者なのよ。本当そういうところお父さんにそっくりね。元気にしているの? 仕事は順調? まあ、心配はしていないけど、ちゃんとご飯は食べなさいよ。年末は帰って来るんでしょうね? 洋子さん所の紗南ちゃんがね、来年から東京の大学に通うから、その準備で東京に出て来るのよ。そのついでにあんたに会いたいって言ってるの。ほら、受験の時に、海帆の勤め先のホテルに安く泊めさせてあげたじゃない。紗南ちゃんその事ちゃんと覚えていて、改めてお礼が言いたいんですって。偉いわよね。ついでにもう一度あんたのホテルに泊めさせてもらうことってできる? 洋子さんも紗南ちゃんもあのホテル気に入っちゃったみたいで——』

「母さん、プリンの作り方教えて」

 母美帆子の留まることを知らない弾丸トークの、わずかな息継ぎの瞬間を逃さず、海帆は強引に要件を割り込ませた。これくらい強情にねじ込まなければ、一度エンジンがかかった美帆子の喋りを止める術はない。

 電話の向こうで美帆子は『は? なに? プリン——?』と戸惑った声を上げた。

『プリンがどうしたのよ? あんたが作るの? 熱でも出たの?』

 酷い言われようだが、間違いではない。熱を出したのは世海だが。

「小さい頃にさ、よく作ってくれたでしょ、簡単なやつ。あれ教えて」

『ああ、あれね! あんた達好きだったわよね、よく作ったわよ。世海くんも気に入っててね——あんた、あんな簡単なものも作れないの? お母さん、将来困らないように料理は一通り手伝わせたじゃない。あのプリンだって教えたはずよ。忘れちゃったのね? 本当に、自分の興味がないことは絶対に覚えないんだから。昔からそうだったわね、覚えてるの? あんたが中学生だった時、帆波が————』

「母さん、その話は後で聞くから。年末には帰るし、紗南ちゃんのホテルの手配もやっておくよ」

『あらそう? 悪いわね、よろしくね。洋子さん喜ぶわ~』

 能天気な母にもう一度懇願して、プリンの簡易レシピを教えてもらった海帆は、大きく息を吐き出しながら美帆子との通話を切った。

 たった数分の会話で、どっと疲れが出る。

 だが、休んでいる暇はない海帆は書き殴ったメモを片手に、リビングの奥にあるキッチンへと向かった。

 開放的なオープンキッチンは、きれいに磨き上げられ、生活感があまりない。この部屋の主が、普段どれほど料理に興味を持っていないかが一目瞭然だ。

 キッチンだけでなく、ここの住まい全体が完璧なまでに整えられていて、まるでモデルルームのようだった。どこか浮世離れした静けさを纏っている。

 世海が住むマンションは、セキュリティや管理人が常駐する中高層マンションで、リビングとダイニングが一体となった広い空間とペニンシュラ型キッチン、二部屋の個室にセパレートバスルームという一般的な間取りだった。置かれている家具は洗練されているが最小限で、個性的なインテリアの類はあまりなく、住人の個性を主張するものはほとんど無い。

 強いて言うなら、リビングの壁際に置かれた大きな水槽に優雅に泳ぐ黄色い金魚が、唯一の例外的存在のような気がする。

 濃い青色のライティングが施された水槽の中で、一匹だけで泳いでいる鮮やかな黄色い金魚は、優雅に尾ひれをなびかせて泳いでいた。海帆がこの部屋に足を踏み入れた時から、この金魚の態度は一向に変わっていない。外の世界の事などまるで意に介さず、意識を失った主人が運び込まれた時も悠然とたゆたっていた。

「ご主人、目を覚ましたよ」

 水槽に近づき、ガラス越しに声をかけてみたが、金魚は気のない様子でゆらりと向きを変えただけだった。

 海帆は気を取り直して、母から聞き取ったメモを睨みつけた。

 材料はシンプルだ。卵、牛乳、砂糖、そして水とお湯。

 最初にカラメルを作る。耐熱カップに砂糖と水を入れてなじませ、電子レンジで加熱する。取り出したらお湯を加えて混ぜて、冷ましておく。

 次にボウルに卵、牛乳、砂糖を入れてよく混ぜ、滑らかになったら、カラメルの入った耐熱カップに茶こしでこしながら入れ、再び電子レンジで加熱。取り出して粗熱を取り、冷蔵庫で冷やして完成。

 工程だけ見ればとても簡単だ。失敗しようがない、と母美帆子も言っていた。

 しかし、普段お菓子作りなどしない海帆にとっては大事業だった。計量のひとつひとつに確信が持てず、レンジの加熱時間を見つめる目も真剣そのもの。手つきが覚束ないせいで随分と時間を費やしてしまったが、なんとかラップをかけたカップを冷蔵庫の棚へと収めることができた。

 ようやく一息をついて目線を上げたら、リビングのソファに世海が寝ていた。いつの間に移動してきたのか、全く気が付かなかった。

 慌ててソファへと駆け寄って世海を覗き込むと、長い足を窮屈そうに折り曲げて、ブランケットに包まってまるくなっていた。

「……世海くん」

 寝ている世海の側に跪いて静かに声をかける。世海は少しだけ身動ぎして、返事のような唸り声を上げた。

「こんな所で寝ないでベッドに戻りなよ。余計、悪化するよ」

 声をかけても、世海は固く閉じた瞼を動かそうともしない。そっと肩を揺すっても、うるさそうに眉間にしわを寄せるだけだった。

「世海くん」

「……………………ここでいい」

 ようやく声を出したと思ったら、海帆の言う事など聞く気がない返事だった。ブランケットを引き寄せて更にくるまり、テコでも動かない姿勢を見せる。

 海帆は溜息をつき、提案を変えることにした。

「じゃあ、ここで寝るなら、その間に世海くんの部屋を換気してもいい? ついでに、汗もかいただろうからシーツも替えたいんだけど」

「そこまでしなくていい」

 世海はそう言うが、乱れたベッドや湿気を含んだ寝具を放置しておくことはできない。ホテリエの性である。

 勝手にしろよと言う世海の許可をもらい、海帆は寝室へと向かった。

 昨夜から何度か出入りしているが、改めてじっくり見渡すと、無個性なモデルルームみたいなリビングとは違い、世海の寝室はかなり特徴的な空間だった。

 第一印象は、青。

 ベッドリネン、カーテン、ラグ、クッションに至るまで、すべてのファブリックが深みの異なる青系統の色で統一されていて、窓から差し込む朝の光すらも青く染まるようだった。

 涼し気で落ち着いた雰囲気の寝室だったが、なんとなく海帆は海の中を連想させられた。

 デスクやベッドサイドテーブルに細々とした物が置かれているが、基本的にはリビング同様、寝室もきちん整理整頓が行き届いている。海帆は窓を少し開けて朝の澄んだ空気を呼び込み、湿気を逃すために掛け布団を大きくめくった。

 汗を吸ったシーツを手際よく引っぺがし、世海に教えてもらったタンスの引き出しを開ける。予備のシーツを取り出すと、それもまた綺麗なネイビーブルーだった。

(相当、青が好きなんだな)

 イメージカラーや応援カラーも青だったしな、と思い出しつつ、海帆は手際よくベッドメイクを進めていく。シーツの端をマットレスの下へときっちり折り込み、枕カバーを替え、ポンポンと軽く叩いて形を整える。掛け布団カバーも新しいものに替え、ふわりと見栄え良く空気を抱かせるようにベッドの上に広げた。

 簡単なベッドメイクだったが、寝心地のよさそうな仕上がりに満足した。洗濯物となったシーツ類を抱え、寝室を後にして洗濯機のある脱衣所へと向かう。洗濯機に入れるかランドリーバスケットにまとめるか迷っていると、リビングの方からだるそうな声が届いた。

「…………重いもん持つなよ。手を怪我してるんだから」

 どうやら目を覚まして暇になったらしい。

 海帆はシーツをバスケットに放り込むと、リビングへと戻った。

 不貞腐れたような顔をする世海に、苦笑して声をかける。

「これくらい全然重くないよ、シーツだけだし」

「それでもだ。その辺に置いておけば俺がやるよ。お前、むかし膝も怪我してんだから、無理するな」

 海帆は首をかしげた。

「世海くん、私が昔、膝を怪我してたこと、なんで知ってるの?」

 海帆は大学までバレーボールを続けていたが、高校生の頃に一度痛めていた膝を再び怪我してしまい、それが原因で大学後半には思うように跳べなくなり、続けることはできなくなっていた。だが、この話を世海にした記憶はない。

「………………………………前に、話していただろ」

「そうだったっけ?」

 全く思い出せなかったが、本人がそう言うのなら、そうなのだろう。お酒の席か何かで口にしたのかもしれない。

 海帆は深く考えなかった。取り立てて隠すような暗い思い出でもないし。

 なにせ、あの怪我があったから、改めて自分自身について考える時間が増え、台湾へ行くことを思いついたのだ。そしてそこで、今へと続く未来を選ぶ決断をしたのだから。

 あの時、台湾へ来ていなかったら、今の海帆は全く違う人生を歩んでいたはずだ。

 体温計を手にして、海帆は世海の側に座る。

 構ってほしそうな病人の熱を測り、ぬるくなった額の冷却シートを新しい冷たいものへと貼り替える。

「もう少しでプリンできると思うから、それまで大人しくね」

「……うん」

 冷たいシートの心地よさに目を細める世海を横目に、海帆はプリンが出来上がるまでの時間、ソファに座って静かに待っていた。

読んでいただき、ありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。