Coquilleフェス・青の残響
「ステージ上のカッコいい姿は見ましたね! 次はファン必見のゲームコーナーです! 皆さんの推しの違った一面、可愛い姿を見てみましょう!」
メレディスの掛け声とともに、会場の熱気は一気に最高潮へと達した。
フェスの中盤、ステージ上にはCoquilleプロダクションに所属する豪華な面々が一堂に会していた。
若手の総出演はもちろん、海帆でも知っているようなベテラン俳優まで顔を揃え、ジャンルの垣根を超えたお祭りのような賑わいを見せている。普段は見られない、人気俳優とモデルなどのレアな絡みに、客席からは絶えず歓声が上がっていた。
「エリック! 準備はいい? 始めてちょうだい!」
お題を体一つで表現するジェスチャーゲームに選ばれたのは、世海と本日限りの限定ユニット『TIDALー4』の最年少メンバーだった。
小華と呼ばれているその少年が、四苦八苦しながら繰り出すジェスチャーを、世海は真剣な眼差しで見つめている。
「小華、緊張してますね。憧れのエリックとのゲームですもんね」
隣でジェシカが微笑ましそうに声援を送っていた。
TIDALー4の小華は、エリック・スンの大ファンで、彼に憧れてオーディションを受けることを決意したという話を恥ずかしそうにしてから、メレディスが気を利かせて二人を絡ませるような進行をしていた。
海帆も心の中で彼を応援しつつ、密かに世海の様子を窺っていた。
フェス序盤に視線が絡まって以降、世海がこちらを見る様子はない。やたらと目が合うようであれば退場しようと考えていた海帆は、ホッとすると同時に、どこか息を詰めるようにして彼の挙動を注視していた。
今の世海は相方の必死な姿に集中しており、海帆のことなど微塵も気にとめていないようだった。
やがて制限時間のブザーが鳴り、ステージ上に勢いよく白いスモークが噴射された。
回答が間に合わず、スモークを正面から浴びた二人に、会場から悲鳴と爆笑が湧き起こる。二人は苦笑いを交わしながら、コソコソと舞台袖へ退場していった。
海帆が異変に気が付いたのは、二人が舞台中央から立ち去ろうとした時だった。
(……焦げ臭い)
それは、とても小さな違和感だった。演出用スモークの甘い香りの裏に紛れた、ほんのわずかな異臭。海帆意外に気が付いている人はいない、それほど微かなものだった。
ビニールが熱で溶けるような特有の匂いに、職業柄、火気管理に敏感な海帆の皮膚が粟立った。
配線コードか。
視線を音響スピーカーへ走らせると、先ほど噴出したスモークが、まだ微かに漂ってる。ほんのりと青白い煙の辺りから、密度の違う異質な気配を感じた。
「ミホさん……」
隣のジェシカも異変に気づいたのか、硬い表情で振り返った。
海帆は何でもない事のように囁き返す。
「落ち着いて。騒がないようにね。今からスタッフに伝えてくる」
囁くように言い含めると、海帆は人混みを掻き分けて会場の端へとへ移動した。
タイミングよくインカムを装着した警備スタッフが通りかかるのを見つけると、海帆はファンのフリをして通路側に寄り、スタッフが来るまでその場に立ち止まった。
そして見回りのスタッフがすれ違うタイミングで身を乗り出し、小さいけれど低く明瞭な声で告げる。
「あそこのスピーカー裏、配線の焦げ臭い匂いと青い煙が上がっています。確認をお願いします」
スタッフがぎょっとした顔で目を見開いたが、海帆の真剣な表情を察し、無言で素早く指示された場所へと向かった。
「ねえ、何か変な匂いしない?」
「え、そう?」
すぐ近くにいる観客の会話が聞こえ、海帆の体に緊張が走る。
ここでパニックが起きれば危険だ。
あのスタッフの対応が早く済みますように、と祈る気持ちでいた時、海帆のいる場所の反対側のステージ端から、大きな歓声が上がった。
ステージを見ると、怪しい機材がある舞台の反対側で、世海と小華が仲良さげに絡んでいるところだった。
恥ずかしそうにする小華の肩に世海が腕を回したり、頭をポンポンと撫でてあげるたびに、黄色い悲鳴がそこかしこで上がる。
客席中の視線が一斉に世海たち二人に注がれ、スピーカー周りで機材の確認を始めたスタッフに気づく者は誰一人いなくなった。
海帆は呆然とステージ上を見上げ、ホッとして息を吐く。
たまたまかもしれないが、いいタイミングだったと安堵すると、世海がチラッとこちらを見たような気がした。
ドキリと心臓が跳ねる。だが、世海の視線はそのまま自然に客席全体へと流れていった。
やがて機材裏からスタッフが離れ、異臭も収まったようだ。海帆は胸を撫で下ろし、席へと戻っていった。
「ミホさん、どうでした?」
席にたどり着くと、ジェシカが心配そうに聞いてくる。
「大丈夫、スタッフが何とかしてくれた。多分、配線コードが過負荷の熱で溶けたんだと思う」
周囲に聞こえないように小声で伝えると、ジェシカは安心したように頷いた。
「よかったです。でも、問題を起こしたのがメインスピーカーだったら、この後のエリックのステージに影響が出ないといいですね」
ジェシカの表情が心配そうに曇る。海帆もその事が気がかりだったが、ここで不安がっても仕方がない。
「きっと、大丈夫だよ。それより、さっき凄い盛り上がっていたけど、何があったの?」
先ほどのハプニングの事を聞くと、ジェシカはパッと顔を輝かせた。
「もう凄かったんですから! ミホさん、面白いもの見逃しましたよ! エリックと小華がめっちゃ仲良くじゃれ合ってムチャクチャ可愛かったんです!」
ジェシカは興奮した様子で、エリックと小華のイチャイチャの一部始終を詳しく教えてくれた。
その間にも、ステージ上でのジェスチャーゲームやミッションチャレンジなどが滞りなく進み、普段は憧れて見ている推しアーティスト達の素の姿を堪能する時間が過ぎていく。
そして、世海のソロステージの時間が訪れた。
メレディスの紹介とともに、会場の明かりが一斉に落ちる。
一瞬の暗転の後、ステージ中央を穿つように一本の鋭いスポットライトが落ち、アコースティックギターを抱えた世海が白く浮き上がった。
「今日は、とても緊張しています。皆さんの前でこうして歌うのは、なんだかすごく恥ずかしいですね」
マイクを前にして照れたように微笑む姿に、客席から歓声が漏れる。
世海がギターを構え、長くしなやかな指先で静かに弦を爪弾いた瞬間、その場の空気が一変した。
静寂を破って響いたのは、切なくも美しい澄んだ音色。しっとりとしたメロディーに乗せて、世海の低く掠れた優しい歌声が、会場全体を包み込むように広がっていった。
—時々、自分が嫌いになる
—いつまでも君のことを考える自分のことが、たまらなく嫌になるんだ
—毎日が本当にひどく憂鬱で
—きっと僕は、正気を失いかけている
それは、痛いほどの執着を秘めたラブソングだった。
憂鬱と孤独を抱え、渇きを満たしてくれるただ一人の存在に対して、抑えきれない狂おしい情動を切々と訴えかける、そんな歌だった。
伴奏はギター一本のみ。誤魔化しの効かないストイックな構成だからこそ、圧倒的な歌唱力と指先から生まれる繊細な表現力がダイレクトに伝わってくる。
観客は固唾をのんでステージを見つめ、会場には息をのむような濃密な静寂が満ちていた。
—だってすごく寒いんだ
—言っただろ
—正気を失いかけているんだ
—自分の一部を失って、空いた穴を満たせるものは限られているのに
—君はただ、僕に笑いかけるだけなんだ
海帆もまた、その場から一歩も動けずにいた。胸の奥を直接掴まれたような圧迫感に息を詰める。
クライマックスに向け、激しくかき鳴らされるギターの残響と熱を帯びた歌声が空気を振動させる。
そして、世海はすっと目線を上げ、真っ直ぐに海帆を見つめた。
暗がりの中に紛れていたはずの海帆の姿を、まるで最初から知っていたかのように射抜く。
—時々、自分が嫌いになる
—いつまでも君のことを考える自分のことが、たまらなく嫌になるんだ
射すような強い視線と、歌声に込められた切迫した感情が、胸に直接突き刺さる。海帆は目を逸らすこともできず、金縛りに遭ったかのようにその眼差しを正面から受け止めることしかできなかった。
やがて歌い終わりの余韻を残し、静かにアウトロが流れていく。
ギターの弦が最後の一音を鳴らし、その残響が消え去った一瞬の空白後、割れんばかりの拍手と悲鳴にも似た歓声が会場を揺らした。
「ミホさん、なんか凄かったですね! 凄かったです!」
ジェシカが感激した様子で拍手をしている。何人か泣いている子もいるようだ。
「………………うん」
海帆はぼんやりとステージを見上げながら、先ほど世海と見つめ合っていた時の呪縛から抜け出せないでいた。
「エリックは凄いなぁ。凄くいいライブだったけど、なんで予定と違う曲を歌ったんだろう」
ダニエルが拍手をしながら、首を傾げた。
「え、もともと予定されていた曲があったの?」
ジェシカが尋ねると、ダニエルは頷いて二人に説明してくれた。
「今、放送されているドラマ、Prisoner of Loveの主題歌を歌う予定だったんだよ。ちょっとアレンジした曲調で歌うって言われていたから、楽しみにしていたのに」
「こっちの方がいいわよ! 断然、いい! わたし、エリック見直しちゃった。ちょっと固い性格なのかなって思ってたのに、あんなに恋心を切なく歌えるなんて、いい奴じゃん!」
ねえミホさん⁉ とジェシカに同意を求められるのに対し、海帆は「そうだね」と曖昧に笑うのが精一杯だった。
今、世海は、会場中の拍手が鳴りやまない中、舞台袖から現れたメレディスに盛大に褒めそやされている。客席からはエリックへの賛辞がそこかしこで上がっていた。
世海は照れた様子で、客席へ向けて手を振り、声援に向かって笑いかけていた。
「皆さん! エリックのカッコいい姿は十分に堪能しましたね? 続いてはトークイベントです! 皆さんからいただいた質問に大真面目に答えますし、プライベートなスマホの中身の画像などを見せてもらいましょう! もちろん、エリックにも答えてもらいますよ!」
会場から歓声が沸き上がり、ステージが再び煌々と照らし出された。イベント名やロゴを入れたバックパネルを背景にした、トークイベント用のセットが現れる。
続々と、事務所を代表するアーティスト達が現れ、背もたれ付きの椅子やスツールにリラックスした様子で腰かけた。
会場中から、それぞれの推しの名を叫ぶ声が次々と上がる。
「お待ちかねの時間が来たね!」
ダニエルが嬉しそうにして横に立つジェシカと海帆に笑いかけた。とても嬉しそうだ。
「トークイベントって何をするの?」
海帆の質問に、ジェシカが笑顔で答えた。
「色々ありますよ! Q&Aコーナーとかドラマ撮影とかの裏話なんか聞かせてくれるんです。メレディスが言ってくれたので、スマホの中の写真もいくつか見せてくれそうですね!」
「横繋がりの雑談みたいな感じになっていくから、誰と誰が仲がいいとか分かるのも面白いよ」
ダニエルも嬉々として説明してくれる。
色んな企画があるんだな、と少々情報過多な頭を整理している間に、トークイベントは始まった。
まずは、それぞれの仕事の近況報告会だ。いわゆるビハインドトークで、最近の仕事の裏側を写真や動画とともに振り返って、本人が説明してくれる。俳優だったらドラマや映画の制作秘話、アーティスト達は自分の作品の紹介などだ。
それが終わると、事前に募集した質問に答えるQ&Aコーナー。
やはりと言うべきか、当然なのか、最も多い質問は独身タレントに宛てた「現在、恋人もしくは意中の相手はいますか?」というものだった。
聞かれた側は苦笑をしながら、それぞれ気の利いた返事をして場を和ませる。
司会進行役の世海も同様に質問されて、どこかミステリアスに微笑みながら答えていた。
「それは僕のプライベートな機密情報なので、有料です」
同年代や先輩タレント達に囃し立てられても、世海はその笑顔を崩さなかった。
「なんか仕事中のミホさんみたいな笑い方でしたね」
ジェシカがそんな事を言いながら笑うので、海帆は少し居心地が悪かった。
それでも、トークイベント自体は、とても面白かった。
やはり同じ事務所ということもあって気安いのか、硬派なイメージだと思っていた強面の俳優が実はいじられキャラだったり、それぞれが仲の良い同僚タレントの前だからこそ見せる、リラックスした素の表情などが見られて新鮮に感じる。
推しの新しい一面が見られるのは、こういった場面なのだろう。
Q&Aコーナーがそのうち、ステージ上のタレント同士の互いへの質問へと移行し、少し際どくプライベートへ切り込んだ話しが展開される。観客の関心も最高潮に高まった。
スマホの最新写真紹介などで、私生活をのぞき見できるような話の後、トークの延長でカバンの中身紹介が始まった。
若手タレントやTIDAL-4などが恥ずかしそうに紹介していく中で、世海にも話の矛先が向けられる。
海帆は少し緊張したが、几帳面な世海のことだから、怪しいものは入れていないだろうと安心していた。
実際、今日紹介した中で一番つまらないカバンの中身だ、とメレディスから酷評されている。
「エリック、瓶ビールをリュックに仕込むくらいの事はしなさいよ!」
そう言って会場を盛り上げていたメレディス。だが、世海のカバンを覗き込んだステージ上の出演者が、何か気になる物をみつけたように発言した。
「それは何? エリック」
背後の特大パネルに大写しになったのは、世海のカバンから覗く一枚のカード。レトロな風合いに幾重もの青が重なる、海辺の風景画のポストカードだった。
それを見た瞬間、海帆の全身に緊張が走る。
あれは、海帆が世海と一緒に永康街へ出かけた時に、彼に送ったポストカードだ。
なぜカバンに入れているのだ。
焦る海帆を余所に、世海は一瞬「しまった」という顔を見せたものの、すぐに照れたような微笑みを浮かべた。
「……お守り、みたいなものです」
誰からの、という問いかけに、世海は困ったように小さく笑って、カードの端を優しく指先で撫でた。
「僕の人生にかなり大きく関わった人から貰ったものです。直筆なんで、人生でここぞという時に開けるって決めているんです」
世海はそう言って、カードを優しくカバンの奥へと戻した。
「まだ『ここぞ』という勝負どころが来ないから、ずっと温めている最中なんです。……読まずに持っているのは、なんだか読むと、何かが終わってしまう気がして。だから、ずっとそのままにしています」
客席から「ロマンチスト!」と声が上がると、世海はどこか遠くを見るような瞳で「自分でもそう思います」と静かに微笑んだ。
メレディスが「開ける勇気がないだけじゃないの?」とからかうと、世海はくすりと笑って「どうでしょうね」とだけ言葉を濁した。
今どき珍しいポストカードに興味津々のメレディスたちだったが、綺麗にビニール包装された理由やメッセージの中身までは、それ以上は追及せず、イベントは無事に次の話題へと進んだ。
「えー、なんて書いてあるのか、ちょっと気になったのに~」
ジェシカが口を尖らせていたが、海帆は助かったと胸を撫で下ろした。
こんなに大勢がいる中で、自分が書いた私的なメッセージが読み上げられたら、とんでもない拷問だ。
(なんで未だに持ち歩いているの……)
少し責める気持ちで舞台上を見上げると、世海もホッとした表情を浮かべていた。そして、海帆の方へと視線を寄こそうとしたので、慌てて目線をそらした。
世海が言った言葉に嘘はない。
海帆自身に自覚はないが、海帆は世海の福の子として、その出生に大きく関わっている。
でも、あのポストカードには、世海が言ったようなロマンチックな文章など書いていない。友人に宛てた、当たり障りのない短いメッセージだったはずだ。
あんなとても優しい顔をして、大事に抱えているようなものではないのに。
微笑みながらカードを撫でていた世海を思い出し、居たたまれなくて海帆は目線を泳がせた。
その時、視界の端を、怪しい影が横切る。
出演者同士の仲の良さが伺える軽快なトークイベントで、観客も大いに盛り上がっている中、その人影の動きはとてもさり気なく、普段なら気にも留めなかったかもしれない。それでも、海帆の注意を強く惹きつけたのは、その人物が先ほど配線トラブルのあったスピーカー近辺に潜り込もうとしていたからだ。
熱狂する観客の中で一人だけステージを見ず、周囲を伺いながら不審な動きを見せている。
海帆の警戒心が跳ね上がる。
スタッフだろうか? さっきトラブルがあったから、様子を見に来たのか。でも、その身のこなしにはどこか忍びやかな異質さがあった。
一瞬の逡巡の後、海帆は動いた。
暗くてよく見えなかったが、人影の背格好は先ほど対応をしてくれたスタッフのそれとは違っていたし、手に工具のような金属光沢が見えたのだ。処置が完了したはずのスピーカーのそばで、そんな物を持ち込む理由とは一体なんだ。
再び観客を掻き分け、海帆はさっき見回りのスタッフが来た会場の端の方へと急いだ。
だがスタッフの姿はなく、それが海帆の不安をますます高める。
海帆は思い切って観客席のエリアから歩き出した。
暗がりの中を、音響機材裏手の機材通路周辺へと向かう。
狭く薄暗い空間で、機材の影にうずくまっている背中が見えた。男だ。
関係者パスのようなものを首から下げているが、裏返っていて顔写真も名前も確認できない。
その手元には小さな黒いポーチがあり、配線パネルの影でなにやら作業をしようとしている様子だった。
「何をしているの」
スタッフを装った海帆の鋭い声掛けに、肩を跳ねさせて振り返った男の顔を見て、海帆は息を呑んだ。
(常連男……!)
グロンブル台湾のバーSeagullに入り浸って世海のことを探り、吉川琉奈をたぶらかしたあの怪しい男だった。
なぜ、ここに。
一瞬の動揺が、海帆にわずかな隙を作った。
常連男は、いきなり海帆に突進し、肘を叩き込んできた。海帆は即座に身をかわしたが、狭い通路での突然の攻撃に追撃の手が一歩遅れる。男はその隙を逃さず、海帆の横をすり抜けて走り出した。
逃がすか……!
追おうとする海帆だったが、ちょうどステージ上のトークショーが最高潮を迎えて大きな歓声が上がり、演出のスモークや照明の明滅が視界を遮る。さらに、盛り上がった観客や移動中の裏方スタッフの流れに阻まれ、男の背中は一時的に人混みの中へと姿を消した。
だが、この会場の導線と出入り口の位置はすべて海帆の頭に入っている。
人混みを掻き分け、暗がりの中、出口へと続く扉の開閉で一瞬だけ漏れた光を目印に突き進む。
通り過ぎざま、近くの警備スタッフの肩を掴み、「さっき問題を起こした音響機材を至急もう一度チェックしてください」と短く伝える。
重い扉を押し開け、会場外の眩しいホールへ飛び出す。広場の先、ショッピングモールへ続く通路を必死に走る男の背中が目に入った。
(追いつける!)
日頃のトレーニングの成果を信じ、距離を一気に詰めようと力強く地面を蹴った——その瞬間。
大きく足を踏み出して駆け出そうとした足に、硬い生地がまとわりついて足の可動域を急激に奪い、パーンッと思いっきりつんのめった。
(しまった、スカート……!)
変装のために穿いていたタイト気味な厚手のカーゴスカートの存在を、完全に失念していた。勢いを殺しきれず、海帆の体は前方に大きくつんのめり、派手な音を立てて冷たい床に倒れ込んだ。
それでも、すぐに起き上がって急いで追いかけたが、常連男の姿はモール内の人混みの中に紛れ、もうその姿はどこにもなかった。
完全に見失ってしまった。
追えない。もう届かない。
海帆は激しい悔しさに歯を食いしばり、拳を握りしめて強く壁を叩いた。
痛みが走る。
(もう少しだったのに……)
悔しくて歯がゆくて、ぐっと奥歯を噛みしめながら何度も壁を叩く。
やっぱり単なる機材トラブルではなかったんだ、と確信を深めたところでどうしようもない。
しばらくそのまま、荒い呼吸を落ち着かせる。
転倒の拍子にズレたウィッグを、震える手で静かに、けれど丁寧に直した。周囲の通行人が不審そうにこちらを見ている。
海帆はそれらの視線を一切無視し、深く息を吐いて呼吸を整えると、静かに歩き出した。




