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おかえり

海帆(みほ)、あんた今日はどうするの? どこか行くの?」

 母の美帆子(みほこ)に聞かれて、朝食中だった海帆は納豆をかき混ぜる手を止めた。

「歯医者に行ってくるよ。台湾行く前に診てもらう」

「予約、早めてもらえたのね、よかったじゃない」

 美帆子の言葉には少しばかり棘があるが、海帆は朝食を再開しながら何でもない風を装う。

「うん、頼み込んだら、なんとかしてもらえた」

「そう。歯医者の後は?」

「本社にもう一度行ってくる。あとホテルにも。明日出発だから、挨拶してくるよ」

 これを聞いて、美帆子は眉根を寄せてため息をついた。

「一週間は日本にいるはずだったのに、いきなり出発を早めちゃって。会社には迷惑かけてないの?」

「大丈夫だよ。向こうに残してきた仕事もあるし」

 一週間の出勤停止命令の期間中は日本にいるつもり、と言っていた海帆が昨日突然「出発を早めて二日後に行くことにする」と言ったので、美帆子は機嫌が悪い。

 呆れたように首を振ったが、夫の航一郎(こういちろう)も海外出張が多かったので、突然の日程変更などしょっちゅう経験させられていて、慣れてしまっている。

「なら出発まで忙しいわね」

「うん、色々済ませておかないといけないから」

 それを聞いて、美帆子は残念そうにため息をついた。

「ほとんど休む暇がなかったわね。帰国した日ぐらいじゃないの、のんびりできたの」

「日本に来たら来たで、やっておきたいことが出てくるからさ」

 その言葉を聞いて、美帆子は何かを思い出して鼻を鳴らした。

「お父さんも、よくそう言っていたわね。やっと帰国しても、どっか行っちゃって書類をもらってきたり、役所に行ったり病院行ったり。ですぐに海外に行っちゃっていたわね」

「そうだったか?」

 父の航一郎が新聞を読みながら訪ねると、そうよーと美帆子は不満そうに言った。

「いっつも忙しそうにしていたじゃない。今もだけど」

「そうだったかな」

 妻には口では敵わないと悟っている航一郎は、無駄なことは決して言わない。

 夫の回避行動を確認した美帆子は、すぐに娘へと矛先を変えた。

「あんた、昨日も夜遅くまで起きていたわね。その前はムチャクチャ早い時間に起きていたし。そんなんで体大丈夫なの?」

 美帆子の関心が再び自分に向けられるのを、やれやれと思いながら海帆は作り笑いをする。

「大丈夫だよ。ちゃんと寝てます」

 実家に泊まるのは、金銭面や精神面で気を使わなくて済んでとても助かるけれど、母親の詮索というのが付いてくるから考えさせられる。

「また世海(シーハイ)くんと喋っていたの?」

「うんまあ、あと仕事関係とか友達とか……」

 ごにょごにょと言葉を濁す娘を呆れた顔で見つめ、美帆子は釘を刺す。

「相手は俳優さんなんだから、あんまりあんたの都合に付き合わせちゃダメよ」

 違う、こっちが付き合わされているんだ。

 そう反論したいのをぐっと堪え、海帆は「分かった」とだけ言って頷いた。

 海帆は父の血を色濃く受け継いでいる。

「そういえば、この前は大丈夫だったの? なんか世海くんがトラブっていたみたいだけど。家から閉め出されたんでしょ?」

「あーうん、大丈夫だったよ。てか、お母さん、私が喋ってる言葉が分かったの?」

「まだ少し聞き取れるみたいよ」

 美帆子は自慢げに胸を張った。

「いつもシラーッとしているあんたが珍しく慌てた様子だったから、気になってたのよ」

「…………友達がトラブルに合ったら誰でも慌てるでしょ」

 海帆は小さく反論して朝食をかき込み、ごちそうさまを言うと使った食器を片して、そそくさと食卓を後にした。

 部屋に戻り、手早く出かける準備をする。

 ようやく慣れてきた愛猫のジーが、海帆のベッドを我が物顔で占領して、支度をする海帆のことを胡散臭そうに眺めている。

 ついつい、ちょっかいを出してしまい、怒られる。

「あんた、帰りは遅くなるの?」

 下の階から声をかけられ、その場で返事をする。

「本社行ったりするから、少し遅くなると思う」

「今日が最後なんだから、夕飯までにできるだけ早めに帰ってきなさい。みんな呼ぶから」

「…………分かった」

 早く帰れる自信はないが、とにかく海帆は支度を急いだ。

 部屋を出て階段を下りたら、居間には寄らずに真っ直ぐに玄関へと向かう。

「行ってきます」

 また色々と言われる前に、廊下から居間に向かって声をかけ、海帆は足早に玄関から外へ出た。

 ようやく、ホッと一息つく。

 本日は快晴。気持ちのいい朝である。

 駅までの道をのんびり歩きながら、海帆は携帯電話を取り出し、メッセージのチェックをした。

 通知は多い。

 ほとんどが、海帆の渡台が早まった事を残念がる内容だった。

 知合いや友人、特に高校時代の友人が多い。

 日本滞在中に高校時代のバレーボール部と会う約束をしていたので、出発が早まってキャンセルすることになってしまい、申し訳ないと思いながら、一つ一つのメッセージに丁寧に返信をする。

 友人の吉岡明莉(よしおかあかり)とも、出立する前にもう一度飲もうと約束していたので、恨み言が届いている。

 こちらにも丁寧に謝罪をして、海帆は携帯電話をしまった。

 今日はとにかく忙しい。

 歯医者に行った後には郵便局や役所へ行き、諸々済ませて置かなければならない手続きをしておきたいし、もう一度本社へ出向き、人事系の手続きを済ませなければならないのだ。

 やらなければいけないことが山程ある。

 海帆は一つ息を吐くと、しっかりとした足取りで駅へと向かった。


『なんなのよ、あんた。なんでこんなに早く行くわけ? あんたがいなくなっちゃったら、私のこの行き場のない台湾パッションはどこで発散したらいいのよ!』

「ごめんて」

『謝りゃいいってもんじゃないわよ。次に飲めるの楽しみにしてたんだから!』

「だからごめん。今度帰って来た時に埋め合わせさせて」

 ぷりぷり怒る友人を宥めながら、海帆はスーツケースへのパッキングを進める。

 衣類に常備薬、これから寒くなるから防寒具も入れ、大量に買ったお土産も忘れずに入れていく。

 もうすでに深夜に近い。

 諸々の雑事をこなしていたら想定よりも帰りが遅くなったが、家族揃っての夕飯には間に合った。

 だが、ここでも予定を早めた事を追及され、残念がる甥っ子姪っ子や、しつこく絡んでくる姉の帆波の相手をしていたら、荷物整理を始める時間が遅くなってしまったのだ。

『なんでこんなに早く帰らなきゃいけないのよ。なんかあったの?』

 明莉が真面目な声で聞いてきた。

 先日の居酒屋で世海のことを相談したから、心配をしてくれてるようだ。

 海帆は、なんでもないよと言った。

「ただ、仕事もあるし、早めに帰った方が色々と都合がいいなと思っただけ」

『ふーん。それならいいけど、なんかあったらちゃんと言いなさいよ』

「ありがとう」

 友人の気使いに、心から感謝する。

 改めて次回帰国時の約束をして、海帆は通話を切った。

 ふうと息をついて、ベッドに仰向けになる。

 一週間の出勤停止処分を言い渡された時、当初、海帆は早めに台湾に戻るつもりだった。

 だが、やはり日本にいると色々とやっておいたり済ましておきたいことが出てきてしまい、だらだらと出立が先延ばしになった。

 そして出勤停止期間中は日本にいようと決め、そのつもりで予定も組んでいたのだが、一昨日、世海からある写真が届いたのだ。

 海帆は仰向けの状態のまま、携帯電話を操作してアルバムを表示すると、一枚の画像をタップした。

 それは、美しい朝焼けの写真だった。

 早朝の撮影があった日に、世海が撮ったものらしい。

 写真についての説明は特になく、ただ、今度一緒に見ようと言うメッセージと一緒に送られてきたものだった。

 ピンク、薄いオレンジ、黄色、青のグラデーションに染まった夜明けを切り取った一枚はとても美しくて幻想的で、海帆はそれを見た瞬間、しばらく動けなくなるほど魅入られた。

 そしてなぜだか、すぐに戻らなければいけない、という気持ちになった。

 だから予定を早める事にしたのである。

 母親は機嫌を損ねるし、友人たちには不義理をしてしまい、恋人は呆れ、会社の人事課職員を慌てさせ、明莉からは恨み言を言われる。

 それでも、この夜明けの写真は、海帆を突き動かす何かがあった。

 しばらく眺めていた携帯電話の画面に、メッセージ受信の通知が流れる。

―明日は迎えに行く―

 簡潔な文章を読み、海帆は少し呆れた。

 人のメッセージの事を、短すぎるだの味気ないだの散々文句を言っていたクセに、自分だって似たようなものじゃないか。

 海帆はできる限り短くて簡潔なメッセージを作成して返信をすると、起き上がって荷造りの続きを再開させた。

 

 羽田空港から台北松山空港まで四時間弱、朝のフライトに乗ればお昼前には着ける。

 検疫、入国審査を終え、一階で手荷物を受け取り、税関を通って到着ロビーへと向かう。

 出口を抜けた先の柵の向こうに、到着待ちの人だかりが現れ、その最前列にサングラスをかけマスクをした、やたら背の高い男が立っている。

 なんだろうな、この既視感は。

 これで全身黒ずくめだったら、完全に再会した日の再現になる。

 ふうと大きく息を吐いて、海帆はスーツケースをコロコロ転がし、最前列で仁王立ちする男の元へまっすぐに向かった。

「世海くん」

 声をかけても返事はない。

 男はかすかに頷いただけだった。

「人前に出てきてもいいの?」

 また頷くだけだ。

 今回はもう少し強く。

「そう、じゃあ行こうか。迎えに来てくれて、ありがとう」

 そう言って、海帆は世海を置いて歩き出した。

「アリエル」

 世海しか言わない名前で呼ばれて、海帆は振り返った。

 いつの間にかサングラスとマスクを外した世海が後ろに立っていて、海帆の事をじっと見つめていた。

「帰って来たな」

 静かに、囁くように、世海は言う。

「うん」

 海帆はまっすぐに世海を見上げて、頷いた。

読んでいただき、ありがとうございます。

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