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Dear you  作者: くらうでぃーれん
11.失ったもの、失いたくないもの
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11


 幸一には2つ上の姉がいた。


 ――7歳の時まで。


 姉は明るくて優しくて、よく家に友達を連れてきたりもしていたし、学校でも人気があったんだと思う。

 幸一も男の子らしい明るい性格をしていたので、同級生の友達だって少なくなかったしその友達ともよく一緒に遊んでいた。


 それでも幸一と姉、八咲(やさき)(りん)の関係は疎遠になることなく、ケンカをすることもあったけれど、それでもとても仲の良い姉弟(きょうだい)だった。

 凛は同年代の子に比べてしっかりとして大人びており、そして大人の女性に憧れて背伸びがしたい年頃でもあった。幸一は何の気なしに凛とも遊んでいたけれど、今にして思えば凛は大人で落ち着いた〝いいお姉ちゃん〟であろうと努力していたんだろう。いつもわがままを言うのは幸一だったし、凛はそれを寛容に受け入れてくれていた。


 そしてその日はお互い都合の合う友達がちょうどいなかったからか、2人だけで外に出かけていた。凛は快活な女の子だったから時には男子に交じって外で駆けまわったりもしていて、幸一もよく外で遊んでもらっていた。


 季節は、夏。凛は白いワンピースでつばの広い帽子をかぶり、幸一の一歩先の帰り道を歩いていた。

 その日何をして遊んでいたかはよく思い出せない。だけど凛の太陽に映える白いワンピース姿と明るい笑顔は、今でもよく覚えている。――いや、今ようやく思い出したと言わなければならないだろう。


 明日は誰と遊ぶとか、昨日は誰と何をしたとか、楽しそうに振り返りながら話す凛の声を聞いているとなぜか幸一も楽しくなって、自分でも何が楽しいのかよく分かっていなかったけれど一緒になって笑っていた。


 ――そしてそれは、一瞬の出来事だった。


 話しながらだったせいか、振り返りながらだったせいか、今となってはそんなことを考えてもどうしようもないけれど、とにかく凛はそれに何の反応を示すこともできなかった。


 ――横道から現れた、スピードを殺しきれなかった車に。


 最期の瞬間まで、凛は気づいていなかったのだろうか。

 幸一が最後に見た姉の表情は笑顔のままだった。


 大きくて重い鉄の塊が凛の体を打ち、小さくて軽い体はあっけなく跳ね飛ばされて、硬いコンクリートの地面に叩きつけられた。


 その瞬間、世界から全ての音が消えたように何も聞こえなくなった。

 7歳だった幸一は突如として起こった目の前の光景が理解できず、ただただ呆然と、動かなくなった姉と、地面に広がってゆく赤い水たまりを眺めることしかできなかった。


 ――それからあとのことはよく覚えていない。車を運転していた人が大慌てで電話をかけて、けたたましいサイレンを響かせながら救急車がやってきたことはぼんやりと覚えている気がするが、気づくと幸一は学校の制服を着せられて、お坊さんが詠みあげるお経を聞きながら、壇上に横たわる白い棺を眺めていた。


 姉が死んだ。


 それは7歳の幸一には大きすぎるショックだった。

 泣いた。毎日泣いた。もう大好きな凛に会えないことを知って、凛の写真を見る度、何度も泣いた。数日ふさぎこんだりもした。


 目の前で起こったその壮絶な事故の映像は幸一の脳裏に焼き付いて離れず、しばらくは学校でもまともに誰とも口をきけなかったし、あの日一緒に出かけなければとか、後ろではなく横を歩いていればとか、どうしようもないことを後悔して自分を責めたりもした。


 ――だけど幸一の周りには仲のいい友達がいた。ふさぎこむ幸一を励ましてくれて、時間はかかってしまったけれど少しずつ幸一は元の明るさを取り戻していくことができた。

 家族が死んで悲しむなんてことは誰だって同じだ。そして幸一も凛によく似て、年齢の割にはしっかりしていたのだと思う。家族の死というあまりに大きな悲しみに気持ちの整理をつけられないほど、幸一の自我は不安定なものではなかった。


 どんなに悲しくても、どんなに辛くても、乗り越えていかなければならないものがある。

 そしてもちろんそれは、凛のことを忘れてしまったというわけではない。祖父母よりも早く仏壇に入ってしまった凛に何度も手を合わせたし、墓参りだって毎年行った。


 だから幸一は決して、悲しみに打ちひしがれて記憶を深く押し込めてしまったわけでも、いつまでも凛に執着して死という事実を拒絶してしまったわけでもない。普通よりも少し大きな悲しみを経験したというだけのはずだった。

 高校に合格したときだって、それを凛の墓前に報告しに行きもした。


 だけどその頃から少し、その行為に対してどこか虚ろになってきていた。

 凛のことは大好きだったし、その死は悲しすぎる出来事だった。それはいつまでも変わらない。だけど死者を悼むその行為に何の意味があるのだろうと、分からなくなってきていた。


 大学に進学したころから、幸一は前ばかりを見るようになっていた。ずっと先のこと、将来を見据えて日々を過ごしていた。

 そう思い始めたことに何かきっかけがあったわけではない。不意に意思のない就職に疑問を覚え、少しずつその思いは大きくなり、いつしか将来のために、自分のためにひたすら奔走するようになっていた。


 だからといって友人との交流だっておろそかにしていたわけではない。サークルに入って、バイトを始めて、色んな人と出会って色んな人と話して色んな経験をして、それらを糧に色んなものを見たいと思った。実際に他の人よりは多くのものを見てきた自信がある。


 だけど幸一が見ていたものは全部、今と未来、自分より前にあるものだけだった。

 だからずっと昔、幸一が7歳の時そこに置き去りにされてしまった姉の姿を、いつの間にか見失ってしまったことに気がつかなかった。

 初めて彼女と出会った時も、凛と全く同じ姿をしていたはずなのに、あの頃と何も変わらない笑顔を向けてくれたはずなのに、幸一は思い出すことができなかった。


 ――過去を振り返ろうとしなかったから。

 ――自分の後ろを見ようとしていなかったから。


 いつの間にか足元すら見えなくなっていた幸一に、後ろを見る余裕なんてなかったから。

 いつからそうなってしまったのかは幸一自身よく分からない。

 気づいたら前しか見えなくなっていて、気づいたら何も見えなくなっていた。


 そんな幸一に〝今〟という大切な時間を思い出させてくれたのが、優だった。――凛だった。

 視野を広げようと必死になって、だけどたくさんのものを見失っていた弟にそれを気づかせてくれたのが、凛だった。――優だった。


 それなのに、今の今まで気づくことすらできなかった。いや、もしかするとどこかで気づいていたのかもしれない。だけど思い出すのが、後ろを振り返るのが怖くて、無意識に否定してしまっていたのかもしれない。


 実際、姉がいたという事実は覚えていたはずだったのだ。だけど幸一の思考はそこで止まっていた。

 姉がいた。それが示す意味も、その姉の姿さえも、幸一は思い出すことを拒絶していたのだ。

 昔から変わらない、優しくて大好きな姉のことを。




 幸一は泣いていた。

 全部思い出して、自分が情けなくて、凛に申し訳なくて、涙を抑えることができなかった。立っていることもできず、畳に手をついてぼろぼろと涙をこぼした。


「ごめん、ごめんなさい‥‥。姉ちゃん‥‥! 俺‥‥っ」


 凛は泣きじゃくる幸一を見て、そっと立ち上がってその頭を小さな体で抱き締める。

 先程まで悲しみに震えていた少女の姿はもはやなく、そこにあるのは泣いている弟を包み込んでくれる優しい姉の姿だった。


 凛は何も変わらなくて、幸一はこんなに大きくなってしまったけれど、あの頃と変わらない暖かくて優しい温もりだった。


「ううん、こうちゃんは悪くないよ。忘れてちゃっても仕方ないよ。本当は私はもう、いないんだから」

「でも姉ちゃんは‥‥俺のところにまた、戻ってきてくれて‥‥っ。俺が何も、見えてなかったから‥‥」


 凛が幸一のもとに来たことは必然だったのだろう。幽霊なんて見たことがなかった幸一が凛だけは見えることも、幸一がどこにいても凛には分かることも。いわば家族の絆のようなものがあるということだろうか。


 たとえ幸一が凛のことを忘れてしまっていたとしても、凛は死してなお幸一のことを大切に思い続けてくれていたから。

 涙を流し続ける幸一の頭を凛は優しく撫でる。いつも幸一がそうしていたみたいに。


「ううん、違うよ。私もね、さっきまでは全部忘れてたの。ずっと思い出せなかったの。だから悪いのは全部私。思い出せなくてごめんね、こうちゃん。でも、忘れててもこうちゃんと一緒にいたのは、楽しかったからだよ。もしかしたら、嬉しかったのかもしれないね。こうちゃんがこんなに大きくなって、私の〝お兄ちゃん〟になってくれたことが」


 凛が初めて会った幸一をお兄ちゃんと呼んでくれたこと。それはもしかすると、いつも凛が〝お姉ちゃん〟を頑張っていた反動だったのかもしれない。凛も本当は誰かに甘えたくて、だけどそれができなくて、いつも大人ぶって笑っていたけれど、心の奥では色んなものを我慢して溜め込んでいたのかもしれない。そして無意識に甘えられる相手を、〝お兄ちゃん〟を求めていたのかもしれない。


「‥‥姉ちゃん、どうしよう。俺、どうすればいいんだろう。俺もう、何も分からないよ。どうすればいいか、分かんないよ‥‥っ」


 何かを見つけるために前を見続けていたのに、そのせいで姉の存在を見失っていた。何よりも大切なものを失くしていた自分が、一体何を見つけられるというのだろう。


「どうすればいいかなんて、私には分からないよ。こうちゃんがどうしたいかは、こうちゃんにしか分からないの」

「だって俺、もう何してきたか分かんないよ‥‥。姉ちゃんのことも忘れて、俺、今何を見てるのかもう、分かんないよ‥‥」


 泣きじゃくりながら、幸一はその小さな体にすがりついた。それ以外にはもう、頼れるものなんてないように思えたから。


 少しずつ何かが見え始めたと思っていたのに、途端に暗闇に飲み込まれたような気分だった。しかも自分をそこへ放りこんだのは紛れもなく自分自身なのだ。そのことが情けなくて、バカみたいで、もうどうしようもないと思えた。


 ようやく見つけたその何かは――〝見失っている自分〟だったんだから。

 それはどうしようもないほどに、あまりにも救われない真実。


「そうだね。こうちゃんはちょっと一生懸命すぎたんだよ。私もね、ちょっと不安だったんだよ? 最初の頃なんてずーっと怖い顔して、いっぱいいっぱいで、いつか爆発しちゃうんじゃないかって心配してたんだから。私のこともすぐに1人にしちゃうし。私も寂しくて追いかけちゃったけどね」


 凛はくすくすと笑って、より強く、優しく、幸一の頭を抱いた。


「でもね、今までのこうちゃんの頑張りを否定しちゃダメ。少ーしだけ周りが見えてなかっただけで、こうちゃんが色んなこと頑張ってきたっていうのは本当なんだから。私はずっと見てたから知ってるよ。だからね、今度はちゃんと前も足元も見ながら、もう一回その時のこと思い出してみよう? そうしたら、新しい何かが見えるかもしれないから。ね、だからこうちゃんの頑張りは無駄なんかじゃないでしょ?」

「姉ちゃん‥‥」


 ――その時、唐突に凛の体が淡い光とともに、うっすらと色を失い始めた。幸一は驚きに目を見開き、凛は自分の手を見つめて息を飲む。


「‥‥あれ、どうしたんだろう。あはは、おかしいな‥‥」

「‥‥ねえ、ちゃん‥‥? それ、どうなってるの‥‥」


 凛は薄れゆく自分の体を見つめながら、すぐに諦めたような笑みを浮かべた。


「全部思い出して、ここにいちゃいけないって気づいたのかも。それとも、最初から今日までって決まってたのかな。私にも分かんないや」


 幸一は言葉の意味を一瞬理解することができず、理解することを拒絶して、言葉を失った。空気を求めて喘ぐように唇を震わせ、ただ凛を見つめる。

 しかしそれを否定したところで何の意味がないということをようやく理解すると、震える手で凛の肩をつかんだ。


「‥‥そんな‥‥い、イヤだっ! 姉ちゃん、行かないでよ! また俺を、1人にしないでっ!」


 寂しくて、悲しくて、辛くて、幸一は見栄も意地も全てを忘れて必死に凛の体を抱く。しかし幸一のそんな思いをあざ笑うかのように、凛の体は徐々に光に包まれて、淡く儚くなってゆく。


「大丈夫だよ。だってこうちゃん、もうそんなに大きくなって。もう立派なお兄ちゃんじゃない。だから、大丈夫だよね?」


 幸一は頷くこともできず、黙って凛を見つめる。

 そうしているうちにもその輪郭は徐々にぼやけ、ただでさえ希薄な彼女の存在は今にも空気に溶けて消えてしまいそうになってゆく。どれだけ受け入れたくなくても、目の前の現実は変わらない。

 幸一が黙っていると、凛は目を細めてそっと幸一の頬を撫でた。


「‥‥あのね、私だって、寂しいよ。まだまだこうちゃんと、一緒にいたいよ。でもね、本当だったら、こうしてまた会えることだって、なかったんだもん。それだけでも、十分でしょ? 私は、それけでも幸せだったから。だから、仕方ないん、だよ‥‥。だから、お願い‥‥もう、お姉ちゃんに心配かけちゃ、ダメだよ‥‥」


 凛の声は震えていた。その眼は涙とは無縁に乾いているけれど、瞳は何かに耐えるように、切なく揺れていた。

 儚い笑みを向けられ、幸一はきゅっと唇を引き結ぶ。


 別れたくなんかない、けれど――


 本当にこれが最後だというのなら、情けないままの自分でいるのはイヤだった。

 見栄でもいいから、凛に自分が大きくなったところを見せたかった。

 最後まで、姉に心配をかける情けない弟でいるわけにはいかなかった。


「ね、こうちゃん。もう1人でも、大丈夫だよね?」


 だから幸一は涙に濡れた顔で、まっすぐに凛を見つめ、頷いた。


「‥‥うん、大丈夫」


 凛はそれを聞いて、うっすらと微笑みを返してくれた。

 そしてもう一度凛の体を抱きしめる。幸一の背中にも小さくて大きな手が回され――すぐにそれは腕の中の感覚とともに消えてなくなってしまった。


「‥‥‥‥あ」


 そこにはもう、何もない。そこに何かがあったという痕跡すら。

 幸一は1人、仏壇の前の、笑顔の凛の写真の前でぐったりとうなだれる。


「幸一、どうしたの!?」


 あまりに長く戻ってこないので気になったのか、和室へやってきた母親が仏壇の前で涙を流す幸一に驚いて声をかけた。

 幸一はゆっくりと顔をあげ、無理やりな笑みをつくった。


「なんでもないよ。ちょっとだけ――姉ちゃんのことを思い出しちゃっただけ」

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