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早朝というべきか深夜というべきか迷う時間に、幸一はアルバイトへ向かうためアパートを出た。外は夜明けには程遠く人の気配はなく、静謐に包まれていた。
幸一は現在、居酒屋と新聞配達のバイトを掛け持ちしている。夕夜間は居酒屋で働き、その後すぐに新聞配達へ向かい、早朝に帰って少し休むというのがここ半年ほどの大体の生活習慣だ。ただし居酒屋は日中も営業しているため人手が足りない時は昼から働くこともある。昨日がまさにそうであり、バイトが終わってからはゼミの準備。そして夜はゼミの仲間と遅くまで話していたため、睡眠時間は3時間程度。
疲れていないといえばウソになるが、大学に入ってから様々なアルバイトを転々としており、そのたびに生活習慣をひっかきまわされ今のように日々いろんな時間に働くような生活もしばしば。そのせいで、というべきかそのおかげで、というべきかは幸一自身よく分かっていないが、空いた時間で少しずつ睡眠をとることに慣れていた。徹夜だとさすがにツラいものがあるが、少しでも睡眠がとれればとりあえずは十分である。
そろそろ付き合いが4年目に突入する愛車のクロスバイクにまたがり、幸一は新聞配達センターへ向かった。
2月と言うこの時期の夜中から早朝にかけては、日中とは比べ物にならないほど外の空気は冷たい。もっさりと上下に着込んで大げさに思えるほど防寒対策をしているが、原付で走っている時はこれでも寒いと感じるほどだ。
「おはようございまーす」
幸一が配達センターに到着したのは午前2時半過ぎ。すでに到着していた数人の社員やバイトの人たちがおはよーっ、と眠たげな挨拶をくれる。
時間が早朝ということと平均年齢が高いこともあってかトラックが来るまでの時間はぽつぽつとした会話が交わされるのみで、棚やら原付の荷台やらの上に適当に腰掛けて静かに待つ。少しすると1台のトラックがやって来て、手早く準備に取り掛かる。
準備ができた者から適当に出発してゆき、幸一も早々に準備を終えると夜明け前の街へとタイヤを滑らせた。
×××
アパートに帰ってきたのは6時過ぎ。部屋に帰ると小さく息をつき、カバンを放るととりあえずシャワーを浴びた。浴び終えると冷蔵庫からご飯とおかずの入ったタッパーをそれぞれ取り出して電子レンジに突っ込む。ご飯は一気に3合炊いて1合ずつ冷蔵保存しておくのが幸一の習慣だった。おかずは夕飯時に数人前作り同じようにタッパーに入れて冷蔵庫に入れておく。
別に料理が好きなわけでも、もともとマメな性格をしていたわけでもない。ただこれからの生活に対して、日々の習慣と金銭面において少なからずの対策をしているというだけである。
ご飯が温まっている間にコップにお茶をついで、狭い部屋の真ん中にある1人用の小さなローテーブルの上に置いてテレビをつける。チャンネルは適当。
6畳の部屋にはこれといって目立つものはなく、こざっぱりとしていた。よく言えばシンプル、悪く言えば面白みに欠けている。
一方の壁には3段ボックスがいくつか並んでいて、その中には筆記具やファイル、衣類やら音楽CD、ちょっとしたおやつなどが雑多に並べられており、さらにその上にはプリンタと小型のコンポ、そして片づけるのが面倒だった本やらボールペンなどがいくつか放られていた。ベランダへ続く大窓を挟んで反対側の壁には同じく3段ボックスがこちらは横向きに置かれ、その上にはテレビとゲーム機、下には数本のゲームソフト、残りの2か所には幸一のちょっとしたこだわりであるコーヒーが、レギュラーやドリップ、インスタントなどがそれぞれ2、3種類ずつ並べられている。
電子レンジがピーッと飾り気のない電子音を鳴らし、適度に温まったご飯を机の上に並べると幸一は黙々と食事を始めた。食後に申し訳程度の健康補助にヨーグルトを食べるのは幸一の習慣の1つである。
朝食を終え本でも読もうと試みるが、視界がぼやけて文字を追っても頭に入ってこない。どうやら睡魔に抗うのも限界が近いらしい。
仕方なく机を寄せて布団を敷き、横になって目を閉じるのとほぼ同時、幸一の意識は瞬く間に眠りへと沈んでいった。
×××
目が覚めたのは昼前。寝た時間も起きた時間もまともには確認していないので、睡眠時間はどの程度だったのかはよく分からないが、最低限疲れさえ取れればそれだけで十分だ。
幸一は睡眠が嫌いだった。別に、一刻一秒を惜しむような毎日を送っているわけではない。しかしそれでも、こんな中途半端な立ち位置にいながらのうのうと眠りこけることには強い抵抗があった。のんびり寝ているくらいなら、その時間で何かできることがあるはずだ。
だから眠くて頭が重くなることも、寝起きに思考が朦朧としていることも、そういった前後を含め睡眠という行為全てが嫌いだった。
とりあえずざぶざぶと顔を洗って目を覚まし、コーヒーを飲みながら読書を始める。適当な時間に昼食をとって、その後は再び読書開始。
昔から少しは本を読んでいたが、大学に入ってからは読書量が一気に増えていた。本を読めば読むほど自分の中の世界が広がっていくようですごく楽しかったからだ。何がしたいかを真剣に考え始めてからは、物語の中から何か自分のしたいことが見つかるかもしれないと思い一心不乱に読書にふけっていた時期もあった。
出版など本に関係する仕事に就くことも当然考えたが、それは何か違うような気がしてその方面の就職は考えから外したものの、見聞を広げ、考え方を柔軟にするという意味も含めて読書はずっと続けている。
気づくと時刻は夕方近くまで迫っていた。思ったよりも没頭してしまっていたようだ。
簡単に腹を満たしてから夕方からのバイトの準備を始める。とはいっても準備というほどの準備もないのだが。
バイト用の汚れてもいい服装に着替えると、最低限の荷物を持ってアパートを出る。自転車で走ること10分弱、幸一の働く居酒屋『くぅねる』に到着した。ごうんごうんと音を立てて回る換気扇から吐き出される、すっかり嗅ぎ慣れた油っこい臭いを全身に浴びながら従業員入り口の扉をがこんと開く。
「おはようございまーす」
店内に入りながら挨拶を投げると、厨房とホールからおはよー、と少し気の抜けた声が返ってくる。厨房に入るとすでに来ていた1人が仕込みを始めていた。ちなみに今は朝ではないが、時間に関係なく「おはよう」と挨拶をするのは社会では割と普通のことらしい。幸一も色んなバイトをしたことで知り得たことだ。
「おう、こーいっちゃん。おはよー」
やはり気の抜けた声で挨拶をくれるのは榊橋織人。幸一の2つ上の先輩である。染めているのか地毛なのか淡い茶髪でひょろりと背は高く、細い垂れ眼も相まって人が良さそう、もしくはどことなく気の抜けた見た目の先輩である。
次に〝4年〟になる幸一の、〝2つ上〟の、先輩である。
つまるところ絶賛留年中、大学5年目の先輩だ。とはいえ明るくて人当たりがよく細かいことにこだわらないので、残念な人だが人望はある人だった。
現5年生。そして、
「織人さん、テスト大丈夫なんですか?」
「おう、ちょー頑張りゃあ、ギリギリ卒業できる可能性もある!」
「それ、頑張る気ない人の台詞ですよね」
そして、6年生候補である。若干不思議な訛りのある織人の言葉に、幸一は呆れた態度を隠す気もなくため息をついた。
6年生候補かつ、単純にやる気の問題でほとんど就活など行っていない織人であるが、ここでは重宝されているうえひどく馴染んでいるので、店長に社員昇格を勧められているそうだ。するかどうかはとりあえず保留にしているらしいが。
そしてぐだぐだと無駄話をしながら食材の仕込みを開始する。幸一はすでに、少々注意を逸らしたところで問題なく働ける程度に仕事に慣れていた。
「新規5名様でーす」
「はーい」「おいっすー」
そうしているうちにホールからいつもテンション低めのバイトちゃんの声が届き、たくさんの注文が厨房にも入り始めた。
それを皮切りにぞろぞろと客が入りだし、どうやらピークの時間が来たらしい。2人は一旦無駄話を止め、仕事に専念し始めた。
×××
バイトが終わったのは午前1時過ぎ。アパートに帰るとコーヒーを飲んで一息入れ、すぐに出る準備をする。すぐ新聞配達に行かなければならないため、休んでいられる時間は1時間もない。
自分の時間も作っているし、先日のように友人と過ごす時間もある。それでもどこかこんな生活は枯れているような気がしないでもないが、それも今後のためだ。そもそも本来なら今は就活に奔走しているはずの時間なのだ。それを投げうっているわけだからこの程度の忙しさは受け入れてしかるべきだろう。確かにしんどいし疲れもするが、ツラいとは思っていない。これは全て、自分のためなのだから。
配達センターに到着し、すでに来ていた人たちとぽつぽつと言葉を交わしているとトラックがやってきてすぐに各々動きを仕事モードに切り替える。
慣れている人、比較的配達部数の少ない人から準備を終え、いってきまーす、お先ッスー、などと気の抜けた声を投げて夜明け前の街へ繰り出してゆく。
幸一もすぐに準備を終え、昨日と同じように、未だ夜の明けない薄暗い街へと繰り出すのだった。
アパートに帰ったのは、やはり昨日と同じく朝6時過ぎ。規則正しいといえば規則正しいのかもしれないが、昼夜逆転の生活はそれだけである程度の疲労を伴う。慣れ切ってしまえばそうでもないのかもしれないが、幸一はまだ今の生活を始めて半年。生活習慣を乱されることに慣れたとは言っても、決して疲れないわけではない。
しかし幸いというべきか、明日の朝は新聞配達は休みである。休刊日ではなく、単純に幸一の休みの日だ。
幸一はそろそろ新聞配達を辞めようと思っている。理由はこれ以上続けても得られるものは少ないと思ったからだ。金銭的な話ではなく、経験的なもので、だ。
半年もやっていれば仕事ほぼ流れ作業のようになり、何も考えずとも出来るようになってきてしまう。そうなると働くのは確かに楽になるが、しかし多くの経験を積みたいと思っている幸一としてはそれ以上続ける理由はなくなる。明日が休みなのも、ここから徐々に引き継ぎの人に配達日数を譲っていくからだ。ずっと週6で配達していたのを試験に合わせて週4に減らしてもらい、試験が終わるとさらに週3に減らし春休みが終わると同時に辞める予定である。
わずか半年ながらも、幸一は早くに仕事を覚えすっかり馴染んでいたため、辞めさせてほしいと言った際はずいぶんと渋られたものだ。しかし就活があるから、と言うとどうにか引き下がってもらえた。この時期の就活という言葉は本当に便利だ。配達センターの人たちには申し訳ないが、自分のために必要なウソもある、と割り切らせてもらうことにする。
‥‥そもそも今にして思えば、自分がやりたいことを探すための様々なバイトだが、いくらなんでも新聞配達など遠回りで見当外れすぎる気がする。一体新聞配達という行為に何を求めていたというのだろうか。やったことがないこと、という考えに囚われ少し見境がなかったかもしれない。
とはいえ全くの無駄とは思わないし見解が広がったであろうことは事実だ。失敗も含めて今後に活かしていけばいいし、活かしていかなければならない。卒業が近いという意味も込みで、余裕なんてないのだから。
朝食を済ませると、幸一はいつものように朝日を浴びながら眠りにつくのだった。




