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Oh! My リトルマーメイド  作者: 大城まこ豊
第三章

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33/35

ケンカ

—時間が空いたら電話して—

 スマートフォンの液晶に表示された、短く簡潔な文字列。

 珍しく海帆(みほ)の方からメッセージが届いたのを見て、世海(シーハイ)は嬉しいと感じる前に警戒した。

 何かあった。直感がそう告げていた。

 ほんの少しの不穏な予兆を感じつつも、電話をしないという選択肢はない。

 楽屋に戻って人払いをした世海は、衣装を着替える間も惜しんで手の中の携帯電話を素早く操作した。

 画面をタップし、海帆の連絡先を呼び出す。

 よほど急ぎの用件があったのだろう。あるいは、画面の向こうで彼女もまた、携帯を握りしめて待っていたのかもしれない。

 世海がかけた一回目のコール音が、最後まで鳴り終わるよりも前に、通話はあっけなく繋がった。

『もしもし?』

 耳元に届いた、聞き慣れたはずの、けれどどこか硬さを含んだ声。

 それを聞いた瞬間、世海の口からは、本心とは裏腹な言葉がこぼれ落ちていた。

「なんか用か?」

 つい、ぶっきらぼうな口調になってしまった。久しぶりに聞く海帆の声なのだから、もう少し柔らかく話せばいいのに、と自分でも思う。頭の片隅では分かっているのだ。しかし、ここ数日間の蓄積された疲労と苛立ちが、どうしても声の端々に機嫌の悪さとして滲み出てしまう。

 ここ最近の世海のスケジュールは、文字通り殺人的だった。

 数時間の仮眠を繰り返すだけの過密な日々。だが、彼をこれほどまでに苛立たせている主な原因は、忙しさだけではなかった。

 本当の原因は、他でもない、いま電話口にいる相手にあった。

 あの日、海帆を空港まで迎えに行った日を最後に、世海は彼女とまったく会えていなかった。

 会いたくても会えない、その距離感と時間が、世海の心の余裕をじわじわと削り取っていた。

 内心の焦りを隠す世海だったが、海帆の方はその棘のある態度を特に気にする風もなく、淡々とした声で問いかけてきた。

『いま忙しい?』

「いや、べつに。楽屋にいる」

『じゃあ、ちょっと聞きたいことがあるんだけどさ』

 あまりにも静かで、だからこそ不穏な空気を含んだ声音に、世海は無意識のうちに顎を引いて、打撃に備えるボクサーのように構えの姿勢を取った。

「……なんだよ」

『新作コスメの誹謗中傷騒ぎを教えてくれなかったのはなんで?』

 一字一句をゆっくりと、まるで行き場のない感情を正確に叩きつけるようなペースで、海帆は言った。

 その言葉を聞いて、世海は舌打ちしそうになるのを、奥歯を噛み締めてどうにか堪える。

「…………言う必要ないだろ」

『なんでそう思うの?』

「俺の仕事のことだ」

『確かにそうだね。でも、うちの研修生が起こした騒ぎに世海くんは巻き込まれそうになったよね? その時点で多少なりとも私にも関りがあると思わない? 私、前に忠告したよね?』

「あの時の事と、今回の誹謗中傷騒ぎが同じものだなんて分からないだろ。それに、芸能界じゃこんなことはよくあることなんだぞ」

『よくあることだから気にするなって言うの?』

「そうだよ。お前は少し、神経質になりすぎだ。ネットの雑音なんていちいち拾ってたらキリがないだろ」

『だからなに? 神経質にさせてるのは世海くんだよ』

 俺のせいかよ!

 怒鳴り散らしたい衝動が喉まで出かかった。それをどうにか押し留めるため、世海は天を仰ぎ、深く息を吐き出した。

 そして、世の中の喧嘩をするカップルのうち、後ろめたい気持ちを抱えている側が必ず口にする、よかれと思って言ったのに実は相手の神経を逆撫でするだけの全く意味のない言葉を口にした。

「君を心配させたくなかったんだ」

『そのお陰で今まで何も知らなかった私は今日職場の同僚からいきなりその騒ぎを聞かされて死ぬほど心配する羽目に陥ってるけど?』

 そのことについてはどう思うの? と重ねて問い詰められ、世海は叫び出したい衝動に駆られる。

「とにかく、もう騒ぎは落ち着いたんだ。終わったことをいちいち蒸し返すなよ」

『終わってない。私は今日聞かされたんだからね』

「だから終わってるって言ってるだろ!」

 とうとう我慢の限界を迎え、大声を上げてしまったが、海帆は全く意に介さず、それどころか一歩も引く気はない様子で追及の手を強めてくる。

『コメントを投稿しているのは若い人ばかりみたいだけど、文脈が似通ってた。誰かが先導したのかもしれない。世海くんのファンの人達が警告をしてあっさり退いてるから適当に集めた人達だと思うけど、指示役の人は分からないんでしょ? こをちゃんと調べて、対処しないと——』

「いい加減にしてくれ! こんなことでいちいち気を揉んでいたら仕事なんてできないだろ! お前は気にしすぎだ、大袈裟なんだよ!」

『気にしすぎじゃないよ。世海くんはいつもそうやって、自分の周りで起きてる問題から目を背けようとするよね。今回のことだって、もし本当に誰かが悪意を持って裏で糸を引いていたらどうするの?』

「どうもしない。ネットの騒ぎなんて、放っておけばそのうち次の標的に移るんだよ。お前がそんな風に探偵気取りで首を突っ込む方が、よっぽど危険でリスクがあるって分からないのか?」

 彼女の身の安全を案じているからこその言葉なのだと、海帆に伝わればよかった。けれど、心にも時間にも余裕のない世海の口から飛び出す言葉は、どうしても鋭いトゲを帯びてしまう。

『探偵気取り……?』

 海帆の声のトーンが、一段と冷たく落ちていくのが分かった。

『私が? じゃあ何? 私は面白半分で、好奇心でこんなことを言ってるって、そう言いたいの?』

「そうは言ってないだろ! ただ、お前のやってることはただの余計なお世話なんだよ。俺には俺のやり方があるし、事務所だって動いてる。部外者のお前が、これ以上しゃしゃり出てくることじゃない」

『……部外者?』

 海帆の声の温度が、完全に氷点下へと落ちた。

 同じように世海の体温もさーっと冷たくなったが、もう後に引けなくなっていた。

「ああそうだよ。お前が関わることじゃない。責任を感じる必要なんてどこにもないんだ。……頼むから、これ以上しつこくするなよ。家族でもないのに、そこまで干渉してくるな!」

 言ってしまった後に、しまったと顔をしかめたが、もう後の祭りだ。

 受話器の向こうの空気が、凍りついたように不気味に静まり返る。

 海帆はしばらく黙り混んだあと、小さく諦めたようなため息をついた。

『確かにそうだね、ごめん。出過ぎたことをした』

「アリエル……」

『忙しいのに変なことで煩わせちゃったね。もう切るよ。じゃあ——』

 仕事がんばってね。

 拒絶を滲ませた声音でそう告げると、海帆は世海の返事を待つことなく、一方的に通話を切ってしまった。

 ツーツーという無機質な電子音だけが流れる携帯電話を握り締め、世海は呆然と立ち尽くす。

 ——なんなんだ、なんだったんだ一体?

 じわじわと、行き場のない怒りが胸の奥から沸き上がってきた。

 言いたい放題に文句を言って、こちらが少し反論すれば拗ねて、話し合いも拒否して電話を切りやがった。そっちが「電話して」って言うから、衣装を着替える間も惜しんでわざわざかけたのに、あんな切り方ってあるか? しかもあの怒り方! いつもクールな癖に、あんな子供みたいな感情のぶつけ方をする奴なのか、あいつは。それにあの嫌みったらしい言い方、なんてまだるっこしいんだ。要するに自分だけ後から騒ぎを知らされたのが気に入らなかっただけだろう。だったらそう、最初からはっきり言えばいいじゃないか! 

「エリック、どうした? 次の収録行くぞ。急げ」

 楽屋のドアが突然開き、マネージャーの陳宇翔(チェン・ユーシャン)が顔だけを覗かせて声をかけてきた。

 世海は、スマートフォンの画面を睨みつけたまま、地を這うような声で答える。

「…………分かってる」 

 携帯電話を衣装のポケットに乱暴に押し込み、世海は乱れた呼吸を整え、芸能人としての完璧な仮面を貼り付けながら、陳宇翔の後を追って部屋を出た。


 やってしまった。

 ぷつりと切れた携帯電話の画面を額に押し当て、海帆はベッドの上で深く沈み込んでいた。

 耳の奥には、世海に突き放された言葉が、冷たい残響となってこびりついて離れない。

 家族でもないのに干渉してくるな!

 「はあ……」

 大きく一つ息を吐き、身体の底からすべてを吐き出すようなため息をつき、海帆はベッドの上で身体を丸めた。

 ウジウジとした締まりのない動作で、自分の髪を乱暴に掻きむしる。

 どうもいけない。調子が狂う。

 世海のこととなると、普段ならどんな仕事でも冷静にこなせるはずの計算が、いとも簡単に狂ってしまう。心配ばかりが先走って、コントロールが利かなくなる。

 警戒心が強くて慎重な性格をしている割に、どこか危なっかしいところがあるから、どうしても目が離せなくて、つい口を出したくなってしまうのだ。

 そこまで考えて、海帆は「違うな」とうんざりしたように自分の額を手の平で叩いた。

 これはただの都合のいい言い訳だ。

 どんくさくて危うい世海に手を焼いている、自分を納得させるための建前に過ぎない。

 本当は、それ以上に世海という男の存在が、自分の中で手に負えないほど大きくなっている。

 これはよくない。

 本当によくない傾向だ。

「ああーやだやだ」

 こんな感情に振り回されるのは、まったく自分らしくない。

 恥ずかしながら、これまでの人生において、対人関係や恋愛において深く思い悩んだことなど一度もなかった。相手の態度に一喜一憂したり、自分の感情のコントロールを失って爆発させたりするなんて経験は、海帆にとっては未知の領域だったのだ。

 ましてや、相手との適切な距離感を測りかねて立ち往生するなんてことは、絶対にないはずだったのに。

「……………………」

 きゅっと唇を噛みしめ、天井を見つめた。

 世海の言う通りだ。ぐうの音も出ないほどに、彼の指摘は芯を食っていた。

 世海は家族ではない、幼馴染だ。ただそれだけの過去の共有だけで繋がっている関係なのに、彼の生きる世界のルールも、仕事の重みもきちんと理解していない私が、あれこれと言いたい放題に踏み込むべきではなかったのだ。

 これ以上の関わりは、きっと互いの領域を侵す「度を越した干渉」になってしまう。

 それは世海にとっても、そして何より、海帆自身にとっても、決して望まないことのはずだった。

「私が心配することでもない」

 彼は守られている。だから大丈夫。

 海帆はそう呟いて、胸の奥にわだかまる抑えようもない不安を、無理矢理納得させた。

読んでいただき、ありがとうございます。

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