密やかに甘く 静かに蠢く
『ミホさ~ん、なんで帰っちゃったんですか! あの後もメチャクチャ面白かったんですよ!』
携帯電話の受話口から聞こえるジェシカの非難めいた甲高い声に、海帆は力なく苦笑いを浮かべた。
「ゴメンね。会場の熱気と人混みに酔っちゃって、息苦しくなって……最後まで観たかったんだけど、ちょっと限界だった」
そう言って電話越しに謝った海帆は、フェスは何事もなく無事に終わったのかとジェシカに尋ねた。
ジェシカは弾んだ声で「それはもう!」と即答する。
『楽しかったですよ! 途中で客席降りとかもしてくれて、物凄いファンサービスでした! やっぱりCoquilleプロダクションのイベントとなると違いますね! ダニエルも大満足だったって興奮してましたよ』
でも、とジェシカは少しトーンを落として言葉を続けた。
『エリックはちょっと元気がなかったですね。ミホさんが途中で帰っちゃったからですよ、きっと』
「そんなことないでしょ」
海帆はそう言って受け流し、借りていたウィッグは明日職場で返すからと伝えて通話を切った。
スマートフォンの画面が暗転すると、途端に室内を重苦しい静寂が包み込む。
海帆は深いため息をつき、そのままベッドへと倒れ込んだ。
サイドテーブルには、脱いだウィッグ置かれている。寮の部屋に帰ってきて真っ先に外したものだ。それ以外の服装は、出かけた時のまま。服にシワが寄るのも気にせず、海帆はそのまま横になって天井を見つめていた。
常連男を取り逃がしてから、海帆は会場へ戻る気力を完全に失った。ジェシカに「体調が悪いから先に帰る」と短くメッセージだけを流し、逃げるように会場をあとにしたのだ。
とてもじゃないが、あそこに戻って何事もなかったかのようにフェスを楽しむ気分にはなれなかった。
外の陽はとっくに落ち、部屋の中は薄暗い濃紺の影に覆われている。その暗がりの中で、海帆はずっと常連男の顔を思い出していた。
なぜ、彼は今もまだ世海の周囲にいるのか。目的は一体何なのか。もういい加減、自分達の前から消え去ってくれないだろうか。
あの不気味な常連男も、不敵なサングラスの女も、早くいなくなってほしい。
海帆は深く眉間にシワを寄せ、溢れ出しそうな不安を押し殺すようにぎゅっと身体を丸めた。
(…………世海くんは、あの後大丈夫だったのだろうか。元気がなかったって、何かあったのかな)
心配が、頭をもたげてくる。一瞬、自分から電話をかけようかと指を動かしかけたが、すぐに思い直して手を止めた。
大丈夫なはずだ。それに、また出しゃばって「余計なことをするな」と怒られるのも尺に障る。
そう自分に言い聞かせた直後、まるで海帆の迷いを見透かしたかのように、スマートフォンが激しく振動しながら着信音を鳴らし始めた。
画面に表示された名前を見て、海帆は固まる。
案の定というか、かけてきたのは世海だった。
「……………………」
正直なところ、今は精神的に疲れていて出たくない。無視してしまおうかとも思ったが、世海がこの程度で引き下がるはずもない。出なければ出るまで何度でもかけ続けてくるのは目に見えていた。
大きくため息をついて、海帆は手の平で主張を続けるスマートフォンを取り上げた。
「…………なに?」
『途中退場は厳禁だって言ったはずだろ』
開口一番、受話口から届いた不機嫌さを隠そうともしない低い声に、やっぱりバレていたかと二度目のため息を漏らした。
「仕事お疲れさま。フェスは無事に終わったの?」
『当然だろう、大成功だ。————そんなことより、何で途中で帰ったんだ?』
海帆にとって、それは今もっとも触れられたくない質問だった。だが、世海からは答えるまでは絶対に引かない、という強い意志がひしひしと伝わってくる。
「…………怪しい動きをしている人がいて、注意するつもりで声をかけたら、知っている顔だった」
『誰だ?』
「うちのバーに入り浸って、世海くんの情報をやたらと聞きまわっていた男。世海くんをクラブに連れ出してた奴」
世海はしばらく無言だったが、「それで?」と先を促した。海帆は諦めて事の顛末をかいつまんで語った。
説明をしている間、世海が口を挟むことはなかった。だが、男の背後から声をかけて、いきなり殴りかかられたという下りでは「おい……!」と怒りを滲ませた声を上げた。
『殴られたのか!』
「殴られてないよ、避けたから。でも、そのまま逃がしちゃった」
悔しさと不甲斐なさを滲ませた海帆の声を聞き、電話の向こうで世海は安堵したように深く息を吐き出した。
『逃げてくれてよかったんだよ。そのまま向かってこられたらどうするつもりだったんだ。無茶するな』
自分を案じて叱りつけてくれているのは痛いほど分かる。だが、海帆は歯がゆい気持ちを言わずにはいられない。
「分かってるよ。でも、いい加減うんざりしてるんだよ。こんなにしつこく周りをウロウロされてるのに、相手の名前すら知らないなんて……世海くんだってそうでしょ?」
海帆の切々とした訴えを聞いて、世海は大きくため息をついた。
『男の名前は張偉。臨時で雇われたスタッフの一人だ』
「え……?」
予想外の言葉に、海帆は慌ててベッドから跳ね起きた。
「名前が分かったの⁉」
『トラブルを起こした機材の事を運営に問い詰めて、調べさせたんだ。そしたらその機材の近くに、工具とスタッフ証が落ちていた。それで判明した』
「機材のトラブルのこと、気づいてたの?」
『お前がやたらと気にしてたからな。お陰で早めに対処することができたから助かったけど』
ライブの構成を変えたのはそのためだったのか。小華と絡んで観客を沸かせたのも、機材トラブルから客の意識を逸らすため、敢えて故意にやったのだという。
海帆は信じられない気持ちで、受話口から聞こえる世海の淡々とした説明を聞いていた。
得体の知れない気味の悪い影でしかなかったあの常連男が、いま一人の人間として一気に輪郭を持った。
「張偉……」
『偽名だろうけどな』
世海の冷静な補足に、海帆は小さく頷いた。教科書などによく出て来る、ポピュラーな名前なのだ。
それでも、ただの不気味な影に名前がついたという事実は大きい。海帆は活力が漲ってくるようだった。
「警察には言った?」
『まだできない。機材に意図的な細工の痕跡は残っていたけど、落ちてたスタッフ証と工具だけじゃ、そいつを通報することはできない。運営に文句を言って終わりだ』
「そんな……」
海帆はまたしても歯がゆさで拳を握ったが、世界の声は落ち着いていた。
『でも、顔写真は手に入った。これで、俺とお前以外にも、男の存在と警戒を知らせることができるようになったんだ。一歩前進だろ』
それを聞いて、世海もまた自分なりに状況を把握して、対応していたのだと、海帆は今更ながら思い知らされる。
「世海くん……色々考えていたんだね」
『俺の事アホだと思ってるのか? 自分の周りで起きてることくらい分かってるよ。お前を巻き込みたくなかっただけだ』
世海はそう言って、電話の向こうで鼻を鳴らした。
『でも、お前は好き勝手に動き回るし、妙に無鉄砲だからな。イベントの途中で急にいなくなって、どんだけ心配したと思ってるんだ』
「………………ごめん」
素直に謝る海帆の声を聞いて、世海は声のトーンをわずかに和らげた。
『アリエル、相手はな、おそらくこういう妨害工作に慣れてる奴だ。俺に個人的な恨みを持つ誰かが雇った奴かもしれない。どちらにしろ、一般人が関わっていい相手じゃないんだ。もし、張偉が刃物でも持っていたら、お前はどうなっていたと思う』
静かに、けれども断固とした意志を込めて、世海は海帆に言った。
『もう二度とするな』
怒りや苛立ちを込めたものではない、落ち着いた口調の世海の言葉は、海帆の心に重く響く。
「————分かった」
神妙に答えた海帆の返事に、電話の向こうで世海が安堵する気配が伝わってきた。
そして束の間、二人の間に静寂が流れたあと、世海はおもむろに拍子抜けするような声を上げた。
『腹が減ったな』
「……………………そう?」
こちらは緊張の糸が切れて、とても食事など考えられる心境ではないのだが、世海はもう一度『腹が減った』と子供のように言い張った。
『なんか食いに行こう』
「今から?」
『うん』
正直、そんな気分にはなれないし、できれば、このまま布団をかぶって不貞寝したい。だが、世海に引く気はないようだ。
『行くぞ』
「……一緒に外出るなって言われてるじゃん」
『大丈夫だよ。人目につかないで飯食えるとこ知ってるから。美味いし。奢ってやるから早く出てこい』
なんでいつもこう上から目線の命令口調なのかな、と呆れつつ、断り切れないのはなぜなのだろう。
世海の語尾の端々に、どこか甘えて懇願するニュアンスを感じ取ってしまうからだろうか。
それとも、ただ単に忘れていた空腹感が蘇ってきただけなのかもしれない。奢ってくれるし。
「…………分かった。お店の場所教えて」
『連れて行くよ』
「いいよ、人に見られたらどうするの」
『大丈夫だよ、車だし。それに——』
電話の向こうで、世海がニヤッと笑う気配がした。
『もう、お前ンんちに着いてるよ。玄関の目の前だ』
◇
「いらっしゃーい! お二人様! さあどうぞ、奥へどうぞ!」
「俊宏、奥の席いいか?」
「ミホさ~ん! 久しぶりだね! 元気だった?」
「トシさん、お久しぶりです。元気ですよ。お邪魔しますね」
世海の親友、呂俊宏の店は、今夜も活気に満ちていた。
二人は賑やかな表の出入り口ではなく、スタッフ用の裏口から店内へと入り、呂俊宏に案内されるまま奥の席へと足を進めた。
「人目につかないお店って、トシさんの所ね」
「ここなら安心して飯が食えるからな。美味いし。店長ウザいけど」
ぶつぶつと世海がぼやく。親友に無視されたのが気に食わないらしい。
相変わらず仲がよさそうで何よりだ。
通された席は完全な個室と言うよりは、木製の衝立で仕切られた半個室のようなスペースだったが、確かに外部からの視線は遮られている。
いつもの世海の特等席の方が、店全体を見渡せて好きだったんだけどな、と少し残念に感じながら海帆はメニューに目を通した。
「悩むな~。世海くんは何にする?」
顔を上げると、向かいに座る世海がじっと真剣な目つきでこちらを見つめていた。
「なに?」
「……いや、べつに」
そう言いながらも視線を逸らそうとしないので、海帆は眉をひそめて少し語気を強めた。
「なんなの?」
「……………………あのウィッグって、お前の?」
観念した世海の呟きを聞いて、海帆は一瞬、何を言われたのか分からなかったが、フェスで被っていたジェシカから借りたウィッグの事だと気づき、首を横に振った。
「違うよ。今日一緒にフェスに行った職場の同僚が貸してくれたの。ゲイ騒動とかあったから、念のための変装用に」
「ふうん」
世海は気のない返事をし、少し間を置いてから再び口を開いた。
「もう被らないのか?」
海帆は何を言っているんだ、と目を丸くした。
「被んないよ。思った以上に重くてメチャクチャ鬱陶しかったんだから。私はショートの方が性に合っているし、こっちの方が落ち着くよ」
「…………そうかな」
世海はボソッと呟いて、手元のメニューに視線を落とした。なんだか、少し残念そうだ。
その様子を見て、そう言えば先ほど、寮の玄関から出て世海の車に乗り込んだ時も「ウィッグ被らないのか?」と真っ先に聞かれたことを思い出した。
もしかして、あのロングヘアーのウィッグを被って欲しかったのか。
海帆としては、あんな鬱陶しいものは二度とごめんだと思っているのだが。
「そう言えば、世海くんさ」
「なんだ?」
注文を終え、一息ついたところで改めて声をかけると、メニューを眺めていた世海が顔を上げた。
海帆は、フェスの最中からずっと気になっていた疑問を口にした。
「あんなに大勢の観客がいたのに、なんで私の事が分かったの?」
フェスの序盤であっさりと見つけられたことが、未だに信じられなかった。完璧な変装、とまではいかないが、自分なりに普段とは違う装いをしたつもりだったのだ。
世海は、なんてくだらない質問なんだ、と言いたげな表情を浮かべ、心底あきれ果てた様子で海帆の事を見返した。
「分かるに決まってるだろ」
「いや分かんないよ」
海帆が反論すると、世海はやれやれと首を振った。ちょっと大げさな態度に腹が立つ。
「俺の事なめんなよ。俺の目はな、裸眼じゃ何も見えなくても、お前のことだけは認識できるようになっているんだ。ましてや今日のフェスではコンタクトをしていたんだから俺に死角はない。ウィッグと眼鏡程度で誤魔化せると思ったら大間違いだ」
「…………へえ」
自信満々に言い切る世海に、なんと返せば正解なのか分からず、海帆は引き気味に相槌を打つにとどめた。
「お前こそ、なんでフェスに来たんだ? アリエル」
今度は世海に質問をされ、海帆は少し考えてから答える。
「職場の同僚に誘われたの。営業の人がいいチケットを取ってくれたからって」
「ふーん」
世海は面白くなさそうに呟いた。
「……来る気が合ったんなら、俺がもっといい席を用意してやったのに」
「あの席だって十分いい席だったよ」
「ふん」
世海はそっぽを向いた。あからさまに機嫌が悪い。
「なに怒ってるの?」
「…………今日フェスがあることも、そこで俺がMCをやるってことも、俺は事前に伝えていたんだぞ」
「え……」
海帆は言葉を失って、脳内で頭を抱えた。ここ最近は、世海からのメッセージを、ろくに読んでいなかったのだ。
「…………ごめん。ちゃんと読んでなかった」
「返事がないから、まだ怒ってるんだと思ってた」
「怒ってないよ。ただ、なんとなく見逃してただけで」
「なおさら悪いだろ」
世海は呆れたように言いながらも、ふっと何かを諦めたような顔で笑った。
「まあいいよ、来てくれたし。上出来だ」
今まで見たことのない笑顔に、海帆は慌てた。罪悪感が物凄い。
「本当に見逃してたんだよ。毎日来るから追いきれなくて」
思わず言ってしまった言葉だったが、それを聞いた瞬間、世海の笑顔が消え、真顔になって海帆の目を真っすぐに見つめ返してきた。
「毎日送らないと、お前は俺の事なんてすぐ忘れるだろ」
静かな声だった。でも、その言葉を聞いた途端、まるで殴られたような衝撃が海帆の胸に走った。
そんなことない、と言おうとしたところで、「お待たせしました!」と威勢の良い声と共に、出来立ての料理が運ばれてきた。
そのまま俊宏がテーブルに加わり、世海との軽妙な掛け合いが始まってしまったので、海帆は世海の言葉を否定するタイミングを完全に逃してしまった。
料理は美味しかったし、世海の機嫌も直って、呂俊宏の明るい人柄も手伝って、食事の時間は終始穏やかで楽しいものだったが、拭い去れない焦燥感のようなものが海帆の心に残る。
店を出て帰りの車内に揺られている間も、その思いはどんどんと膨らんでいくばかりだ。寮の前に車が止まり、送り届けてくれた世海にお礼を言って車を降りたものの、このまま背中を向けて別れることはできなかった。
いよいよどうにかしなければいけないと、玄関の前で海帆は意を決して振り返った。
「世海くん、さっき言われたことだけど、私ね————」
「部屋が見たい」
「え?」
突然なんだ、海帆はぽかんと口を開けた。
世海は車から降りて歩み寄ってくると、まっすぐ海帆を見下ろして低く囁いた。
「君の部屋を見てみたい」
言葉の意味がすぐに理解できない。
海帆はしばらく真面目な顔をする世海を見上げていたが、ようやく我に返り、やんわりと首を振った。
「無理だよ。この寮は原則、入居者以外の立ち入りは禁止だし、入れても家族だけとかだから」
「母さんは何度も入ったって言ってたぞ」
食い下がる世海に、海帆は困ったように首に手を当てた。
「メグさんは、料理を差し入れしてくれてるんだよ。台湾でのお母さんみたいなものだし」
「俺だって家族みたいなもんだ」
真顔で主張する世海は、まるで駄々をこねる子供のようだ。海帆は腰に両手を当てて、少し厳しめに言った。
「ダメ。弟ならまだしも、一人暮らしの部屋に男の人を上げるわけにはいきません。常識です」
世海は悔しそうに唇を尖らせると、視線を落として拗ねたようにぼやいた。
「……じゃあ俺はいつ、お前が作る水餃子を食べられるんだ?」
その言葉を聞いて、海帆はしまったと内心焦った。
完全に忘れていた。
以前、今度作ってあげると軽口をたたいた水餃子の約束を、すっかり失念していたのだ。
世海は、恨めし気にじっとりと海帆のことを見つめている。海帆は内心の動揺と申し訳なさを隠すため、必死に平静を装った。
「……………………そのうち」
「いつ?」
こういう時の世海は、自分が納得のいく答えをもらうまで絶対にテコでも動かない。
どうしたものか、と海帆は心底困った。
いくらなんでも、夜中に世海を部屋に上げる訳にはいかない。それは譲れない一線だ。
だが世海からも頑なな意志の強さを感じる。
世海の瞳から放たれる熱量は増すばかりで、言葉以上に強い圧力を持って海帆の全身を縛り付けてくる。
その強い視線に射抜かれ、海帆はどうしても目を逸らすことができなかった。
「アリエル……」
夜の静けさに溶けるような甘い声で、彼しか呼ばない愛称を囁かれ、海帆の頭の中は急速にキャパシティを超えて乱れていく。
胸が激しく高鳴り、この場から逃げ出したいような衝動に駆られ、軽いパニック状態に陥った。
そのため、気づくのが遅れてしまったのだ。
通りの暗闇の奥から、ひとりの男が足音もなくじわじわと二人へ近づいてきていることに。
その男の手元には、街灯の光を鈍く反射する、鋭利な刃物が握られていた。
読んでいただき、ありがとうございます。




