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Oh! My リトルマーメイド  作者: 大城まこ豊
第三章

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30/35

警戒

 黄昏時のバス、仕事帰りの人々でひしめく車内に、ぐったりと疲れた様子の男が座席に座り込み、窓の外を眺めていた。

 服はくたびれ、顔に合わない黒縁眼鏡が少しズレて、鼻に引っかかっている。

 ぼんやりと車窓の景色を見ていた男は、降りるバス停に到着したことで、ゆっくりと立ち上がった。

 降車する人々の流れに身を任せ、漂うようにバスから降りた男は、力ない歩調で歩き始める。

 家路を歩く足取りは重い。

 帰り道の家々には明かりが灯り、夕餉の支度、子供たちの笑い声、呼びかける大人の低くて優しい話し声が、そこかしこから聞こえてくる。

 家族の団欒がさざめく中、男は暗い道を一人で歩いて行く。

 やがて着いたのは静かで小さな家。

 明かりは点いていない。

 かつては慎ましく、それでも暖かく灯っていた家が、男を迎えてくれていた。

 彼には妹がいた。

 でも今はいない。


 カットの声がかかり、世海(シーハイ)はふうと息を吐いた。

 眼鏡のブリッジに指を当て、ずり落ちそうなそれを押し上げる。

「はい、じゃあこのまま休憩入りまーす!」

 撮影スタッフの号令で、場の雰囲気が一気に変わり、次の場面へ向けての準備が忙しなく始まった。

「エリック、よかったぞ」

「ありがとうございます」

 監督に声をかけられ、世海はホッとほおを緩ませた。

 物寂しく静かだった場面が一転、スタッフが慌ただしく行きかう現場を縫うように進み、世海は今撮った映像を確認すべくカメラマンの元へと向かう。

 メイク直しの時間も惜しんで、真剣な顔で映像チェックをする。

 そこに監督も交えて、表情の動きの再確認をしていった。

 バックでは撮影中にずっと流れていた、台湾のシンガーRay(レイ)の新曲がかかっている。

 Rayとは、若者の間で最も高い人気を得ている覆面シンガーで、その素顔やプロフィールは一切伏せられ、男性であることと台湾人であること以外は全て非公開となっている謎のアーティストである。

 大学在学中にデビューしたこともあり、私生活と音楽活動を両立する為に自身の正体を隠して活動しており、メディア露出が非常に少ないことで知られている。 

 謎めいた存在であることに加え、コントロールの効いた透明感ある特徴的な声質と、ビートと一体化する洗練されたボーカルスタイルは瞬く間に若者達を虜にし、台湾の音楽シーンでセンセーションを巻き起こしている人物だ。

 そんなRayの新曲MV撮影に、世海は出演をすることになったのである。

「表情の具合がいいな、心の中の葛藤がよく表れてるよ。欲を言うなら、もう少しくたびれた感じを出してほしい。支えを突然失って、よろめいている危うさが欲しいな」

「分かりました」

 伝えられる指示に、世海は真剣な顔で頷く。

 しばらく監督からの細かい要求への打ち合わせを行い、世海は待機場所へと戻っていった。

 自分用の椅子に座ると、すかさずマネージャーの陳宇翔(チェン・ユーシャン)が話しかけてきた。

「エリック! 凄くよかったぞ! 家族に悩みを抱える兄の苦悩がよく表現されていた。監督も納得していたし、まさに絶好調だな!」

「もう少し、くたびれた感じを出してほしいって言われたよ。妹を拒絶した兄の苦しみや焦燥感が欲しいって」

「なるほどな。無駄にキラキラしているのが仇になったか。これ以上苦労した感じを出すとなると、メイクでなんとかするしかないかな。正直、老けメイクはしてほしくないんだが」

「しなくていいよ、なんとかする」

 世海はそう言うと、台本を取り出して先ほど監督に言われた細かい指示を書き込んでいく。

 陳宇翔は満足そうに腕組みをした。

「さすがエリック。やっぱりMV撮影だと場数を踏んでいるから、対応力が備わってきたな。ドラマよりも安心感があるよ」

「まだ結果は出してないよ」

 顔も上げずに言い返す世海を、陳宇翔は頼もしそうに微笑んで見つめた。

「Rayがお前を指定してきたんだ、結果は自ずとついてくるよ」

 自信ありげな陳宇翔の言葉に、世海は肩をすくめるだけだった。

 世海がRayのMVに出演するのは、今回が二度目である。

 一度目は、彼のデビュー曲だった。

 当時の世海はまだドラマなどの仕事が少なく、映像映えする容姿を買われて多くのアーティストのMVに出演させてもらっていたのだが、Rayはそのうちの一人だった。

 自身で楽曲の作詞作曲も手掛けるRayの歌は社会的なメッセージ性が強く、MVにも強いこだわりを持っており、世海は厳しい要求に辛抱強く応え、必死に演じた。

 それが功を奏したのか、元々多岐にわたる音楽ジャンルに精通した高い音楽性を持つ上に覆面という話題性もあり、Rayのデビューは華々しい衝撃を持って迎えられ、それまで目立った活躍もなかった世海も話題のMVに出演したことで徐々に知名度を上げていき、少しずつドラマの仕事も増えて今に至ることとなったのだ。

「Rayとエリックには何がしかの縁があるのかもな」

「そうかな? たまたまMVに出ただけだろ」

 自信ありげに言う陳宇翔に、世海はため息をつきながら首を横に振った。

「でも私、Rayとエリックは同一人物だって、ちょっと信じてたわよ」

 スタイリストの女性がからかうように言うと、世海は更に大きくため息をついた。

「やめてくれよ。それ否定するの大変だったんだから」

「ははは! そうだったな。事務所にも二人は同一人物かって、本当かどうか問いただす電話が来てたからな!」

「笑いごとかよ」

 豪快に笑う陳宇翔を、世海はうるさそうに睨んだ。

 華々しいデビューを飾ったRayだが、顔出しNGな謎に包まれた新人歌手な上に、そのMVにこれまた無名に近かった世海が起用されたことで、一時期は世海がRayではないかという噂が立ったことがあった。

 すぐに立ち消えになったが、その時期は否定や説明をするのが大変だったのだ。

「そう嫌がるな。あのMVのお陰で、いい仕事が貰えるようになったんだからな」

「分かってるよ」

「なら話は早い。しっかり仕事しろよ! Rayがお前に期待しているぞ!」

 大げさに励ます陳宇翔を胡散臭そうに睨みつけて、何も言わずに世海は台本に向き直った。

 その時、聞きなれた名前が聞こえてきて、世海は思わずペンを走らせる手を止めた。

「カイルの復帰がそろそろだから、事務所側が忙しくしているな」

「ああ、もう出てくるのか。自粛期間は結局数か月だけだったな」

「妥当じゃないの。パーティーを主催しただけでしょう。たまたま不倫に利用されただけみたいだし」

「片棒担いでたんだろ。あと、不倫だけじゃなかったって噂もあるぞ…………」

 数人のスタッフの立ち話だったが、すぐに歩き去ってしまい聞こえなくなった。

 世海は台本に書き込む手を止め、すぐ近くにいる陳宇翔に向き直る。

「カイルが戻って来るのか?」

 この言葉に、それまで機嫌良さそうにスタイリストの女性と談笑していた陳宇翔の顔が真顔になり、その眉間に深い縦皺が入った。

 陳宇翔はため息交じりに言った。

「戻って来る。残念だよ。もう少し反省して欲しかったんだけどな」

 憤まんやるかたない、という様子の陳宇翔を見て、世海は呟いた。

「思ったより早かったな」

「早すぎる! どんだけ金を積んだんだか。まあ、あの事務所は次世代の看板俳優を育てなきゃならないから、必死なんだろう」

 苦々しく言う陳宇翔の言葉を世海は無言で聞いていた。

 新人女優と大物俳優の不倫パーティーを主催していたカイル・チェンは、騒動の責任を取り、出演予定だった仕事を全て降板し自粛に入っていたのだが、それが明けることになったのだろう。

 今、その復帰計画が進んでいるというわけだ。

「復帰はいつになるんだ?」

「分からん、まだ告知はない。カイルのキャラなら、バラエティで復活っていうことになりそうだがな」

 陳宇翔はため息をついた。

 スタイリストの女性は、場の雰囲気を察して早々に立ち去っている。

 二人だけになった空間で、世海は口を開いた。

海帆(みほ)から話しを聞いたか?」

 陳宇翔は一瞬なんの話だ、という顔をしたが、すぐに思い至って首を横に振った。

「変な女の話しだろう? 聞いた。だが正直どうしようもない。顔も名前も分からない相手を気にするわけにはいかないだろう。そんな事よりカイルだ」

 陳宇翔は厳しい顔で世海を見据えた。

「エリック、気をつけろよ。カイルには絶対に近づくんじゃないぞ」

「分かってるよ」

「本当に分かってるんだろうな。 あいつに何をされたか、絶対に忘れるなよ」

 陳宇翔は苦々しく吐き捨てた。

「俺は許してない」

「……………………」

 思っている以上に激しいマネージャーの剣幕に、世海は無言で頷いた。

「二度とカイルに近づくんじゃないぞ」

 再度釘を刺され、世海は固い決意を表すかのように、拳をきつく握った。

読んでいただき、ありがとうございます。

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