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質疑応答

(おろ)か、とは、知能や考えが足りず、ばかげている様子や、道理に暗い状態を指す形容動詞であり、判断力や理解力が鈍く、非合理的な行動をとるさまを言う。類語に馬鹿、とろい、のろま、間抜け、などがあり、仏教では煩悩に流される人を指す言葉としても使われる」

「……………………言いたいことがあるならはっきり言え」

 派手な色のぶかぶかなパーカーに身を包み、温かくて甘いお茶を啜りながら、ガラ悪くヤンキー座りで鍵開け業者の作業を見守っていた世海(シーハイ)は、隣に立つ親友に唸り声を上げた。

 美形の一睨みは、それなりに迫力があるのだが、呂俊宏(リュ・ジュンホン)は特に気にする様子もなく、にやにやとしている。

「お前がこんなに面白い奴だったなんて知らなかったよ」

 世海はなにも言わず、しゃがんだまま器用に片足を上げ、俊宏の足を踏んだ。

「イテッ。なにすんだ」

「ふん」

 踏まれた足をさすりながら、俊宏は恨みがましい目で世海を睨み、隣にしゃがみこんだ。

「それにしてもひどい奴だよな、お前って」

「なにが?」

 俊宏の非難に、世海は鬱陶しそうな顔をする。

「付き合いの長い俺とマネージャーさんの電話番号は覚えてなくて、ミホさんのは覚えてるんだもんな」

「……………………」

 ふいと世海は顔を背ける。

「たまたまだ」

「もしかして、わざとか? わざとミホさんに電話したのか?」

「たまたまだ」

 世海はしつこく聞いてくる俊宏と目を合わせず、作業をする業者をじっと見ていた。

 同じく作業風景を見た俊宏は、感心したようにため息をついた。

「知ってはいたけど、ミホさんはさすがだな。俺に連絡してきた上に、鍵屋の手配まで済ませてるんだもん。俺は服と飲み物持って来ただけだよ」

「うん」

 世海は少しだけ得意げに頷いた。

 海帆に連絡をしてから、まず呂俊宏が服と飲み物を持って駆けつけ、ほどなくして陳宇翔(チェン・ユーシャン)からも連絡が入り、大笑いをしている俊宏に事の経緯を説明している間に鍵開け業者も到着した。

 ここまでにかかった時間は小一時間ほどか。

 今では世海は友人が持って来てくれた服を着込んで人前に出られる姿となり、玄関のドアが無事に開くのを待つばかりである。

「SNSはしていないって言ってたから、いきなりDMが来た時はびっくりして本人か疑ったけど、俺の事トシさんって呼ぶし、半信半疑で来たら本当にお前が裸で閉め出されてるんだもん。ひっさしぶりに大笑いしたなー」

 思い出してまた笑い出した俊宏の肩を世海は殴った。

「……………………お前、まだ相互になってないだろうな」

「ああ? なんのこと?」

「あいつのこと、フォローしてないだろうな」

 俊宏はしばらくポカンとした顔をしたが、世海が真面目な顔で睨みつけてるのを見て、ため息をついた。

「…………してないよ。お前が心配しているのがそれならな」

「ならいい」

 ぷいっとまた前を向いた世海の横顔を、友人は呆れて見つめた。

「一番に相互になるのは自分がいい、てか?」

「……………………」

 世海は答えない。

 俊宏は、やれやれと首を振った。

「めんどくせー奴だな、お前って」

「うるさい」

「それが、お前の心意気か?」

「…………うるさい」

 ふうと俊宏はため息をついた。

「ま、どっちにしても、今日のミホさんはいい迷惑だったろうな」

 ふん、と世海は鼻を鳴らした。

「俺を置いていくからだ」

 

ーエリックは無事に確保。業者が鍵を開けてくれて、奴は巣に戻っていったよ!ー

 呂俊宏からのメッセージを確認し、海帆(みほ)はホッと息をついた。

 ル・グロンブルホテル本社がある高層ビルの十八階。スカイツリーが臨める窓の側に立ち、海帆は手早く俊宏からのメッセージに返信を送る。

 送信をタップしたところで、新たなメッセージが受信された。

 姉の帆波からだった。

―海帆! あんたSNS始めたの? これ、あんただよね。あたしが勧めた時は全然興味なかったのに!―

 ついさっきアカウントを作ったばかりなのに、なんでもう帆波にバレたんだ?

 内心あわてていると、さらに帆波からメッセージが届く。

―これ、あたしのアカウント。あんたのことフォローしておいたから、フォロバよろしく!―

 ……………………フォロバってなんだ? いや、なんとなく分かるけど、認識あってるかな。

 送られてきた帆波のやたら可愛らしいアカウント名を見つめ、海帆は戸惑った。

 SNSのアカウントは、削除するつもりだった。どのみち使うつもりはないし、使わないのに持っているのは無駄だと思うからだ。

 だが、この数時間で帆波だけでなく、すでに数人からフォローされている。

 そのうちの半分は誰なの分からない。

―SNS始めたんだ、おめでとう。フォローしておいたよ!―

―ミキだよ!久しぶり~相互になろう!―

―やっとデビューしたか!よろしくな!―

 …………ミキってどのミキだろう。

 どうしたものかと考え込んでいたら、後ろから声をかけられた。

 振り返ると舘石愛実が立っていた。

「舘石先生、終わったんですか?」

 携帯電話をしまって、海帆は微笑みを浮かべて話しかけた。

 愛実は浮かない顔をして、あいまいに頷いた。

「はい、終わりました。なんか、あっけなかったです」

 肩透かしをくらったような顔の愛実に、海帆は苦笑をして頷き返す。

「私もです。突っ込まれたこととかあまり聞かれなかったですね」

「橘さんもですか」

 愛実は腑に落ちない顔をしていたが、海帆の隣に立つと、ほおと大きく息を吐いた。

「でも、何はともあれ無事に終わってよかったです。わたし、昨日はほとんど眠れなかったですから」

「そうですか。私もですよ」

 海帆の場合、原因は別にあるが。

 愛実が意外そうな顔をして、海帆を見上げた。

「橘さんでも眠れないことがあるんですね」

「そりゃ、ありますよ」

 言われた言葉にびっくりしていると、愛実は慌てて手と首を横に振った。

「変な意味じゃないです。橘さんって、なんか、いつも落ち着いているっていうか、なにがあっても動じないで自分のペースを乱さない人ってイメージだから、メンタルコントロールが完璧なんだろうなって思ってたんです」

「そんな風に見えますか」

 実際はそうでもないのだ。

 ついさっきも、誰かさんのせいでメンタルをムチャクチャにされたばかりである。

 若干、遠い目になっている海帆に気づかず、愛実はため息をついた。

「わたしはダメなんです。こういう偉い人がいる場みたいな所が。無駄に緊張してしまって。昨日だって、書いた報告書に不備はなかったかなとか、こう言われたらどうやって答えようとか、無駄な悪あがきばっかりしちゃいました」

「私だってそうですよ」

 ただ、その悪あがきをする時間は取れなかったが。

 愛実は、海帆が謙遜をして励ましているのだと思ったらしく、控えめに笑った。

「橘さんはそんなことないでしょう」

「私に対してかなり偏ったイメージを持ってますね、舘石先生。私も昨日は必死に悪あがきをしようとしていたし、なんなら今朝もそのつもりでした。ただまあ、できなかったけど」

 誰かさんのせいで。

「そうなんですか。なんか、意外です」

「お陰で金魚の生態に詳しくなりました」

「え?」

 なんでもありません、と言って海帆はスカイツリーを眺めた。

 愛実も同じように外を見ていたが、しばらくしてポツリと呟いた。

「…………もっとドラマみたいな追い詰めてくる感じの事を想像していました。こんなに簡単に済んで、よかったんですけど、でもやっぱり……」

 愛実は少し目を伏せて、小さい声で言った。

「やっぱり、吉川さんが辞めることになったからですかね」

 海帆は何も言わなかったが、多分そうだろうなと思った。

 気を引き締めて本社ビルのエントランスに挑んで赴いたセッションの場には、日本での上司と学校関係者が数人いるだけだった。

 質問も簡単に時系列を確認する程度のものだった。

 吉川琉奈は出席しなかったが、退学の通知はもう周知されており、本人や家族からは事の顛末について何も意思表示を示してこなかったのだ。

 諭旨解雇もしくは懲戒解雇も覚悟をしていた海帆に下った処分は「一週間の出勤停止命令」だった。

 驚いてる海帆に、上司は分厚い書類を見せた。

「グロンブル台湾からの嘆願書だ。……読むのに苦労をしたぞ」

 うんざりして言う顔には疲労の色が濃い。

 海帆も中身を見せてもらったが、あの時の顛末や嘆願に至った経緯と理由が微に入り細を穿ち、びっしりと書き込まれており、さらには周路陽(ヂョウ・ルーヤン)の破れた制服や現場写真までも添えられていて、嘆願者情報にはホテルグロンブル台湾馬愛維(マ・アイウェィ)と記されていた。

 アビー。海帆は台湾を立つ日の事を思い出した。

 彼女は鬼のような形相でパソコンに向かって何やら勢いよく打ち込んでいたのだが、この嘆願書を作成していたのだろう。

 帰ったら、お礼を言わなければ。

「橘さん」

 声をかけられて隣を見ると、愛実がおずおずとした様子で上目遣いをしてきた。

「その、この後なにか予定はあるんですか?」

 愛実も、今日でル・グロンブルホテルが最後である。

 もう少し話しをしたそうな様子を感じ取り、海帆はにっこりとほほ笑んだ。

「夜は友人と会いますが、それまでは特に何もないんです。舘石先生さえよろしければ、少し遅いですけどランチでもいかがですか?」

 愛実は嬉しそうに笑った。

 これまで見た中で、一番明るい表情だった。

「はい、喜んで。わたし、橘さんともう少し話しをしてみたかったんです」

「偶然ですね、私もですよ」

 海帆もそう言って微笑んだ。

「私も、舘石先生に教えてもらいたいことがあるんです」


 東京GRBホテルスクール直営寮であるGRB学生会館がある街は、映画館が入る大型ショッピングセンターやスーパーマーケットが充実し、計画的な街並みで治安が良く、自然にも恵まれた魅力的な土地である。駅は始発電車が設定されて通学に便利で、都心までのアクセスが抜群な上、ファミリー層に人気のベッドタウンだった。

 舘石愛実と食事をして別れた海帆は、そんな静かで開放的な駅のフォームへ降り立った。

 駅から学生会館まで徒歩四分。

 ワンルーム・マンションタイプの寮は、どことなく新卒の社会人のような真っ白な外観で、初々しく建っていた。

 そのマンションのエントランスから、見知った人物が現れる。

 吉川琉奈(よしかわるな)である。

 琉奈は管理人らしき人としばらく話しをした後、入り口近くに停めてあった車へと向かっていった。

 少し痩せただろうか、でも元気そうだ。

 そんな感想を抱いた海帆は、琉奈に近づき静かに声をかけた。

「吉川さん」

 振り向いた琉奈は、後ろに海帆が立っていることに驚き、ぎょっとした顔をした。

「橘さん……」

 しばらく固まってしまった琉奈に、海帆は軽く会釈をする。

「どうも」

「何しに来たんですか」

 警戒心を解こうとしない琉奈に、海帆は微笑みかける。

「迷惑だったら、ごめんなさい。でも話しをしたくて来たんです。少し時間もらえますか?」

 琉奈は迷ってるようだったが、一歩も引く気はない海帆の様子に観念したように小さく頷いた。

 向かおうとしていた車の運転席に乗っている人物に何事か話しかけた後、琉奈は海帆の元に戻り、二人は連れ立って小さいカフェに入った。

 席に落ち着いたところで、琉奈はおもむろに口を開いた。

「言っとくけど、クビになった腹いせに来たって、何もできないから。私だって学校辞めたんだし」

 いきなり喧嘩腰で言われて、海帆は目を見張ったが、すぐに苦笑する。

「クビにはなってませんよ。なっても、吉川さんを恨むつもりはありません」

「じゃ、なんなんですか」

「殴ったことを謝ろうと思って」

 それを聞いて、今度は琉奈が目をぱちくりと見開いた。

 驚いたようだ。

「あの後、話しをする機会がなかったから、ずっと気になっていて。殴ってしまって、ごめんなさい」

 海帆はそう言って、琉奈に頭を下げた。

 海帆の謝罪を呆然と聞いていた琉奈は、小さく呟いた。

「意外。絶対に謝らないタイプの人間だと思ってた」

 どういう意味だろうか。

 自分はそんなに幼稚な人間に見えるのだろうか。

 琉奈は、髪をかき上げて左頬を見せた。

 海帆が引っ叩いた頬は、赤みが少し残っているようだ。

 冷静に見つめている海帆に、琉奈は恨みがましく言った。

「殴られたところ、まだ腫れがひかないんだけど」

 それはそうだろう。

 バレーボール強豪校のエースアタッカーだった海帆の利き腕の平手が入ったのだ。そう簡単に腫れはひかないはずだ。

「痛かったでしょう」

「当り前ですよ。思いっきり引っ叩かれたんですから。反省してるんですか」

 反省はしている。

 最終的に手を上げるという判断しか下せなかった自分の未熟さに対して。

 だが後悔はしていない。

 ああしなければ怪我人は確実に出ていた。

 そう言うと、琉奈は呆気にとられた顔をして、それから肩をすくめた。

「…………もういいです。どうせ辞める気でいたし」

「聞きました。残念です」

「本当にそう思ってます?」

 疑わし気な琉奈の目を、海帆はまっすぐ見つめた。

「思ってますよ。研修中の吉川さんの評価は、常にトップでしたから」

「……………………」

 琉奈は無言で、悔しそうに俯いた。

 海帆はしばらく何も言わず、運ばれてきたアイスティーを口にした。

「…………愛実ちゃんに聞いたんですね。私のこと」

「はい」

 海帆は頷いた。

 一度は出た退学騒ぎを治めたり、琉奈の仕出かしの後始末をしたり、愛実と琉奈にはそれなりに交友がある気がしていた。

 ランチを一緒にしていた時にそれとなく聞いたら、言いにくそうにしながら愛実は教えてくれたのだ。

 今日、琉奈が寮を出る日だということ。

 そしてその後、なにをするのかを。

「愛実ちゃんも、けっこうおしゃべりなんだな」

「私が無理に聞き出したんですよ。あなたに聞きたいことがあったので」

「なんですか?」

 海帆は琉奈の目をじっと見つめた。

「エリックと私が幼馴染である、とあなたに教えたのは誰ですか?」

「……………………」

 しばらくの間、琉奈は無言で海帆のことを見返していた。

「それってそんなに重要なこと?」

「重要です。私にとっては」

 海帆はきっぱりと言った。

 グロンブル台湾で琉奈に罵られた時、彼女は海帆と世海が幼馴染である事を引き合いに出して海帆の事を責めた。

 当然のことだが、海帆は琉奈に世海との関係を教えていない。

 世海も琉奈とは面識がない。

「…………ホテルの従業員です」

「あり得ない。絶対に」

 海帆は断言した。

 グロンブル台湾で海帆と世海の事を知っているのは、唯一人である。

 だが、彼女から漏れることは絶対にない。

「なんでそんなにはっきりと言い切れるんですか?」

 ムキになって言い返す琉奈を、海帆は静かに見返した。

「あなたも二年間学んできたなら分かるでしょう」

 これを聞いた琉奈の目に、怒りがこもる。

 しばらく、二人は無言で見つめ合った。

 先に目をそらしたのは、琉奈だった。

「…………ホテルで研修をしている時に、声をかけられたんです。男に」

 常連男のことだろう。

「Seagullにいた客ですか?」

 海帆の質問に、琉奈は頷いた。

「そうです。研修初日でバーに行った時に目をつけられたみたいで、最初は相手にしていなかったんですけど。お客さんからクレームを貰って注意されてムシャクシャしてたら、また声をかけられたんです。指導役の秘密を教えてやるって」

「私の?」

 なぜ海帆の話しを出すのか。

 訳が分からない顔をする海帆に、琉奈は皮肉気に笑った。

「橘さんは見るからに品行方正なホテリエだけど、ホテルの客とふしだらな関係を平気で持てる人間なんだって言ってました」

「信じたんですか」

 海帆は呆れた。アビーやジェシカだったら鼻で笑って相手にしないか、激怒して名誉棄損で訴えるだろう。

 だが琉奈は違う。

 彼女とは、そこまでの信頼関係を築けていなかった。

 琉奈は頷いて、髪をかき上げた。

「興味が湧きました。あの完璧な橘さんも女なんだなーって思ったし、相手はどんな奴なんだろうって。それで会う事にしたんです」

「なんでそんなことを……」

 思わず呟いた海帆の言葉を聞き、琉奈はキッと睨みつけてきた。

「私は……私は、研修中は何もしませんでした。夏休みに騒ぎを起こして、愛実ちゃんが庇ってくれて、この研修だけはきちんとしないとダメだよって言われたから、ちゃんと集中してやってました。初日にバーに行ったのだって、ただ興味本位で行っただけで酒を飲むつもりはなかったんです。それを、あの変なバーテンが騒ぎ立てて」

 琉奈は悔しそうに拳を握り締めている。

「バーに客でいた男が、私とエリックが幼馴染だと言ったんですね」

 海帆は合点がいかなかった。

 常連男とは面識がなかったし、世海もないと言っていた。

 彼は一体どこから、情報を仕入れたのだろうか。

「あいつじゃないです。会いに行った時に一緒にいた女です」

「女?」

 琉奈は頷いた。

「その女が、あの俳優の写真を見せてくれたんです。それで、橘さんと幼馴染なんだって教えてくれました。幼馴染だってことをいいことにグロンブル台湾に泊まって、職場で堂々といちゃついていたんだって言ってたんです」

 なんで、そんな話になるのだ。

 海帆は反論したかったが、琉奈はしゃべり出したら止まらなくなったのか、抑揚なく話し続ける。

「やたらイケメンで、橘さんの相手にはちょっと意外だったけど。立場を利用して好き放題にしていることにムチャクチャ腹が立ちました」

 実際はすれ違いだらけの毎日で、ほとんど会っていなかったけど。

 だがそんなことは、琉奈は知る由もない。

「私はしつこくてウザい客に腰を触られただけで厳重注意を受けたのに、なんで堂々と客とホテルでイチャついていた人が指導役で、私を非難するんだろうって、そんな権利ないじゃんって思いました」

「それで、ハロウィンの機材に細工をしたんですか」

 琉奈は口をつぐんだが、海帆は辛抱強く待った。

 琉奈は渋々と認めた。

「その女に言われたんです。ホテルのイベントの撮影であの俳優が来るから、懲らしめてやればいいって。撮影中に機材が倒れてオブジェが壊れるかして、橘さんの目の前で番組がぶち壊しになったら、橘さんもあの俳優も面目丸つぶれだから、ちょっとは気分が晴れるだろうって言われたんです」

 それで実行したのか。

 だが、機材は撮影当日ではなく、前日に倒れた。

 そして、周路陽やグロンブル台湾のホテルスタッフ総出の徹夜の復旧作業で見事に復活したのだ。

「あの男は怒っていました。女もです。私のやり方が悪かったんだろうて言われました。その時点でもういい加減に嫌になって、あいつらと会うのはやめようと思っていたんですけど」

「脅されたんですね」

 海帆の指摘に、琉奈は小さく頷いた。

「全部バラすぞって言われました。言う事を聞けって。それでクラブに連れて行かれました」

「Avila、ですね」

 琉奈は深くため息をつき、腹立たし気に何度も髪をかき上げた。

「あの俳優がいるから、タラシ込んで関係を持てって言われました。さすがにそんなことは無理で、断りました。男だったらなんだっていいってわけじゃないし。あんな見るからに童貞男、こっちから願い下げ……」

 そこまで言いかけた琉奈は、海帆の顔を見て慌てて口をつぐんだ。

「どうしたんですか? 続けてください」

「…………いいです。また殴られたくないんで」

 そっぽを向いてしまった琉奈に、海帆はため息をついてアイスティーを口にした。

 カランと氷が鳴らす音が、二人の沈黙の間に落ちる。

「Avilaに連れて行かれて、具体的に何をしろって言われたんですか?」

「……関係を持つのは嫌だって言い張ったら、じゃあ写真だけ撮られろって言われました。外にカメラマンが待機してるから、できるだけ密着して二人で出てくるように言われたんです」

 やっぱり、あの熱愛写真を撮ったカメラマンは仕組まれていたのか。

「エリックが応じないでしょう」

 海帆は確信する。

 世海の警戒心と対人潔癖症はかなり手ごわいから、 多少、酒が入った程度で気を緩めないはずだ。

「クスリを盛るつもりだったみたいです」

 ゾッと寒気が海帆の背中を滑り落ちる。

 琉奈の体は小刻みに震えていた。

「酩酊させるから、言う事を聞くようになったら、一緒に出てこいって言われました」

 サアッと血の気が引いた海帆は、アイスティーのグラスを握り締めた。

 グロンブル台湾に駆け込んできた時の世海の様子が、脳裏に鮮やかに蘇る。

「…………彼等はなぜそこまでしてエリックを貶めようとしたんですか」

「分かりません」

「分からない? 一緒にいて理由も聞いてないの?」

「聞くわけないじゃないですか! こっちの身が危なくなるのに!」

 琉奈は守るように両手で自分の肩を抱いた。

「クスリの話しをしてた時点で、もう逃げ出したくてたまらなかったんですよ。深入りしたらどんな目に会うか分からないじゃないですか。だからクラブに着いた時も、どうやって逃げようかそればっかり考えてて、そしたら」

「エリックがいなくなっていたんですね」

「正直、助かったって思いました。あいつらも慌てて探し出してたから、その隙にクラブから出て、それで愛実ちゃんたちに捕まったんです」

 琉奈はがっくりとうなだれた。

「帰国を言われた時は、もうどうでもよくなってました。早く帰りたいって思ってたのに、あいつらまた私に近づいて来て」

 琉奈はうんざりした様子だった。

「熱愛写真が出て、エリックを助けたのが橘さんだったってことが分かって、私がチクったんじゃないかって責めてきたんです。もう、うんざりでした。それで一刻も早く帰るために騒ぎを起こしたんです」

「ちょっと待って、あの大騒ぎはわざとだったの?」

 聞き捨てならず、海帆は琉奈に詰め寄った。

 琉奈は力なく頷いた。

「とにかく、なにか騒ぎを起こせばすぐに飛行機に乗れると思ったんです。あと、助けに行くってことはやっぱりあの俳優とデキてたんだって、ちょっと腹が立ちました」

 海帆は開いた口が塞がらなかった。

 あの騒ぎがわざとだったとは。

「じゃあ、カバンを振り回したのは」

「あれは本気です。優等生気取りのあの女に言われた言葉は、マジでムカついたので」

 開き直って言う琉奈の態度に、海帆はしばらく何も言えなかった。

 琉奈は呆然としている海帆を見て、ふんっと鼻を鳴らした。

「聞きたいことには答えました。もういいですか? 彼が待ってるんです」

 琉奈はそう言って、外に停まっている車に目を向けた。

 海帆もチラリと横目でその車を見た。

 運転席に座っている人物は男性で、じっとこちらを伺っている。

「…………もう一緒に住むんですか」

「はい、彼がそう望んでるので」

 琉奈は目を逸らし続けている。

「仕事はどうするんですか?」

「……それは契約にありません」

 琉奈は顎を上げて、挑むように海帆に言った。

「わたし、これから初台に住むんです。彼がそこにマンションを準備してくれました。月々のお手当ては四十万。それ以外に美容にかける費用は別で出してくれるし、必要だったら家政婦も雇ってくれます。仕事する必要あります?」

「ないでしょうね」

 静かに言う海帆を睨み付けて、琉奈は少々大袈裟に椅子を後ろに引いた。

 席を立とうとする琉奈に、海帆はもう一度声を掛けた。

「最後に教えてほしいことがあります」

「なんですか」

 迷惑そうな顔をする琉奈を、海帆はじっと見つめる。

「私とエリックが幼馴染だって教えた女の人の特徴を教えてください」

「特徴って言われても」

 琉奈は少し考え込んでから言った。

「歳は橘さんと同じくらいでした。髪はロングでしたね。マイラだかマリアだか、英名で呼ばれてました。後は知りません。私は男の方とばかり話していたので」

「顔の特徴とかはないのですか?」

「分かりません」

 琉奈はきっぱりと言った。

「その女、いつもサングラスをかけていたので」

いつも『Oh! Myリトルマーメイド』を読んでいただき、本当にありがとうございます。

第二章が終わりました。

ここまで来れて、なんだか感無量です。

一章ではまだ遠慮があった世海くんと海帆さんは、二章では素でかち合うようになってきました。

世海くんはそれがちょっと嬉しくて、海帆さんはメンタルを乱されて少々迷惑に感じてます。当初の設定では世海くんはここまで海帆さんに迷惑をかける子ではなかったのですが、私は世海くんのワガママを涼しい顔で捌く海帆さん、が好きなので書いていてとても楽しかったです。


第三章は、多少シリアス展開になっていきます。

少しでも楽しんでいただけるよう精進します。

今後ともどうぞよろしくお願いします。

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