君あらば この美しき 景色さえ
すっかり涼しくなった最近は、早朝ともなると空気が冷たい。
秋風にあたって頬がさらに白くなるのも構わず、世海はビルの屋上に立ち、夜明け前の空が地平線から徐々に薄明かりを帯びてくる様子を眺めていた。
後ろでは、明け方の撮影に間に合わせようと、撮影スタッフ達が忙しなく準備をしている。
未明から始められていた撮影準備は、緊迫感を持って夜明けを待っていた。
今日はドラマ『Prisoner of Love~あなたが現れたあの日から~』の撮影である。
大方のシーンは撮り終えているのだが、世海演じる張俊凌の場面を追加で撮ることになったのだ。
ゲイ疑惑騒動の後の自粛のために時間が取れず、日程の変更を余儀なくされたため、スケジュールはかなりタイトなものになった。
リハーサルをする暇もなかったので、ほぼぶっつけ本番になってしまい、演じる世海もだが撮影するスタッフ達にもピリピリとした緊張感があった。
撮影は夜明けの光の下で撮ることになっており、時間が限られているからだ。
不本意な事ではあったが、それでもゲイ疑惑騒動の当事者は世海である。
日程変更の原因を作ってしまった申し訳なさと、失敗はできないという緊張感で世海は張り詰めていた。
待機場所に用意されている椅子に座り、一息つく。
準備されている熱いコーヒーが、ありがたい。
横から伸びてくる化粧直しの筆や、乱れた髪のセット直しに身をゆだねながら、いつでも張俊凌として出て行ける準備をする。
誰も声をかけない。
スタッフもマネージャーの陳宇翔も、役に集中する世海のために無駄に話しかけてこなかった。
世海は目を伏せ、ドラマの世界へと入る。
張俊凌に執拗に追い詰められた夏思洋は、張俊凌に屈する形で元恋人の元へ戻る決意をする。
それは王偉を守るためであった。
好きな人の夢をこれ以上壊されないために、夏思洋はアメリカへ医療研修をしに行く張俊凌と共に、渡米することを決断するのである。
これから撮るシーンは、その直後の、ドラマの最終盤に流れる。
セリフはほとんど無い。
それ故に、微妙な表情の変化に監督からの細かい指示が入れられている。
果たして自分がそれをきちんと理解しているのか、世海には自信がなかった。
周囲の人間も本人すらも傷つけてまで元恋人を取り戻そうとした張俊凌は、明け方の光の下で何を思うのだろうか。
想像もつかない。
ただ分かるのは、張俊凌は夏思洋の笑顔が好きだったんだろうな、ということだけだ。
夏思洋の笑顔が、世海が今会いたくてたまらない人の笑顔に変わる。
「エリック! スタンバイいいか?」
スタッフの声掛けに、静かに頷いて立ち上がった。
早朝の風に冷やされた世海の顔は、冷気を発しそうなほど冷たく透き通っている。
緊張からか、それとも熱が下がりきっていないのか、体は冷えて頬も冷たいのに、頭は熱に浮かされたようで、歩いている足元も地面を踏みしめている実感がない。
これは、あまり良くないな。
冷えが徐々に体の中心にまで侵食してくるようだ。
だが夜明けはもうすぐそこで、ここで立ち止まる訳にはいかない。
気持ちを奮い立たせようとぐっと拳を握った時、ポケットに入れていた携帯電話が振動した。
もしかして、と思い急いで手に取ってタップしたら、散々見慣れた簡潔なメッセージが現れた。
―早朝の撮影がんばって。病み上がりだから、くれぐれも体調に気を付けて―
相変わらずのシンプルな文章。絵文字は無し。スタンプなんて、あいつは存在も知らないんじゃないかな。
そんな事を考えながら、世海はほんの少し笑った。
ぼうっとしていた頭がクリアになり、体が温まって足先に意識が行き渡る。
先ほど立っていた場所までゆっくりと確実な歩調で向かい、地面を踏みしめて朝日が昇るのを待った。
「エリック! 夜明けが来るぞ!」
太陽が昇る。
濃紺から紫、ピンクへと美しいグラデーションが織りなす荘厳な日の出が、世海の眼前に広がり始めた。
ブルーモーメントの深い青色の世界が徐々に明るくなり、真新しい光が世界を、世海の頬を照らし出す。
それは今まで見たことのないような景色で、世海はドラマの撮影中であることも忘れて魅入った。
美しさに感動し、同時に悲しくなった。
この景色を見せてあげたいと強く思った人がいるからだ。
でもその人は隣にいない。
彼女は海の向こうにいる。
彼の知らない国にいる。
そのことがとても悲しくて堪らなくて、体が半分になってしまったような喪失感が耐えられない。
あの人は今なにをしているだろうか。
同じ太陽を見ているだろうか。
ここにいる自分の事を、思い出してくれているだろうか。
激しく求めるこの気持ちと同じくらいに、自分のことを想ってくれているだろうか。
夜明けがあまりにも眩しくて綺麗で、悲しかった。
あの人がいれば、この美しい景色は何倍もの光を増して輝くのに。
どうして一人でここに立っているのだろう。
一緒に見たかったな。
カットの声がかかる。
監督が何やら機嫌良さそうにしゃべっている。
世海は返事をすることなく、しばらく上る朝日を見つめていた。
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