残響
「ミホさん、日本の本社からメッセージが来てるみたいですよ」
ジェシカに声をかけられ、接客中だった海帆は丁重に引継ぎを済ませると、コンシェルジュデスクへと引き返し、デスクに据えられた端末で素早く内容に目を通した。
確認後、すぐに軽やかなタイピングで返信を打ち込み、エンターキーを押して送信を完了させる。
「ミホさん、日本から何か言って来たんですか?」
ゲストの案内を終えて戻ってきたアビーが、キーボードに向かう海帆の姿を見つけ、案じるように問いかけてくる。
顔を曇らせるアビーに、海帆は彼女を落ち着かせるように柔らかな微笑みを向けた。
「違いますよ。経理からです。この前、帰国した時に頼んでいた事の返事」
そうですか、とアビーはホッとした様子で海帆の隣に立った。
「また戻ってこい、言われたんじゃなくて良かったです」
「しばらくは言われないと思うよ」
海帆の言葉に、アビーはまだ疑り深い顔を隠そうともしない。
「分からないですよ。本社の人って何考えてるか分からないですもん。いつミホさんを連れて行かれるか、もう油断できません」
「そうなったら、またあの分厚い嘆願書を書くの?」
「もちろんです!」
鼻息荒く拳を握るアビーに、海帆の代わりに接客を終えて戻ってきたジェシカが、呆れたように声をかけた。
「アビー、なに興奮してんのよ。お客様に見られるよ」
「ジェシカ、代わってくれてありがとう。ご苦労様」
海帆に労われ、ジェシカは大げさな身振りで肩をすくめてみせる。
「あれしき、どうってことないですよ! ちょっとナンパされましたが、そこはしっかり断っておきましたし」
「え、あのお客様ナンパしてくるの? 要注意じゃない」
アビーが神経質そうに眉尻を上げた。
「あのくらい大したことないよ。挨拶みたいもんでしょ? でも、あんたは応対しない方がいいかもね。さっきミホさんも絡まれてましたもんね」
「ミホさんもですか!」
いよいよ目くじらを立てるアビーに、海帆は苦笑交じりの穏やかな声を向けた。
「声をかけられただけ。断ったらすぐに引いてくれたよ。しつこい人じゃないから、そう神経質にならなくても大丈夫」
「でも、ミホさんにはエリックがいるのに!」
――なぜ、ここで世海が出てくるのだ。
落ち着いた微笑みを顔に貼りつかせつつも、海帆は居心地の悪さにぎこちなく身じろぎした。
「エリックは関係ないでしょ」
「そんなこと言ったって説得力ないですよ、ミホさん」
ジェシカがニヤニヤとにやけながら、海帆の顔を覗き込んできた。
「そのリップ、新作ですよね。エリックがモデルをやってるブランドの」
私、分かっちゃうんですよと言わんばかりのしたり顔に、今度はアビーが色めき立つ。
「え、そうなの!」
海帆の唇を凝視しようと、アビーが下から覗き込んでくる。
ここで少しでも慌てたら、若い二人の思うツボだ。
それを理解している海帆は、内心ではジェシカの目ざとさに動揺しつつも、長年の経験で分厚くなった外面の良さをフル稼働させ、落ち着き払って微笑んだ。
「休みの日に、買い物へ行った時に買ったの。ヌーディーで、付けている感覚があまりないところが気に入って。フロントに立つ以上、新作の化粧品はこまめにチェックしておかないとね?」
「あーっ、ミホさん、その笑顔ずるいです!」
「本心が全く分かりません!」
やいやいと文句を言う二人を大人の余裕で軽くいなし、海帆は手元の端末のスケジュール表を立ち上げた。そのまま今後の予定をチェックしていく。
ハロウィンイベントも大盛況の内に幕を閉じ、地獄のようだった海外研修もなんとか乗り切ったグロンブル台湾には、今、穏やかで平和な時が訪れている。
大口の団体客を二つほど抱えてはいるものの、今のところ大きなトラブルが起こる気配はなく、スタッフ全員が心に余裕を持って丁寧な接客に当たれていた。
隙あらばお喋りに花を咲かせるジェシカとアビーが、ここ最近よく一緒にいるのもその余裕の表れだ。普段なら程よいところで仕事に戻らせる海帆だったが、今この時ばかりは、彼女たちを好きにさせておいた。
なぜなら、この穏やかな日々もほんの束の間で、すぐそこまで巨大な津波のような忙しさが迫っていることを知っているからだ。
「――ねえ、周路陽、また痩せたと思わない?」
「ハロウィンが終わってから、あっちの部署は休む間もないらしいよ。これからどんどん過酷になるって」
「蔡主任も、日に日に目つきが険しくなっていくよね。毎年のことだけど、この時期のあの部署には話しかけに行くのすら物凄くためらうわ……」
トーンを落とした二人のひそひそ話が耳に届き、海帆は先日のミーティングで見かけた広報課主任の蔡環真と周路陽の疲れ切った顔を思い出した。
穏やかな空気が流れるグロンブル台湾の中で、ただ一つ、全員が目を血走らせている部門がある。
管理営業部だ。
海外研修のゴタゴタ、さらにはハロウィンイベントの大騒ぎを終えたばかりだというのに、息つく暇もなく彼らは次のビッグイベントへと全力疾走で走り出していた。
まずはクリスマス。
言わずと知れた、冬の最大イベントだ。
グロンブル台湾では毎年、巨大なクリスマスツリーを設けた点灯式やイルミネーションに並々ならぬ力を入れており、チャペルコンサートや限定アフタヌーンティーなども人気を博している。さらに今年は、あのジョナス・リーのクリスマススイーツも提供できることになり、館内の飾り付けも例年以上に豪華なものにするのだと鼻息が荒かった。
そしてクリスマスが終われば、今度は一息入れる間もなくニューイヤーイベントへと突入する。
バーやガーデンエリアでのカウントダウンパーティー、夜空を彩る花火ショーの運営。
それが終われば、いよいよ本番――台湾の『春節(旧正月)』がやってくる。
「ミホさんは、年末年始は日本に帰るんですか?」
アビーのふとした質問に、海帆はどうしたものかと首をかしげた。
「まだ決めてないんだ。母親からは帰ってこいって連絡が来てるんだけど、これだけ忙しい時期だからね。もし帰れたとしても、春節の前には絶対に戻ってこないと」
春節という単語が口から出た瞬間、それまでお喋りを楽しんでいたアビーとジェシカの顔から一気に余裕が消え、真面目なものへと変わった。
「ミホさん、春節は本当にヤバいです」
「はい……冗談抜きで、今から覚悟しておいた方がいいですよ」
二人の、これまでに見たことがないほど引き締まった表情に気圧され、顔を強張らせて頷いた。
海帆はまだ、台湾の春節におけるホテルの現場というものを体験したことがない。
お祭り騒ぎの裏側で、果たしてどれほど凄まじい忙しさが展開されるのだろうか。
「とにかく、その時期に入ったらムチャクチャ忙しくなりますから! エリックに会うなら、本当に今のうちだけですよ」
アビーが身を乗り出して力説する様子に、海帆は思わず苦笑いを漏らす。
なぜ周囲はこうも、世海を引っ張り出してくるのだろう。
「だから、エリックとはそういうんじゃなくて……」と、釘を刺そうとした時だった。
それまで黙って聞いていたジェシカが、ふと眉を曇らせて、声を潜めた。
「……でもエリック、しばらくは会えないかもよ。今、かなり大変そうだから」
「…………どう言う意味?」
聞き捨てならない言葉に、海帆の目から瞬時に余裕が消えた。真面目な、というよりはどこか険しさすら孕んだ顔でジェシカに向き直る。
「彼、何かトラブルに巻き込まれているの?」
「あ、いえ、そういう決定的な事件とかじゃないんです」
今まで見たことのない海帆の真剣な表情に気圧されたのか、ジェシカは慌てて両手を横に振り、少し言い淀みながら説明を始めた。
「エリックがモデルになった今回の新作コスメ、世間の評価はかなり高いんです。だけど、裏でのネガキャンも結構しつこくて」
「そんなの、どんなヒット商品にだってつきものでしょ。エリックのせいじゃないじゃない」
すかさずアビーが反論したが、ジェシカは重いため息をついて肩を落とした。
「そりゃあね、そうよ。でもエリックは広告の顔だし……。それに私、低評価のレビューをいくつか読んだんだけど、なんだか組織的な悪意を感じるっていうか。炎上狙いの、ちょっと酷い差別発言もあったりして」
「うそ、やだ……」
アビーが不快そうに眉をひそめて絶句する。
海帆の胸に湧き上がったのは、それを遥かに上回る不愉快さだった。
「それって、主にSNSでの話?」
海帆の質問に、ジェシカは頷いた。
「はい、そうです。コスメの発売直後はかなり頻繁でした。商品そのもののレビューっていうより、とにかくエリック個人に対して言いたい放題叩いている感じで……見ていて本当に嫌な気分になりました」
「今はどうなの?」
アビーが身を乗り出して心配そうに尋ねると、ジェシカは彼女を安心させるように小さく笑いかけた。
「今は一応、収まってるよ。エリックのファンたちが公式に警告を入れたら、すぐに大人しくなったから」
「ファンの人達が?」
思わぬ言葉に海帆が驚くと、ジェシカは深く頷いた。
「エリックのファンって、年齢層が高めで知的な大人が多いんです。だから感情的にやり返したりせず、冷静に規約違反を突いて注意ができるんですよ。まさに大人の対応ってやつですね」
「ということは……誹謗中傷を書き込んでいたのは、比較的若い人たちってこと?」
「そうですね。おそらくは学生とか、悪ノリのつもりかもしれません」
ジェシカはそう言いながらも、再び小さなため息をもらした。
「うちのホテルに泊まってくれたし、なによりミホさんと仲がいいから応援してるんだけど、ああいうの見ちゃうとちょっと落ち込みます」
「エリックは敵を作りそうなタイプじゃないのに」
アビーまでもがしょんぼりと肩をすくめてしまったのを見て、考え込んでいた海帆はハッと我に返った。
これ以上、職場の空気を重くするわけにはいかない。
海帆は二人の肩を軽く叩き、いつもの凛とした声を意識して微笑みかけた。
「今が収まっているなら、それでいいじゃない。私たちがくよくよ考えたって仕方がないよ。人気が出て注目されれば、どうしたって色々な人の目に触れるわけだし。そこからどんな印象を受けるかはその人次第なんだから、気に病むだけ時間の無駄。それより、ほら、仕事に戻って」
大人の割り切りを見せるようにパチンと手を叩き、二人をそれぞれの持ち場へと追い立てる。
デスクに戻り、自分も業務の準備を進めながら、ともすれば心に澱のように溜まっていく不安の塊に気を取られないように、意識を逸らそうとした。
――けれど、どうしても思い出してしまう。あのリップを買いに行った日のことを。
きらびやかなコスメカウンターで、商品を手に取っていた客たちの中に、陰険な誹謗中傷をしそうな雰囲気の人は一人もいなかった。
みんな新しい化粧品への期待に胸を膨らませ、手に取れた喜びで表情を輝かせていたのだ。
ただ、たった一つを除いては。
あの時、海帆が感じた、あの刺さるような異様な視線。
海帆は無意識のうちに、ぎゅっと拳を握りしめていた。
あの時、何が何でも振り返って、視線の主を見つけ出せていたら。
そんな後悔の念に支配されそうになるのを、深く大きな呼吸を吐き出すことでどうにか食い止める。
過ぎたことを悔やんでも始まらない。それよりも、今この瞬間にクリアすべき大問題があった。
次第に、海帆の瞳の奥に珍しく明確な怒りが宿っていく。
エリックの誹謗中傷騒ぎのことなど、海帆は今の今まで露ほども知らなかった。ジェシカの口から、今初めて聞かされたのだ。
そんな目に遭っていたなんて、あの男はただの一言も漏らさなかった。
毎日毎日、どうでもいい――いや、当たり障りのないメッセージを飽きもせず送りつけておきながら、本当に肝心なことは何一つ、言ってくれなかったのだ。
(……帰ったら問い詰めてやる)
海帆は内心で憤然としながら、ヒールの音をいつもより高く響かせて、足早に自分の仕事へと戻っていった。
読んでいただき、ありがとうございます。




