海を隔てても
人の気配を感じて、世海は目が覚めた。
誰かが玄関のドアを開けようとしている。
ベッドから起き上がり、汗をかいて湿った体が空気に冷えて寒かったので、近くにあった上着を引っかける。
寝室を出て音がする玄関へ向かうと、ちょうどマネージャーの陳宇翔が入ってくるところだった。
「起きたか。おはよう。調子はどうだ?」
陳宇翔は、おはようと答えた世海の顔をまじまじと見つめ、心配そうに眉根をよせた。
「なんだ、まだ調子悪そうだな。顔色がよくない。ちゃんと寝てるのか?」
「寝てるよ」
鬱陶しく言うと、世海はキッチンへ行き、冷蔵庫を開けて水を取り出した。
本当はあまり寝ていないのだが、素直に言っても怒られるだけなので、水を飲んでごまかす。
「具合はどうなんだ? 体の調子は?」
ガサガサとビニール袋から買って来たものを取り出しながら、陳宇翔が聞いてくる。
まだ怠さが抜けきらないが、熱も下がってきているし、そうそう休んでもいられない。
「だいぶいいよ」
「そうか! ならよかった。謹慎期間中だったのが幸いしたな。明日から通常通りだから、よろしく頼むぞ!」
「わかった」
キッチンで水分補給をした世海は、そのままバスルームへ直行する。
「シャワー浴びてくる」
「おう、さっぱりして来い。朝めし買って来てあるからな。食えよ」
「うん」
そう言って、世海は脱衣所に入っていった。
熱いシャワーを出し、寝ている間にかいた汗を洗い流す。
頭を洗っているところで、バスルームのドアを陳宇翔がノックをした。
「エリック、急な用事が入った。俺は行くから、めし食って薬を飲んどけよ。明日、早朝三時に迎えに来るからな」
「わかった」
シャワーを終え、バスタオルで体を拭いている間も、陳宇翔はバタバタと忙しくしている様子だった。
その気配がようやく玄関の方へ向かった直後、リビングの方向から携帯電話の着信音が鳴る。
世海のではない。この音は陳宇翔の携帯電話だ。
鳴り続けているのに、彼が玄関から戻ってくる気配がない。
世海は着替え途中だったが、バスルームを出てリビングで鳴っている携帯電話を手にし、玄関に声をかけた。
「おい、スマホ忘れてるぞ…………」
ばたん、とドアが閉まる。
世海は舌打ちをし、急いで玄関へ行き、ドアを開けて外に出た。
「翔哥! スマホ忘れてる!」
スーッとエレベーターの扉が閉まった。
陳宇翔はかなり急いでいたようだ。
間に合わなかった事にため息をつき、諦めて家に入ろうと振り返った目の前で、ばたん、と玄関のドアが閉まった。
コットンリネンのシンプルパンツ一丁の姿で、他人の携帯電話を握り締め、世海はオートロックのドアを呆然と見つめていた。
その時、海帆は実家で朝食中だった。
すでに身支度は整えている。
今日は本社で大事な報告があるので、早めに起きて頭をクリアにしておきたかったのだ。
提出した報告書を再度読み込み、補足部分がないか、逆に余分になってしまっている箇所がないかチェックをするつもりだった。
「今日は遅くなりそう?」
美帆子の質問に、海帆は頷いた。
「うん、本社に行った後、友達と会うと思う」
「じゃあ、夕飯はいらないわね」
「そうだね、食べてくるからいいよ」
そう言って、海帆は大きなあくびをした。
「あら、眠れなかったの? あんた寝付きだけはすごくいいのに」
「うん……寝るのが遅くなった」
「そう言えば、なんか夜中ずっと部屋でしゃべってたわね。田辺さん?」
なんでここで雄一の名前が出てくるのだ、と思ったが、そういえば美帆子には恋人がいることを言ってあったのだ。
海帆は首を横に振った。
「違う。少しはしゃべったけど」
「あら、そうなの。話せてよかったじゃない。今日会うの?」
「ううん、向こうは今大阪だから。今回は急な帰国だったし、時間は取れそうにないって」
「そう、残念ね」
美帆子にそう言われて、海帆は肩をすくめた。
「仕事だから」
「お父さんみたいこと言うわね。それじゃ、誰としゃべってたの? あ、もしかして世海くん?」
「……………………うん」
海帆はため息をついて頷いた。
昨夜は世海と一晩中、話をしていた。
理由は分からない。話すことがあるわけではないのに、世海はやたら理由を見つけては海帆に連絡を寄こしてきたのだ。
頭痛がひどい、鼻水が止まらない、食欲もない、部屋の空調が効かない気がする等々、日本にいる海帆に訴えたところでどうにもならない事をわざわざ連絡して寄こし、海帆はその都度、対処法を調べて教える羽目になった。
お陰で雄一との会話にあまり時間が取れなかったのだが、雄一も海帆も長話をだらだら続けるタイプではないし、相手は病人だ。
具合が悪い夜に一人でいて心細いのだろう、と思って付き合っていたのだが、飼ってる金魚の元気がないと言われた時はさすがにお手上げだった。
なんだったんだろうあれは。
世海の不可解な鬼電の理由が分からず、海帆は眉を寄せた。
彼は海帆が一人でいるのかをしつこいほど気にしていて、何度も部屋に一人でいるよと言っても疑っていたのだ。
いい加減面倒くさくなったので、ビデオ通話にして部屋の様子を見せたら、急に大人しくなってしどろもどろになり、そして突然、俺の部屋も見せると言って海帆と同じように自分の部屋の様子を見せてきた。
ベッドシーツは青いんだ。
海帆はそれぐらいの感想しか持たなかったが、世海は海帆の部屋に興味を持ったのか、部屋の内装やら本棚にある本などについてやたら質問をしてきて中々解放してくれず、結局深夜遅くまで話し込んでしまったのだ。
「仲良くやってるみたいね。帆波ちゃんの言う通りかも」
「お姉ちゃんがなに?」
海帆の質問に、美帆子は何でもないと手を振った。
「世海くんが、そのうち日本に来るかもよ、て言ってたのよ」
「ああ、そう言ってたよ。こっちに来てお母さん達に会いたいって」
「…………あら、そう。あらあら」
あらあら、ともう一度言って美帆子は妙にソワソワと落ち着きが無くなった。
「メグさん達も連れてきたいって。日本観光したいらしいよ」
「ああ、そう。そうね、そうね」
今度は少しホッとした様子で頷く。
様変わりする母の様子も気にせず、海帆は最後の鮭の一切れを口に運び、朝食を食べ終えた。
「ごちそうさま」
食器を片づけ、流しへと運んでいく。
「お母さん、洗うからいいわよ」
「いいよ、少ないし」
手早く洗って、水切りラックに重ねる。濡れた手を拭いてるところで、テーブルに置いてあった携帯電話が鳴りだした。
「こんな時間に誰だろ」
まさか、また世海ではないだろうな。そうだったらどうしてくれようか。
暇を持て余しているのかもしれないが、できれば今日は仕事に集中したいのだ。
手に取って画面を確認した海帆は眉を寄せた。
世海ではなかった。
電話は陳宇翔からだった。
これもまた不思議なことだ。
海帆は今日本にいるし、それは彼も知っているはずなのに、なぜ電話がかかってくるのだろう。
もしかして世海になにかあったのか。
ひんやりした考えに急き立てられ、海帆は通話の表示をタップした。
「喂、你好?」
『……………………俺だ』
典型的な振り込め詐欺の応答だが、この声は耳に染み付いている。昨夜も散々聞いた。
緊張した肩から力が一気に抜ける。
「世海くん、どうしたの? なんかあったの?」
『部屋から閉め出された』
「は?」
何を言ってるのか分からず、海帆は一瞬フリーズする。
世海はいらいらした声でもう一度言った。
『家に入れないんだよ』
「なんで?」
なんでそんなことになっているのだ。熱が出て寝込んでるはずなのに。
『さっき宇翔哥が来て、出て言った時にスマホを忘れて行ったんだ。それを渡しに行こうと外に出たら』
ドアが閉まったのか。
海帆は唖然としてしまった。
台湾の住宅の玄関ドアはオートロックが多いので、この手の失敗談をよく笑い話などで聞くが、まさか身近で起きるとは。
「少し待ったら陳宇翔さんが取りに戻ってくるんじゃない?」
気を取り直してそう言うと、世海は電話の向こうでため息をついた。
『翔哥はスマホを何個か持っているんだよ。そのうち気づくだろうけど、明日の朝三時までは会う予定がない。お前、この番号以外で翔哥の携帯番号知らないか? 知ってたら教えてもらうか、連絡して欲しかったんだけど』
海帆は知らなかった。そもそも陳宇翔が携帯電話を複数持っていることも知らなかった。
『俊宏の番号も?』
「トシさんとは連絡先の交換をしていないから…………」
そうか、と世海は気落ちした声で言った。
「管理人さんに言ったら? 開けてくれるでしょう」
『いるけど、会いに行くのはマズいと思う』
「なんで?」
この期に及んで何を言っているのだ。部屋から閉め出されたなんて、よくあることなのだから恥ずかしがる必要ないではないか。
『いま、ほとんど服を着ていない。上半身はなにも。ついでに頭も濡れている』
世海はそう言って盛大なくしゃみをした。
職場の本社オフィスへ向かう地下鉄で、海帆は物凄い勢いでスマホを操作していた。
世海が自宅マンションで半裸状態のまま家から閉め出されていると連絡が来てから、すでに半時間ほどたっている。
急がなければ。
熱愛報道から時間はそんなに経っていないのに、ゲイ疑惑の上にさらに公然わいせつ罪が追加される事態は避けなければならない。
マネージャー陳宇翔も友人の呂俊宏とも連絡が取れないときて、海帆は世海の母親メグさんに頼もうとしたのだが、世海はそれを嫌がった。
『こんな情けない姿、見せられるわけないだろ!』
何を言っているのだこの男は!
緊急事態なのだからと説得したが、世海は頑なに嫌がった。
挙句には、自分でなんとかする、と言って電話を切ろうとしたので、海帆はメグさんを頼るのは最終手段にして、改めて対策を模索した。
そこで思いついたのが、陳宇翔か呂俊宏のSNSにメッセージを送ってみては、というものだった。
この提案を世海は承諾したが、陳宇翔の携帯電話ではできなかった。
もともと彼のスマホにはロックがかかっており、世海は緊急通報機能で海帆に連絡してきていたのだ。
通話しかできない上に、充電も残り少ないと言う。
仕方なく海帆がメッセージを送ることになったのだが、そもそも海帆はSNSのアカウントを一つも持っていない。
興味がなかったからだ。
主要SNSアカウントをすべて持っている帆波や友人などから、何度も持ちなよと言われていたのだが、気が乗らずにうやむやにしていた。
こんなことなら、一つくらい付き合いで作っておけばよかった。
今更そんなことを嘆いていてもしょうがない。
カカカカカ、と過去一番のタップスピードを駆使して、アカウントを作成していく。
アプリをダウンロードして、ログイン情報の入力をすればすぐに作成できると思っていたのだが、認証コードの入力という作業も必要で、これに時間がかかってしまった。
家を出てすぐに地下鉄に乗ってしまったのが原因かもしれない。
認証コードがなかなか届かず、届いてすぐに入力をしても、今度は認証が上手くいかない。
ようやく通ったと思ったら、次はパスワードとプロフィールの設定である。
考えたシンプルなユーザーネームは、ことごとく他の人と重複して使えず、ようやくパスしたら今度は自己紹介文の入力ときた。
なんなの自己紹介文って!
海帆は頭を抱えた。
焦ってはいけない。
世海が寒空の下、半裸のずぶ濡れの状態で海帆の助けを待っている。
まるで笑い話だ。
でも笑えない。世海は風邪を拗らせやすいから、すぐに家に入れて布団に放り込まないと、体力勝負の芸能界で力を発揮できなくなる。
なんども駅を乗り過ごしそうになりながら、海帆はスマホ画面とにらめっこをして、地下鉄構内を移動する。
ようやくアカウントが出来上がった。
アイコン写真の設定など、飛ばせるものは全てすっ飛ばし、海帆は世海に教えてもらった呂俊宏と陳宇翔のアカウントを探す。
呂俊宏は店を経営しているし、陳宇翔は業界人なので、アカウントは割と早く見つけられた。
すぐにプロフィールページから、世海が半裸で閉め出されているので温かい服と飲み物を持って救出に向かって欲しい、というダイレクトメッセージを送信する。
ここまで来て、ようやく海帆は人心地がついた。
そして気づいたら、目の前にはル・グロンブルホテル本社ビルが聳え立っていた。
荘厳な姿の前に、呆然と立ち尽くす。
なんの準備もしていない。
世海の締め出し騒ぎの対応に夢中になって、やっておこうと思っていた準備はまるでできていなかった。
しばらくぼーっと本社ビルを見上げていたが、すぐに気持ちが切り替わる。
まあいいか。
なんにもしていなさ過ぎて、逆に落ち着いてしまった。
そもそも、報告書はすでに提出済なのだ。
それを今更あーだったこーだったと考え込んだところで、無駄な足掻きではないか。
海帆がすることは、作成した報告書を元に出される質問に対し、誠実に且つ客観的に答えることのみである。
そう思ったらいつもの余裕が戻り、海帆は開放感のあるエントランスへと颯爽と歩き出した。
読んでいただき、ありがとうございます。




