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帰り道、優は自転車をこぐ幸一の背中にさばりついていた。
小さな子供とはいえ背中に負っての2人乗りなど危険極まりない行為に思えたが、その点に関しては杞憂だったというべきか――優には体重というものが全く感じられなかった。
今更この程度では驚くほどでもなくなってしまったが、触れられているのに重みがないというのはあまりに感覚がちぐはぐで、どうにも落ち着かないものがある。
アパートに着くと、すぐにシャワーを浴びてコーヒーを注ぐ。その様子を見て優が不安げに服の端を掴んだ。
「またお仕事?」
「うん」
簡潔に答えると、優は最近見せていなかった寂しそうな様子でそう、と呟いた。
今までだったら、それ以上何も言うことはなかっただろう。そして何も言わなかったからこそ、優はバイト先にまでやってきたのだ。
これ以上優を1人にしておくなんて、幸一にはできそうになかった。
「眠くないか?」
「うん、起きてようと思えば、ずっと起きてられるよ」
「‥‥じゃあ、一緒に行くか?」
幽霊だけど子供。子供だけど、やはり幽霊。だからこその、そんな誘い。優は途端に表情を輝かせると、迷うことなく「行く!」と全力で頷いた。
これに関しては完全に賭けだったが、配達センターで準備をしている間は興味深げに辺りをうろつき、準備が整うと当然のように荷台の新聞の上に乗っかる優を見咎める者は、幸いにもいなかった。
原付に乗っている間はまともに声をかけられることはできず黙々と配達をしていく幸一だったが、それでも優はそこにいるだけで嬉しそうだった。
激しく風を受けながら長い髪を風になびかせ、時折「はやーい!」とか「くらーい!」とか「信号無視はダメっ!」と背中を叩かれたりしながら、今までこのバイト中に感じたことのない感覚に思わず表情を緩めてしまうのだった。
新聞を配り終えてアパートに帰ると、幸一はすぐに朝ごはんの準備をする。冷蔵庫に入れてあるご飯とおかずのタッパーをレンジで温め、コップにお茶を注ぐ。
「朝ごはんは?」
「じゃあ、ちょっと食べる」
準備を終えて机の前に腰を下ろすと――優は幸一の膝の上にちょん、と乗っかった。
「‥‥‥‥」
ジト目で優を睨むが、優は嬉しそうに笑うばかりでその場を動こうとしない。少しは馴染んでくれたかと思ったら、馴染み過ぎだった。
やがてため息を1つついて、諦めた。触れていなければ食事もできないのだから、まあこの状態は、かなり邪魔だけど、間違ってはいないのかもしれない。多分。
そして結局優が食べたのは、幸一の小さな楽しみであった食後のヨーグルトだけだった。
朝ごはんが終わると、いつもの気まずい沈黙が今にも降りそうになっていた。しかしここで何もしなければ今までと同じだ。本当は今すぐ寝たかったが、少しだけ我慢して昼に寝ようとあくびをかみ殺し、降りてくる沈黙を押し上げようと頭を働かせた。
遊ぶといってもなにも思いつかないし、話すといっても座り込んで面と向かって話すのもどうにもおかしい。ならば他にできることはと考え、
「‥‥散歩でも、行くか?」
そうして思いついたのがそれだ。一緒にいられるし話もできる。歩いているだけだが何もしていないわけではない。我ながらなんとも無難な案だとは思うが、思いのほか優は嬉しそうだった。
「行く!」
言うなり、優の服装が白いジャージに変わった。帰ってすぐパジャマに戻っていたし、この自由に服装を変えられる特技(?)を案外楽しんでいるのかもしれない。
幸一も服を着替えるが、運動するわけではないのだから動きやすい格好である必要はない。ジーパンに黒いトレーナーを着ると、上からフードつきのコートを着込み優の手を引いて外に出た。
朝の外の空気は相変わらず冷たい。しかしバイトや学校の往復だけのために外出していた今までとは、どこか空気が違うように感じた。今まではただ寒いとしか思っていなかったが、今は季節を感じているとでも言えばよいのだろうか。とにかく何か新鮮だった。
「どこ行くの?」
「あー‥‥どっか行きたいとこある?」
「なにがあるのか知らない」
そりゃそうだ。
「えーと‥‥じゃあ、土手にでも行ってみようか。30分くらいで着くと思う」
「うん!」
スキップでも始めそうな調子で優は幸一の隣を歩きはじめた。
幸一の歩調は緩いが、優はそれを急かしたりはしない。歩くことやどこかに行くことではなく、幸一と一緒にいることそのものが楽しいとでも言うようだ。
そんな態度を取られては、幸一とて嬉しくないわけがない。
当然ではあるが、道中での会話は禁止させてもらっていた。優の姿が他のほとんどの人には見えないという事実に変わりはなく、周囲に誰もいなければ一言二言交わすこともあったが、基本的には無言で歩き続けた。それでもずっと感じていた気まずさは不思議となく、優も始終上機嫌で幸一の隣を歩いていた。
すれ違う人は誰1人、優に意識を向けているようではない。単に興味がないだけかも知れない。しかしおそらくそれは、その人たちには優が見えていないからなのだ。それに気づいているのかどうかは分からないが、優が無理をしているようではない笑顔を浮かべているのを見るとそれだけで柔らかい気持ちになれた。
徒歩で来たことなどなかったが予想通り30分ほどでその土手には到着した。今までまともに意識など向けたことはなかったが、国道と垂直に伸びる川のすぐ横にはウォーキングやランニングに適していそうな、土で舗装された道がある。今も1人の男性が規則的に息を吐き出しながらざくざくと地面を踏み鳴らしていた。
その途中に風雨に薄く汚れた小さなベンチを見つけ、軽く表面を払ってから腰を下ろす。優はちらりと幸一に視線を送ってから川の方へと駆けて行った。
それを眺めていると優がひどく自然な足取りで水面上を走りだしたのでぎょっとするが、すぐにすとんと足は水面下へと落ちていった。どうやら触れられないというのは水も同様であるらしい。当然といえば当然なのかもしれないが、今の光景は少々心臓に悪い。
触れられない以上ばしゃばしゃと飛沫があがることはなく不思議な光景だと思っていたが、優もその感覚を面白がっているらしい。楽しそうで何よりだが、こんな季節に水と戯れているというのはどうにも違和感がありすぎやしないだろうか。
気になって辺りを見回してみるも、時間帯のせいと人通りが少ないこともあって優に視線を向けている人は見る限りはいないようだ。今も老夫婦が目の前を歩いて通り過ぎていったが、優には一瞥もくれることはない。
幸一は静かな気分で、楽しそうに駆けまわる優の姿をしばらくの間眺め続けていた。
関係のない、他人のために自分の時間を潰しているはずなのに、今の幸一はただ穏やかな気分に満たされていた。
やはり幸一は、優と自分を重ね合わせているのかもしれない。
分からないことがたくさんあって、不安に思ったり悩んだりしていて、だけど誰かに相談することもできなくて。
だからせめて優がこうして楽しそうに笑っていられるなら、たとえ現状は何も変わっていないとしても少しだけ安心できるような気がした。
何も分からないなら、今はそう思えるだけでも十分かもしれない。
幸一は久々にのんびりとした気分で――大きなあくびをひとつして、頭をかくんと揺らす。
「‥‥‥‥ねむ」
そしてそれ以上の眠気に満たされながら、嬉しそうにこちらに手を振る優の姿を半眼で眺めるのだった。




