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Oh! My リトルマーメイド  作者: 大城まこ豊
第三章

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心理的ディスタンス

「ミホさん、なんだか元気がないですね」

 ジェシカに指摘され、、海帆(みほ)はハッと物思いの淵から引き戻された。何でもないように口元を緩め、いつもの微笑みを作る。

「そう? そんなことないよ」

 仕事中に上の空だった焦りを隠すように微笑む海帆を、ジェシカは心配そうに見上げた。

「なんだか、ちゃんと眠れていないように見えます」

「大丈夫、ちゃんと寝てるよ。心配してくれてありがとう」

 そこへ、たまたま通りかかった企画・広報課主任の蔡環真(ツァイ・ホァンジェン)が、二人の会話を拾ってひょいっと顔を覗かせた。

「ミホさん、具合が悪いんですか? 無理はダメですよ」

 そう言う蔡環真の手元には書類が山積みにされており、彼女自身、ここ数日まともに眠っていない人間特有の、ギラギラとした鋭い眼光を放っていた。

「眠れる時には、泥のように眠らなきゃダメです!」

「…………蔡主任、お疲れ様です。ちゃんと寝てくださいね」

 どのような逆境でも企画を前に進めることで有名な、別名「不沈のプロジェクトリーダー」は、青白い顔に反してらんらんと目を輝かせ、海帆の気遣いを笑い飛ばした。

「大丈夫ですよ! 私が倒れたら周路陽(ヂョウ・ルーヤン)がいますから! 彼が全て上手くやってくれます!」

 極限の疲労を越えた人間が陥る、無駄にハイテンションな高笑いをして、蔡環真はそのまま、海帆とジェシカが休憩していたテーブルへと滑り込んできた。

「あんまり周路陽をこき使わないでくださいよ。アビーが心配するじゃないですか」

 ジェシカが不満げに唇を尖らせると、蔡環真は問題ないとひらひら手を振った。

「周路陽の真価はこれからにかかってくるのよ。限界を超えた先、キャパシティが拡張された時に、いかに自分をコントロールする術を身に着けられるか。ここからが彼の正念場なんだから!」

「何言ってるのか全然分かりません。要は忙しすぎるってことですか?」

 冷ややかに返すジェシカに、蔡環真は「その通り!」とあっけらかんと認めた。

 そして、おもむろに海帆へと向き直る。

 先ほどの本題を、彼女が見逃すはずはなかった。

「それで? 何が起きたんですか、ミホさん。私で良ければ何でも相談に乗りますよ!」

「え、あ、いえ……本当に、何でもないんです」

 エネルギーの塊のような蔡環真の圧に気圧され、海帆は珍しく言葉を濁した。

 だが、「人心を透視する広報のプロファイラー」の異名を持つ蔡環真が、そのわずかな動揺を見落とすはずがない。

 彼女はさらにグイッと身を乗り出してきた。

「エリック・スンと喧嘩したんですね?」

「……………………」

「え、そうなんですか! ミホさん!」

 ジェシカが瞬時に色めき立つ。

 海帆は内心「しまった」と唇を噛みそうになるのを堪え、動揺をひた隠すビジネススマイルを張り付かせた。

「違いますよ」

「ミホさんは嘘が下手ですね。今の私は疲労が限界突破した、いわゆるチート状態で、恐ろしいほど勘が冴え渡っているんです。これが私の拡張されたキャパシティなんです。その微笑みは通用しませんよ」

「蔡主任カッコイイです……!」

 さっきまで胡散臭そうにしていたジェシカが、一転して尊敬の眼差しを蔡環真に注ぐ。

 二人の視線が、早く続きをと言わんばかりに海帆に集中した。

「本当に何でもないですよ」

 海帆は抵抗を試みたものの、二人の熱量に抗う気力はすでに削がれかけていた。

「確かに……ちょっと揉めましたけど、でも大したことないですよ。いつも喧嘩してるようなものですし」

 というより、私が一方的に怒らせてしまっただけなのだが。

「それって、もしかしてこの間のネガキャンの件ですか?」

 ジェシカの問いかけに、海帆は躊躇いながらも小さく頷いた。

「ネガキャン?」

 蔡環真の疑問に、海帆が口を開くより早くジェシカが食い気味に答える。

「エリックの新作コスメなんですけど、酷い低評価レビューを連投した奴らがいたんです。ちょっとした騒ぎになって。今はもう収まりましたけど」

 ジェシカの言葉に、蔡環真は感心したように深く頷いた。

「エリックも、それだけ有名になったってことね」

「蔡主任、そんな他人事みたいに言わないでください。そのせいでミホさんはムチャクチャ心配する羽目になったんですから」

「なるほどね。それで、エリックとそのことで衝突した、と」

「衝突、というか……」

 そこまで言って、海帆は胸の奥に溜まっていた重い息を吐き出した。

「私が、心配しすぎたんです。エリックの側ではもう対策も立てていたのに、私が余計なことばかり言ってしまって。それで怒らせてしまったんです」

「ミホさんが言いすぎるなんてこと、あるんですね。ちょっと意外です」

 目を丸くするジェシカに、海帆は苦笑した。

 みんな、自分のことをどれだけ完璧超人だと思っているのだろうか。

「でもエリックは大人げないですね。そこは心配してくれたミホさんを安心させるような言葉をかけるべきじゃないですか?」

 口を尖らせるジェシカに、蔡環真は宥めるように優しく言った。

「私はそういう時に、君の為を思って、とか心配をかけたくなかったんだ、とか言われたら逆に怒り狂うわよ」

 えー、と不満げな声を上げるジェシカをスルーして、蔡環真は再び海帆に向き直った。

「それで、仲直りはできそうなんですか? ミホさん」

「そんな、深刻な状態というわけでは……」

「そうですか? 結構、参っているように見えますけど。連絡は取っているんですか? 前は毎日のようにやり取りしていましたよね」

 蔡環真に確信を突かれ、海帆は思わず視線を落とした。

 疲労がピークに達すると勘が鋭くなるというのは、どうやら本当らしい。

 これ以上は踏み込まれたくない境界線だ。海帆は、今度こそ完璧なホテリエとしての微笑みを顔に貼り付けた。

「ホテルの元お客様と、そんなに頻繁に連絡は取りませんよ」

「ミホさん、そんな……」

「エリックは家族ではないし、ましてや恋人でもないの」

 何かを言いかけようとしたジェシカの言葉を、海帆は静かに、けれど明確に遮った。

「彼の仕事について、私がとやかく口を挟む筋合いはありません」

 穏やかでありながら拒絶を孕んだ海帆の言葉を聞いて、ジェシカと蔡環真は無言で顔を見合わせた。

 二人がまだ何かを言いたそうにする前に、「それでは、休憩時間が終わりますので」と海帆は席を立った。

 アビー以外のホテルスタッフには、海帆と世海が幼馴染みだということは伏せている。これ以上話しを続けていたら、いつボロが出るか分からなかった。

 ——時々、考えることがある。

 もし、自分と世海が幼馴染みという関係ではなかったら、どうなっていただろう。

 スキャンダルから逃れるためにホテルへ避難してきた芸能人と、それを迎え入れる一介のホテルスタッフとして関わっていたら、常に冷静で、穏やかで、一線を画した大人な対応ができていたのだろうか。

 そこまで思考を伸ばして、海帆は首を振って考えるのをやめた。

 たらればを繰り返したところで何の意味もない。変えられない過去と現状に囚われるのは、精神的なエネルギーを消耗するだけで、何の解決にもならないからだ。

 それに、送られてくる世海からの連絡に、返信できなくなってしまった理由を、教えてくれたりもしない。

 あの喧嘩以降も、世海からは変わらず、毎日他愛のないメッセージが届いている。

 けれど、送られてくる画面を見つめても、海帆の手指は止まったままだった。

 なぜ返信できなくなってしまったのか、その本当の理由を、自分自身もうまく言葉にできない。あんなに当たり前だった気軽なやり取りが、今ではとても難しくなっていた。

「……仕事だ」

 小さく呟いて自分に気合を入れ、海帆は足早に持ち場へと戻っていった。


 ジェシカからファンミーティングに誘われたのは、それから数日後のことだった。

「ファンミーティング?」

 聞き返す海帆に、ジェシカは「そうなんです!」と勢いよく頷いた。

「あ、でもファンミーティングというか、正確にはコキーユイベントって言って、いわゆる事務所フェスなんですけど」

「事務所フェス…………?」

 何の事やらさっぱりで、いよいよ首を傾げる海帆を見かねて、一緒にいたアビーが説明をしてくれた。

「事務所フェスというのは、同じ芸能事務所にいるアーティスト達が集まって合同ライブイベントをすることなんです。所属タレント同士がコラボして歌やダンスをしたり、これから売り出したい若手をまとめてお披露目したりするんですよ。ファンの間では凄く人気があるんです」

「そうなんです! グループの垣根を越えて、その日限りのシャッフルユニットを組んだりして、めちゃくちゃ面白いんですよ!」

「運動会みたいなミニゲームしたり!」

「暴露トークしたり!」

 面白いんですよ! と二人で声を揃えて海帆の顔を覗き込んできた。

 その、どこか必死で、不自然なほど楽しさをアピールしてくる二人の様子に、海帆の胸に微かな違和感が宿る。

「コキーユイベントって……もしかしてCoquilleプロダクションのこと?」

 ギクッ、と二人の身体が目に見えて強張った。

 海帆は泳ぐ二人の視線を、じっと正面から見つめる。

「エリック・スンの所属事務所だよね?」

「……………………はい」

 しばらくの沈黙の後、アビーが観念したように小さく頷いた。

 すかさずジェシカが、言い訳をするように勢いよく言葉を重ねる。

「チケットが取れたんです! クリスマス感謝祭っていうことで、お祭り大規模イベントになるってずっと話題だったんですけど、そのチケットが取れたんですよ!」

 凄いでしょう! とたまたま運が良くて取れたように言っているが、大方、あの蔡環真が裏で糸を引いているに違いないと海帆は思った。

 企画・広報課の敏腕主任の底知れない人脈と行動力をもってすれば、入手困難な事務所フェスのチケットを融通することなど、お手の物だろう。

「二人で行って来て。私は遠慮させてもらうね」

「そんなぁ、ミホさ~ん……」

 ジェシカが露骨に肩を落とし、悲しそうな声を上げた。海帆は困ったように息を吐く。

「ファンでもない私が言ったって、席を一つ無駄にしちゃうだけでしょう?」

「でも、久しぶりにエリックに会えるんですよ」

 珍しく、アビーまでが食い下がってきた。

「最近ミホさん、元気がないです。それって、エリックに会えてないからじゃないですか?」

 アビーが心配そうに、縋るような上目遣いで海帆を見つめる。

「ジェシカから、ミホさんがエリックと喧嘩したって聞きました。でもミホさんのことだから、すぐにいつも通りになるんだろうって思ってたんですけど、いつまで経っても調子が悪そうだから、ちゃんと会って話をしてないんじゃないかと思って」

 隣でジェシカも、千切れんばかりに何度も深く頷いている。

「…………ファンミーティングに行ったからといって、話しができるわけじゃないでしょ」

「そうですけど、きっかけにはなると思うんです」

「そうですよ! やっぱり画面越しじゃなくて、目の前で生で動いている姿を見るだけでも全然ちがいますよ!」

 必死に自分を連れ出そうとしてくれる二人の優しさに、海帆は胸の奥をチクリと刺されるような痛みを覚えた。気づかれないように、そっと小さな溜め息を飲み込む。

 どうして自分の周りにいる人たちは、こうも世海と自分を繋ぎ止めようとするのだろう。

 当初は軽く流せていた。けれど、世海との距離感に迷い、心が弱っている今の海帆にとって、その純粋な善意は少しだけ重かった。

 こんなことになるのなら、最初からもっと一線を引いて、厳しめに言っておくべきだったかな。

 今更そんなことを考えても始まらない。

 海帆は呼吸を整え、気持ちを落ち着けてから、いつもの穏やかな微笑みを二人に向けた。

「心配させちゃってごめんね。二人の気持ちは本当に嬉しい。……けど、やっぱり私は行かないよ。行けないの」

「どうしてですか?」

 諦めきれないジェシカに、海帆は静かに理由を告げた。

「ゲイ疑惑報道があったでしょう? アビーとジェシカは気づいてるよね、エリックと一緒にいたのが私だって」

「…………はい」

 小さく消え入りそうなアビーの声と、黙って頷くジェシカ。

 二人の反応を見届けてから、海帆は穏やかに言葉を続けた。

「あの騒動があってから、人前で会わないようにした方がいいって言われたの。私だと気づいた人は幸いほとんどいなかったけれど、それでも用心するに越したことはないでしょ。だから、そんなファンが集まる場所に私が行くわけにはいかないの。万が一にでも、エリックに迷惑をかけたくないから」

「変装するんじゃ、ダメですか……?」

 蚊の鳴くような声で呟くジェシカに、海帆は苦笑して優しく首を横に振った。

 素人の変装なんて高が知れているし、下手に怪しまれて悪目立ちするかもしれない。リスクが高すぎる。

 ——それに、何より。そこまでして、世海に会いたいわけでもないのだ。

 そう、うそぶいて、海帆はしょんぼりとするアビーとジェシカに微笑み欠けた。

「私の分まで、二人で楽しんできて」

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