軽傷、狂騒、重症
刃物独特の鈍い光が視界の端をかすめた瞬間、海帆は反射的に振り返った。
海帆の瞳に飛び込んできたのは、こちらへ猛ダッシュしてくる一人の男の姿だった。
常連男!
もとい張偉の手には、小さな果物ナイフのような刃物が握られている。
「危ない!」
考える余裕はなかった。
海帆はほとんど無意識に、この場で一番大切なものに飛びついた。
世海の頭を抱え込むようにして強く自分の胸元へと引き寄せると、襲い掛かってくる張偉との間に強引に割り込んだ。
鋭い痛みが腕に走る。息をのみながら、世海の頭を強く抱きしめ、二人はもつれ合うように地面へ倒れ込んだ。
「こんの……ッ!」
海帆に頭を抱え込まれた状態のまま、世海は即座に脚を延ばして、目の前に迫っていた張偉の体を、全体重を乗せた渾身の力で蹴りつけた。
くぐもった呻き声を上げて、張偉が後ろに吹き飛ばされる。その衝撃で手からナイフが弾き飛ばされ、甲高い音を立てて夜の路上を滑っていく。
張偉は咳き込みながらすぐに起き上がり、慌ててナイフを拾おうとしたが、世海の蹴りの威力が思いのほか強く、ナイフは遠く離れた暗がりまで滑っていた。さらに、海帆の腕を強引に振りほどき、血走った目で立ち上がろうとする世海の鬼気迫る形相に、張偉はナイフを諦め、脱兎のごとく夜の闇の中へ逃げ出した。
「待て!」
「世海くん、ダメ!」
逆上して追いかけようとする世海の腰に、海帆はしがみ付いて引き留めた。
「なんだよ放せ!」
「ダメだってば! 追いかけるなんて危険すぎる! 別の武器を持っていたらどうするの! まずは通報……!」
そう言いながら、海帆は震える手でポケットから携帯電話を取り出し、緊急ダイヤルを押そうとした。その時、彼女の足元に世海がドサリとひざまずいた。彼の視線は、海帆の右腕の一点に強く固定されている。
「お前、それ……」
「え?」
世海が凝視する視線を追い、海帆は自分の左腕に目を落とした。海帆の肘の辺り、上着の布地がざっくりと割れ、そこから血がじわじわと滲み出していた。
かすり傷とはいえ、一直線に走る切り傷からは思いのほか血が流れており、服の袖を赤く染めている。
さきほど、張偉の刃物から世海を庇った際に負ったものだった。
「大丈夫、ちょっと切れてるだけだから。それより…………世海くん?」
言葉の途中で、海帆は息を呑んだ。
世海は海帆の腕を流れる赤い血を見つめたまま、目に見えてガタガタと震え始めていた。青ざめた皮膚の下から血管が浮かび上り、その目がみるみるうちに怒りで真っ赤に血走っていく。
「し、世海くん?」
「あの野郎……ッ! あの野郎、殺してやる……ッ‼」
髪を逆立てて怒り狂った世海が、弾丸のような勢いで逃げ去った男の方向へ駆け出そうとする。今まで見たこともない彼の激昂に一瞬呆然とした海帆だったが、寸前のところで我に返り、再び彼の腰へ全身の体重をかけて飛びついた。
「放せ!」
振りほどこうとする世海に、海帆は必死になって叫ぶ。
「ダメだってば! 相手は刃物を持っていたんだよ!」
「お前を傷つけたんだぞ! 俺の目の前で……絶対に許さない! 引き千切ってやる!」
「ちょっと切れただけだよ! ナイフ持っていた相手に丸腰で向かうなんて正気じゃない!」
「死んで償わせる……ッ!」
怒りに我を忘れて振り払おうとする世海。普段のスマートな彼からは想像もつかない力任せの暴れように、海帆は必死でしがみつきながら叫んだ。
「償わせるのは警察に捕まえてもらってからだよ! まずは通報しないと! それよりも世海くん、あそこのナイフの写真を撮ってきて!」
「はあ⁉ なに言ってんだよ! あんなのどうでもいい、俺はあの男を————!」
「いいから早く! 撮ってきて!」
海帆の真剣で必死な表情に圧され、世海は一瞬迷った後、「クソッ!」と吐き捨てて殺意を横に押しやり、荒い息を吐きながらナイフの元へと走った。
「素手で触らないで、動かさないでね!」
背中に声を飛ばしながら、海帆は再び震える指で携帯電話を操作し、警察へ通報を開始する。
繋がった通報口に向かって、状況と場所を早口で説明した。
「写真なんて撮ってどうすんだよクソッ!」
世海は散々喚き散らしながらナイフに近づき、携帯電話で撮影を始めていた。通報を終えた海帆が、声をかける。
「警察に通報したよ。世海くんは陳宇翔さんに連絡して来てもらって! 警察の対応は私一人で————」
「お前を一人にして置いていくわけないだろう!」
怒鳴り返しながらも、世海はナイフの写真を携帯電話に収め、すぐさま海帆の元へ戻ってきた。その顔は未だ激しい憤怒に歪んでいる。
「こんなの撮ってどうするんだ!」
「あいつが取りに戻って来るかもしれないでしょ。そうなったら警察が来た時に証拠として画像を見せるの」
「戻ってきたら叩きのめして捕まえてやる!」
「それは警察の仕事!」
いきり立つ世海をどうにか落ち着かせながら、海帆は彼を引きずるようにして寮の玄関へと避難した。
外でのただならぬ怒号と大騒ぎに気づいた近所の住人や寮生たちが、不安そうな顔で廊下や窓から覗き込み始めていた。
騒ぎを聞きつけて駆けつけてきた管理人に事情を説明すると、管理人は顔を青くしながらすぐに救急セットを持ってきてくれた。
「世海くん、警察が来るまでここで待とう」
「……動くな。腕見せろ」
世海は海帆を座らせると、自分もその場にひざまずき、管理人から受け取った救急セットを引ったくるように開けた。その手は細かく震えていたが、処置自体は驚くほど慎重で丁寧だった。消毒液を染み込ませた綿球で、海帆の傷口の周りを優しく拭い取る。その力加減とは裏腹に、巻く包帯の強さは大げさなほど厳重で、これでもかというくらいぐるぐる巻きにされていく。
「世海くん……そんなに巻かなくても大丈夫だよ?」
「黙ってろ。血が止まらなかったらどうするんだ」
そう言う世海の瞳には、まだ怒りと強い不安の色が渦巻いている。
海帆は大げさなほど厳重に包帯を巻いてくれる世海に、静かに礼を言った。
幸いなことに、張偉がナイフを取りに戻ってくる様子はなかった。
しばらくすると、サイレンの音とともに警察官が到着し、二人は現場である外へ出て事情聴取を受けることとなった。
犯人の身長、服装、髪型、そして逃走した方向。海帆は記憶を辿って冷静に警察官へ伝えた。
一方の世海は、俳優である彼の顔が近所に知れ渡るのを防ぐため、警察の気遣いでパトカーの車内で聴取を受けることになった。車内の様子を外から窺うと、彼は顔を強張らせながらも、警察官の質問に対してハッキリと、しかし固い表情で答えているようだった。
聴取が終盤にかかった頃には、世海から一報を受けたマネージャーの陳宇翔も駆けつけ、パトカーから降りてきた世海と合流し、二人は何やら険しい顔で激しい押し問答を始めている。海帆は、二人はそのまま帰るものだと思っていたが、どうやら世海が頑なに拒んでいるらしい。
現場での初期対応とナイフの押収が終わり、後日改めて警察署へ出向いて詳細な調書を作成するための本格的な事情聴取が行われる説明を受ける。
海帆はそれを承諾し、聴取を終えた警察官は帰って行った。
ぼんやりとそれを見送っていると、陳宇翔がため息まじりに声をかけてきた。
「ミホさん……本当に災難でしたね。怪我は大丈夫ですか?」
「陳宇翔さん、大丈夫です。ただのかすり傷ですから」
「そうですか……でしたら、是非ともあのバカにもそう言ってやってください」
渋面の陳宇翔が指さした先では、世海が警察官への対応を終え、一目散にこちらへ駆け寄ってくるところだった。
「おい、終わったのか?」
世海は海帆の前に立つと、彼女の怪我をしていない方の左腕を掴んだ。力加減は驚くほど優しいのに、動作には焦りが滲み出ている。
「行くぞ」
「行くってどこに?」
「病院に決まってるだろ!」
世海はじれったそうに怒鳴ると、唐突に海帆の膝裏と背中に手を回し、横抱きにしようとした。海帆は驚いて、慌ててその手を跳ね返す。
「ちょ、なに! なにするの⁉」
「怪我人はじっとしてろ!」
抱き上げようとする世海の腕から、海帆は身をよじって逃げた。
「怪我は大したことないって言ったじゃん! かすり傷だし、世海くんが手当てしてくれたから、もう大丈夫だよ!」
「大丈夫なわけあるか! 血が出ていたんだぞ! あんな応急処置じゃなくて、ちゃんと診てもらうんだよ! 傷が残ったらどうするんだ!」
世海の瞳は至極真剣だった。本気で海帆の身体と、その腕の傷痕を心配しているのだ。
だが、この傷の手当てをしてくれたのは、他ならぬ世海なのだ。消毒液でこれでもかと清潔にされ、頑丈な包帯で固定されている。これ以上、何の処置が必要だというのだろう。
頑なに病院行きを拒む海帆だったが、世海はそれ以上に頑固だった。
一度散ったはずの野次馬たちが、二人の大声でのやり取りを聞きつけて再び集まり始めている。このままここで押し問答を続けて目立ってしまうのは避けたい。
海帆は観念して病院へ行ことを承諾した。だが、世海に抱えられることだけは承服できなかった。
「わかった、わかった! 病院行くよ! 行くから放して!」
「怪我人は黙ってろ!」
世海は諦めずに海帆の体に腕を回そうとする。その腕から逃れようと、海帆は釣り上げられた魚のように暴れたが、そうすればするほど、世海はますます意地になって捕まえようとしてきた。
「いいよ、いいって! 怪我してるのは腕だから! 足腰は平気だから自分で歩けるよ!」
「うるさい黙れ! 大人しくしろ、暴れるな!」
「本当に大丈夫だから! っていうか世海くん、絶対に無理だから! 私けっこう重いんだよ!」
「俺より重くなきゃ大丈夫だよ!」
どうしよう、自信がない。青春時代をバレーボールに捧げた海帆の全身には、長年の鍛錬によって培われた良質な筋肉がしっかりと付いていて、それなりに体重はあるのだ。
しかも台湾に来てから二キロほど増加している。
俳優名鑑に載っていたエリック・スンの公式体重を思い出して、海帆は顔を引きつらせて固まってしまった。
世海はその一瞬の隙を見逃さなかった。
「ああもう、めんどくせーなッ!」
盛大に舌打ちをかますと、世海は海帆の身体を一気に強引に抱き上げた。
突然の浮遊感に、海帆は全身を強張らせる。
「……ッ…………ッ!」
抱き上げた瞬間、漏れ出そうになる呻き声を、世海は根性で押し殺した。一瞬ぐらりと大きく揺れた後、崩れそうになる膝を歯を食いしばって立て直し、慎重に、けれど一歩一歩ゆっくりと歩き出す。
空中に投げ出されてしまったような、とても不安定で頼りない体勢に、海帆は「落とされるかもしれない」という生きた心地のしない恐怖に、心底から震え上がった。
「し、世海くん……無理しちゃいけない、危ないよ。二人して倒れるよ」
「……だまれ」
今まで聞いたことがないような低い声で世海は唸った。海帆の目の前には、信じられないほどくっきりと浮き出た世海の胸鎖乳突筋と、首筋に激しく浮き出た太い血管が見える。
「おーい、そのまま病院まで歩いて抱えていくつもりか?」
「……………………車までだよ」
陳宇翔の呆れた声を背中に聞きながら、世海は絞り出すように低く答えた。
海帆は母猫に首根っこを咥えられた子猫のように大人しく固まったまま、果てしなく長く感じられる車までの十数メートルの道のりを、生きた心地がないままひたすら耐え抜く羽目になった。
◇
「出血は止まってるし、きれいに洗浄しているね。縫う必要はないから、化膿止めの軟膏を塗ってガーゼを当てておけばいいでしょう」
夜間診療の診察室内。担当の若い女医の温かい言葉に、海帆は心から胸を撫で下ろし、小さな声でお礼を言った。
「……ありがとうございます……」
声が極小なのには、理由がある。車で病院に到着するやいなや、またしても海帆を横抱きにして連れて行こうとする世海と、断固拒否の姿勢を崩さない海帆とで少々揉めてしまい、受付にいた見るからに厳しそうなベテラン看護師に二人揃って叱られたからだ。
大騒ぎをしながら押しかけて来た騒々しい患者に対して、嫌な顔を一つもせず、手際よく傷口を治療してくれる女医の手つきはとても優しかった。海帆はすっかり安心しきって、手当てに身を委ねる。
「傷痕は……残りませんか?」
海帆の背後を陣取っていた世海が、身を乗り出すようにして尋ねた。手当てを受ける海帆の腕から、片時も目を離さない。
「きれいに切れていますから、適切な処置を続ければ痕は残りませんよ。応急処置がよかったですね」
褒められたというのに、世海の青ざめた顔色は一向に戻らなかった。それどころか、海帆の真っ白な包帯を見つめる彼の瞳は、未だに酷く揺れている。よほど海帆の怪我がショックだったのだろう。
それ以降、世海が言葉を発することはなく、海帆は普段の生活での注意点などを聞き、礼を言って診察室をあとにした。
夜中ということもあり、病院の廊下は人気がなく、閑散としている。二人の足音だけが、やけに虚ろに響き渡っていた。
会計のため静まり返った受付へと向かいながら、海帆は隣を並んで歩く世海に気遣うように声をかけた。
「世海くん、ありがとね。すぐに手当てをしてくれたから、痕に残らなくて済むって」
「…………うん」
世海からの返事は、どこか空々しい生返事だった。
「こんな時間までやっている病院があってよかった。世海くんも診てもらった方がいいかもよ……腰とか大丈夫?」
「……………………うん」
「……世海くん?」
心ここにあらずといった様子の世海を訝しく思い、海帆は隣を歩く彼の横顔を覗き込んだ。
世海の目は焦点が全く定まっておらず、ぼんやりと空間のどこかを見つめながら機械的に足を動かしているだけだった。診察室を出てから、彼の顔色はさらに土気色へと悪化している。
「どうしたの? 世海くん」
返事がない。
様子がおかしいと察し、そっとその肩に手を伸ばした瞬間。
世海の体がグラリと力なく傾き、壁にもたれかかるようにして、糸が切れた人形のようにずるずると床へ崩れ落ちていく。
「世海くん⁉」
海帆は悲鳴を上げ、怪我をしていない方の腕で倒れ込む彼の身体を必死に抱きとめた。
「世海くん、どうしたの! 世海くん!」
いくら名前を呼んでも返事はない。世海は海帆の腕の中でぐったりと頭を垂れ、完全に意識を失っていた。
その体は燃えるように熱くなっていた。
読んでいただき、ありがとうございます。




