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そうして、幸一と優の2人の生活が始まった。
優の幸一の呼び方は「お兄ちゃん」で定着してしまったようだ。
姉しかいなかった幸一には妹ができたようで嬉しく思わないでもないが、どうにも慣れなくて落ち着かない。しかし優はその呼び名を改める気はないらしく、どうやら幸一が慣れる以外に解決策はなさそうだった。
そういえば優のことでもう1つ分かったことがあった。
それは条件さえ満たせば、優も物を動かすことができるということだ。
その条件は単純――優が幸一に触れていればいい、ということだった。
体の一部でも優が幸一と接触していれば、優は物を動かすことができる。そしてついでに、食事をとることもできる。特に必要な行為ではないらしいけれど。
幽霊少女のことも多少は分かり幸一の生活に大きな変化が現れたとはいっても、その生活スタイル自体が変わるわけではなく、今日も今日とてバイトに行かなければならない。
ほとんどの人には見えないとはいえ、多くの目がある場所にあえて優を連れていくわけにもいかず、留守番をしてもらうことになった。
よく考えると今日は全く寝ていないという事実に出かける直前に気づき、気づいた途端に眠気が襲ってくるが、ここは我慢するしかない。
「じゃあ、行ってきます」
「うん、行ってらっしゃい」
出かける前にそんな言葉を交わし、幸一は思わず動きを止めた。
「‥‥お兄ちゃんどうしたの?」
「あ、いや、なんでもないよ」
幸一はすぐに気を取り直し、アパートを後にした。
バイト先に向かいながら、先ほどのやり取りを思い出すと思わず頬が緩む。
――行ってらっしゃいって、思ったよりいいものだ。
×××
居酒屋のバイトが終わってアパートに帰ると、部屋の中はしんとしていた。
電気をつけると優は部屋の真ん中で布団にも入らず静かな寝息を立てている。
どうして、と一瞬思ったが、簡単な話だ。幸一がいないから布団を敷くことも入ることもできなかっただけかと思い当たる。
一応気分の問題なのか服装は大きめの黒いダッフルコートになっているものの、今朝(日付的にはもう昨日だが)のワンピース姿からも分かるように、暑い寒いは関係ないのだろう。
そういう姿を見ると、優が普通の人間ではないのだということを改めて実感させられる。その穏やかな寝顔だけ見ていれば、普通の生きた人間と何ら変わりないように見えるのに。
幸一は優を起こさないようにシャワーを浴びて、少し濃いめにドリップしたコーヒーを飲みながら優の寝顔を眺める。
少し戸惑いながら、その頬に触れてみた。子供独特の温かみこそ伝わっては来なかったが、決して死者を連想させる冷たさはないし、触れた感触は柔らかい。
ここにいればいいとは言ったものの、やはりまだ戸惑いは残っている。今朝は優の不安げな姿を見ていられなくなってあんなことを言ったが、しかしこれからどう接すればいいのかとか、分からないことは多い。
それでも、自分の判断が間違っていたとは思わない。冷静になって考えてみてもあの状況で他に選択肢があったとは思えないし、現状はこれで構わないと思う。
だが選択が正しいからといって、その後の行動の指針が得られるわけではないのだ。
――まさに、今の自分の状況と同じだ。
適当な場所に就職するのはよくないという考えは、間違っているわけではないと思う。
しかし、ではそこからどうすればいいのかは、分かっていない。
コーヒーを飲み終えると、幸一は荷物を持ってすぐに立ち上がった。
「行ってきます」
昨日まではずっとそうだったはずなのに、たった一度それがあっただけで応じる声がないことについ寂しさを感じてしまうのは、果たして甘えだろうか。
×××
「お兄ちゃん、おかえりなさい」
「うん、ただいま」
早朝、新聞配達から帰って来た幸一を、早くも起きていたらしい優が出迎えてくれた。日が昇ったばかりの早朝であるというのに、随分と健康優良児であるようだ。
今は淡いピンク色のパジャマに白いフリース地の上着を羽織った姿になっている。少しは場所と時間帯による服装のこだわりはあるらしい。
簡単に挨拶を交わして、部屋に入ってカバンを置く。
出発の時と同じく、おかえりなさいという言葉はやはり嬉しかった。しかし今回はそれを素直に喜んでいられない、それまでとは決定的に異なる点が1つ。
「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」
同じ空間に2人いるのに、早くも会話が途絶えてしまった。
なんというか少し、いやかなり気まずい。というよりやりづらい。
別に、幸一は子供の相手が苦手というわけではない。が、今はあまりにも状況が特殊だ。子供と一緒に〝遊ぶ〟のと〝暮らす〟のとでは、天と地ほどの差がある。
一緒に過ごすのが一過性ではなく継続的になるだけで、どれほど感覚に違いがあるのかを絶賛体験中。これはとてもいい経験じゃないか、と胸中で皮肉ってみたりする。
当然こんな状況を想定などしたことがなかったので部屋に遊べるようなものなどあるはずもなく、そして優は1人で勝手にはしゃげるような子でもないらしく、状況の打破はどうやら幸一がしなければならないらしい。
「‥‥昨日は、何してたんだ?」
とりあえずそう声をかけると、優はしばらく考えるように黙ってから、どこか言いづらそうに答えた。
「えっと‥‥何もしてない」
「そっか。‥‥あ、そっか」
何気なくそう返しかけ、すぐに気づく。
優は幸一に触れていなければ、物に触れる以上のことができない。つまり1人の間は本を読むことも、テレビを見ることもできない。
ならば1人の間ずっと、何をすることなくただじっと過ごしていただけだというのか。
「その‥‥ごめんな」
幸一の言葉に優はふるふると首を振って応えた。
「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」
再び、会話が途切れる。
優もなんとなく居心地悪そうに、適当な場所に座り込んだままじっとしている。
かなり特殊な状況下とはいえ、突然見知らぬ大人(優目線では俺も十分大人なんだろうなあ)と暮らすことになったのだから、当然といえば当然か。
朝ごはんを用意しながら優も食べるか尋ねるが、優はもう一度首をふるふると振っていらないという意を表した。遠慮しているのか別に欲しくないのか、もしくは食べるには幸一に触れていなければならないので、それに抵抗があるのかは分からない。
朝ごはんを終えると、急激に眠気が襲ってきた。昨日は完全に徹夜だったのだから、疲れ切った体としてはごく当たり前の反応だ。
「んん‥‥俺ちょっと寝るな」
「えっ、今、朝だよ」
「うん、最近朝寝る生活になってるから」
「え、え? なんで? どういうこと?」
優には昼夜逆転の生活というものが理解できないらしい。本当に健康的なお子様だ。
「大人は大変ってことだよ。じゃあお休み。あ、テレビだけはつけとくな」
幸一が寝てしまえば再び何もできない時間がきてしまうとギリギリで気づき、テレビをつけてから目をつむると、まどろむ間もなく意識は眠りの闇へと落ちていった。
目が覚めると、夕方になっていた。瞬きをするかのように寝て覚めただけのような気分だが、1日寝ていなかったからかかなり深く眠ってしまっていたようだ。
見ると、優は幸一の足にわずかに触れつつ本を読んでいた(活字の本でちょっと驚いた)。そういえば幸一の体さえあれば、ある程度の自由はきくのだった。わざわざテレビをつけておくまでもなかったか。そのテレビは本を読むのに邪魔になるからか消されている。
「‥‥おはよう」
「あ、おはよう。お兄ちゃん、今日もお仕事?」
「うん、もうちょっとしたら、行かなくちゃいけない」
「‥‥そっか」
幸一はとりあえずコーヒーを淹れ、ぼけっとした頭のままゆっくりそれをすする。
間に睡眠以外をほとんど挟むことなくバイトが続くと、どうにも調子が上がらない。
バイト行って、バイト行って、寝て、バイト行く。
さすがの幸一もそんな生活は許容しがたい。まあそのぶん昨日は寝てないし、突拍子も現実味もない出来事にも遭遇したのだけれど。
ちら、とその突拍子も現実味のない存在に目を向けると、優は何とも言えない表情で幸一を見上げていた。
なんだかんだで、お互い馴染んでないなあ‥‥。
当然といえば当然だが、このままでは今後色々とよろしくないだろう。
「‥‥飲んでみるか?」
ふと、その視線が時折幸一の手元にも注がれていることに気づき、優にマグカップを差し出した。優は期待にかわずかに表情を輝かせると、ずりずりと移動して幸一に触れるよう真横までやってきてマグカップを受け取り、
「にがっ」
一口すすっただけで、顔をしかめてマグカップを突き返した。その仕草があまりに子供っぽくて、幸一は思わず小さく噴き出してしまう。
「そんなのが美味しいの?」
「美味しいよ。大人の味だから、子供にはまだ早いだろうけど」
わざと意地悪に言ってやると、優は不満げにうー、と唸る。
幸一はコーヒーにミルクしか入れないので、子供の味覚ではずいぶんと苦く感じるだろう。幸一も飲み始めのころは砂糖も必須だったが、味覚は変わっていくものだ。
そのやり取りで少しは距離を縮められたかと期待したが、そんな簡単にどうにかなるほど、人間関係(相手は幽霊だけど)というものは甘くないようだ。まるでこのコーヒーのように、とか格好つけて付け足してみたり。
コーヒーを飲み終えると、幸一は荷物を持ってバイトの準備をする。
「テレビ、つけとく?」
「ううん、いい」
遠慮かもしれないと幸一は少し悩んだが、気を遣いすぎるのも逆によくないかと、結局そのまま出ることに。
「じゃあ、行ってきます」
「帰ってくるのは、また朝なの?」
「うん」
「‥‥わかった、行ってらっしゃい」
去り際に軽く頭を撫でてやると、優はほんの少しだけ表情をほぐしてくれた。




