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「こーいっちゃん、なんかいつもに増して眠そうじゃなあ」
「‥‥はい、テストのせいでしばらく睡眠時間削ってたんで」
織人の言葉に幸一は半眼で答え、くぁ、と大きなあくびをひとつ。試験の日程は全て終了し今日から春休みという、他の学生は飲み会の1つでもして騒いでいるだろう日だが、学校が終わってほとんど間をおかずに来ている幸一はいまだ疲れを引きずったままだ。
「はは、その程度で参っとるようじゃ、まだまだ甘えな」
「そんなこと言ったって織人さんこそ‥‥って、うわっ!」
眠そうな視線のまま幸一は織人に向き直り、その顔を見て思わず声を上げた。手にしていた具材入りのタッパーを落としかけ、危ういところでキャッチする。
「ははは、オレなんかもう3日ほど、マトモに寝てねえからな!」
織人の目の下にはくっきりと、もうなんだかそういうメイクでもしてきたのではないかと疑うほど壮絶なクマが刻まれていた。
眠気のせいで今まで織人をちゃんと見ていなかったので気づかなかったが、彼の周りの空気がどよどよと淀んでいるほどだ。だがその口調だけは無駄に力強く、それがむしろ壮絶さを強調していた。
「ちなみにその前の1週間は平均睡眠時間3時間くらいな」
それも十分マトモではない。幸一が言えたことではないが。
「知りませんよ。ていうかそんな状態でなんでバイト来てるんですか。寝てください」
「はは、そんなん金がねえからに決まっとるだろ!」
半ば白目すら向きながら答える織人。見ているこっちが疲れそうだ、と幸一はため息をついて目の前の料理に視線を移す。
「そんなになるくらいなら、普段からもう少しくらい勉強したらどうですか」
「全力で遊びたい。そのためには金も稼がんといかん。毎日遊んで、飲んで、バイトして、その結果がこれだ!」
「そうですかたいへんですね」
幸一は織人を冷たくあしらい、もう一度深いため息をついた。
将来を真面目に考えている=真面目に勉強している、の図式は必ずしも成り立たない。幸一とて大学の講義に関しては雑なところはある。バイトや遊びに行くために講義をサボるのは決して珍しいことではない。が、この織人の状態は異常だろう。いったいどれだけ普段何もしていないというのか。
「で、1つくらいは単位とれそうなんですか?」
「ほぼ落とす前提で聞くなや! 運が良けりゃあ3つはとれる!」
容赦ない質問を投げるのは幸一ではなく、ホールのバイトちゃんである。彼女も幸一らと同じ大学の後輩だが、あの様子だと幸一よりもまだ余裕がありそうだ。
「ったく、最近の若いもんは礼儀がなってねーよな、こーいっちゃん?」
「正直なだけじゃないですか?」
「こーいっちゃんまで!?」
「予約の団体様でーす」
「はーい」「うぃー!」
いつの間にか仕事に戻っていたバイトちゃんの声にけだるく答え、眠さをこらえて仕事モードに移行する。そろそろ忙しくなる時間なうえ、数組の予約も入っているので忙しさはいつも以上だ。
「ああ‥‥オレこのバイトが終わったら、ぐっすり眠るんだ‥‥」
「死ぬんならバイト終わってからにしてくださいね。俺1人じゃ回せませんよ」
「こーいっちゃん、けっこう冷てぇよな‥‥」
「新規5名様でーす」
「はーい」「よろこんでー!」
一気に客が増え始めたようだ。幸一は今度こそ織人の存在を意識の隅に追いやり、目の前の仕事に集中を向けた。
×××
「なあこーいっちゃん、就活どーなん?」
ピークが過ぎ厨房も落ち着いてきた頃、突然織人がそんな話を振ってきた。普段の緩い空気がどことなく薄く、口調も少しだけ真面目だ。織人も幸一の状況は把握しているため、少なからずの心配をしてくれているらしい。
「相変わらず、です。俺自身、よく分からないんですよ」
「とりあえずどっか、とかは考えんの?」
「考えなくはないですけど、とりあえずじゃあ真剣になれる気がしなくて。面接でもなんだか、本気じゃないのとかあからさまに態度に出ちゃいそうなんですよ」
上辺の言葉ならいくらでも並べられそうだが、上辺はあくまで上辺でしかない。仮にそんな言葉でどこかに入れたとしても、そんな気持ちで働き続けられるか疑問なうえ、そんな程度で入れるような企業なら高が知れているとも思う。
じっと正面を見つめたままの幸一の答えに、織人は「んー」としばらく唸り、
「もっとさ、楽になればええんじゃね? 少しくらい力抜いてええと思うよ、オレは」
「将来そうするための、今ですよ。俺だってもちろん、適当にどこかに決めたほうがよっぽど楽なんだろうとは思います。でもずっと先のことを考えると、そうするわけにもいかないですし。それに、今更視点を変える余地もあるとも思えません」
「なんていうか、まあ、その‥‥」
頑なともいえるその言葉に対して上手い言葉が見つからなかったのか、織人はそこで言葉を止めてしまった。
「まあオレも、人に説教できる立場じゃねーからなあ」
「ホントですよ。織人さんはむしろ、もっと真面目になってください」
「ははは、みんなに言われるわそれ」
からかうように返すと、織人も笑ってそれを受け止めた。そしてそんな織人の目は相変わらずどんよりしている。本当に早く寝てほしい。
「でも、ありがとうございます、気にかけてもらって。友達とか、周りに変な心配かけてるのは分かってるんです。でももう少し、考えてみますよ。自分のことですから」
「そーじゃな。まあ、自分が納得できるまで考えりゃええよ」
「織人さんも自分のために頑張ってください」
「同情するなら単位をくれ!」
「イヤです」
×××
試験が終わるとしばらくは、予定帳にバイト以外を書き込むことがなくなってしまう。近々ゼミのみんなで飲みに行こうという話はあるが、その程度だ。
今日も今日とて幸一は居酒屋のバイトを終え、自転車で帰路を走っていた。
今日はこの後に新聞配達がある。幸一は小さくあくびを漏らし、アパートの前に自転車を停めた。
かつかつと外階段を上り、2階にある部屋のドアを開ける。勝手知ったる部屋なのですぐに電気をつける必要もない。ほんの2,3mほどの廊下と一体化している狭苦しいキッチンを真っ暗なまま通り過ぎ、6畳の小さな部屋に入ってようやく電気を点ける。
どさ、とカバンを置いて息を吐き――吐いた息をすぐさま飲み込んだ。
ぎょっとして、その光景に目を奪われてしまう。
――1人暮らしのはずの自分の部屋に、自分以外の人間がいた。
普通なら驚くなり焦るなりするべきなんだろうと思う。しかし幸一がそうしなかったのは、というよりできなかったのは、ひとえにそこにいた人物が、あまりに場にそぐわない存在だったからだ。
そぐわないというか、意味が分からない。
それゆえ焦りや恐れなどはほとんどない。あるのは大きな疑問だけだ。ただひたすらに混乱してその場に立ち尽くす。
幸一はしばらく立ち尽くす以外の行動を忘れ、部屋の中央で無防備に眠る――幼い少女から目を離せないでいた




