10
「うん‥‥うん、分かってる。‥‥何日だっけ。‥‥うん、分かった。じゃあその辺りは空けておくから。‥‥うん、大丈夫。うん、それじゃあ」
電話を切ると、寝転がってテレビを見ていた優がじっと幸一を見上げていた。
「誰? 結輝さん? あ、愛衣さんでしょ!」
「違う違う。ウチからだよ。お盆までには1回帰ってこいって言われて」
簡単にそう言うと、優は不思議そうに首を傾げた。
「ウチって、ここじゃないの?」
「まあここもウチだけど、実家のこと」
「じっか? お兄ちゃん2つも家があるの!?」
「いや、うーん‥‥間違ってはないんだけど」
優が目を見開いて驚きを露にしているが、なんと説明したものか。多分1人暮らしというものがそもそもよく分かっていないのだろう。自分も小さい頃はいまいち分かっていなかったような気もするが。
お盆が近いという通り現在はすでに7月の終わりが近付いており、小中高の学生たちにとってはすでに夏休みが始まっている季節だった。
幸一の大学では試験が8月頭まであるため、多くの大学生はいまだ試験勉強に追われている真っ最中である。幸一は3年の後期で必要な単位は全てとり終えてしまったため、のんびりと早めの夏休みを満喫させてもらっている。
とはいえ週一のゼミがなくなっただけで日々のバイトは相変わらず、別段なにか変わったというわけでもない。
幸一のゼミでは結輝と愛衣、そして千尋がいまだ必要な単位を残しており、今もノートの内容を無理やり頭に詰め込んでいることだろう。結輝と愛衣は受ける試験は2,3つと言っていたのでそれほど心配なさそうだが、千尋は大量に受けなければならないためこの間もノート集めに奔走していた。
さらに就活生にとっては、ようやく結果が出始める時期でもある。幸一のゼミでは結輝が早くも内定をもらって浮かれており、公務員志望の香織と愛衣、そして裕也が最後の面接に向けて準備を進めている。
千尋は一応2,3社だけ受けかなり早い段階で落ちていたが、どちらにせよ卒業できなければ同じである。愛衣は最終面接が不安だと自信なさげに語り、香織はいつも通り落ち着き払っており、裕也はまあどうにかなりそうだと余裕げに語っていた。当然、発言の直後にこっぴどくイジられていた。
そして幸一は、結局何をすることもできないままこの時期を迎えていた。現状は春から何も変わっていない。
本当なら焦ったり落ち込んだりすべきなのだろう。実際、幸一の考え方を良しとしない人たちからは少なからず厳しい目で見られている。ゼミの教授もその1人だ。
ただありがたいことに両親は息子の動向に寛容であり(言い換えると放任主義とか関心が薄いとも言える。どちらかというと後者の方が近い)、さして苦言を呈されることはなかった。
そして当事者である幸一はというと、はっきり言ってあまり気にしていなかった。それが良いことだとはさすがに思っていないが、だからといって焦っても仕方がない。何かが見え始めている気はするし、すでにここまで時間をかけてしまったのだからあとはもう成り行きに任せようと思っていた。
ずいぶんとのん気になったものだと、我ながら思う。しかし幸一は少しずつ変わっていて、その変化を受け入れている。だからとりあえず今はそれでいいんじゃないかと思う。たとえいつか後悔する日が来るのだとしても今はこれが一番いいと思っているし、そう思っているのならそうする以外に選べる選択肢などあるわけがないのだから。
幸一は扇風機の風を浴びながら予定帳を開く。帰省の予定は半月以上先なこともあり、まだそこはバイトのシフトも出ていない。いい機会だし長めの連休でももらおうかと考えながら、優に視線を向けた。
「この日なんだけど――」
――優の顔を見た途端、言いようのない不安を覚えた。Tシャツにハーフパンツという非常にラフな格好をした優が、幸一を見つめ返して小首を傾げる。
言葉が喉の奥に引っ掛かって思うように声が出ない。一度口を閉ざしてから無理やり口を開く。
「‥‥優も、一緒に帰るか?」
「うん? もちろん!」
びっ、と親指を立てて勢いよく返事をする優。
それは、そうだろう。
バイトと違って数日間アパートを空けるのだから、優も連れて帰るのは当然だといえる。いつもだったら一緒に帰ることを当然として話を進めそうなのに、なぜか確認などしてしまっていた。答えなんて聞かずとも分かっているのに。
初めての遠出に無邪気な笑顔を咲かせる優に笑顔を返しながら、自分にすら説明できないこの不安を拭い去ることがどうしてもできなかった。
――なんで、帰って来いって言われたんだったっけ。
ふと、つい先ほどの会話がなぜか思い出せなくなっていた。
なぜその日を帰省日に選んだのか。お盆が近いからという理由もあったが、それ以外に母親が何かを言っていた気がする。日にちまで確認したはずなのに、その日が何の日だったのかが突如分からなくなっていた。
さっきだって優に帰る理由を話そうと思って、だけど言葉が出なくなってしまった。いったい、その日に――
「ねえ、お兄ちゃん、帰るのに時間かかるの? 乗り物に乗るなら、おやつ買って行こっ」
優に声をかけられ、我に返った。わくわくを抑えきれない様子の優を見て、その頬に触れて、幸一はいったん考えを中断させた。優に不安を悟られないよう、努めて明るい調子で答える。
「帰ってから、な。多分そんなもん食ってる余裕ないから」
「でも、座ってるだけでしょ?」
「甘いな。お盆の時期の交通機関をナメるなよ。優が思ってるよりずっと過酷だぞ」
「そ、そんなに‥‥?」
優はおびえた表情でぎゅっと幸一の服を掴む。その様子がおかしくて、やんわりと不安が塗り替えられてゆくのを感じた。
「うそうそ。でもそんな長旅じゃないから、どっちにしてもおやつは帰ってからな」
「そっかー‥‥。でも楽しみ。お兄ちゃんと遠くに行くの初めてだもん!」
優の笑顔を見つめながら、よく分からないことに意識を割くのは止めようと思った。
優と共に〝今〟を過ごす。それ以外にできることも、やりたいことも思い浮かばないから。
今はまだ、それでいい
――はずだから。
☆
実家に帰るにはまず電車に乗って地元の大きな駅まで行き、そこからバスに乗り換え家の近所まで行くという交通手段をとることになる。
お盆も近いということで、予想通り電車内は人でごった返していた。
どうにか座席を確保した幸一はカバンを足元に置き、優を膝の上に乗せて席に座った。以前の香織の言葉が思い出されてどうにも落ち着かないが、この状況なら仮に優の姿が見えたとしてもそれほど危険視(こんな心配しないといけないのは甚だ不本意だけど)されることもないだろう。
優は表情を輝かせながら窓に張り付いて外の景色を眺めている。人が多いのでできるだけ声はあげるなという幸一の約束を守り、嬉しそうに外を見つめているだけで優は静かだった。
大学生くらいの男と、小学生くらいの女の子の組み合わせ。そして楽しそうに景色を見ているのに言葉を発しようとしない少女。きっと、ひどく違和感のある光景ではないだろうか。この違和感に気づくことができる人間が、この人ごみの中にいったいどれくらいいるのだろう。
優は今、白いワンピースを着ていた。初めて出会った時と同じものだ。そして今は胸に抱えている大きなつばの白い帽子。まるで避暑地のお嬢様、大人に憧れる子供が精一杯背伸びをしようしている気持ちがひしひしと感じられる、そんな服装だった。
どんな服装をしていようと、優は優だ。それなのに、その装いを見た途端に幸一の心は激しく乱された。なにかが、記憶の隅に引っ掛かっている。ここしばらくはずっとボーイッシュな服装を好んでいた優がなぜ今日に限って、という疑問さえ口にすることがなぜか憚られた。
1時間もしないうちに電車は目的の駅に到着した。地元の駅の方がいくらか発展しているため人ゴミはさらに大きくなっている。人々の合間を縫うように歩きながら続いて駅のバス停へ向かった。
10分と待たないうちにバスがターミナルに到着し、それに乗り込む。朝という時間帯のせいかそのバスの経路のせいか、車内は比較的混雑していなかった。2人掛けの座席の通路側に座り窓側に優を座らせると、優は再び嬉しそうに外の景色を見つめていた。
先程から優の姿を見ていると、謎の不安が押し寄せてくる。だけど優の無邪気な姿を見ていると、ひどく安心感を覚える。
そんな矛盾した思いで胸中を満たしながらバスに揺られること1時間弱、目的地のバス停に到着した。そこは国道に面した小さなバス停で、そこで降車するのは幸一たちだけだった。
「ここからは何に乗るの?」
優は白い帽子をかぶり直すと、周りに誰もいなくなったことを確認して目を輝かせながら尋ねてくる。よほど電車とバスが楽しかったようだ。
「ここからはすぐ近くだから歩き。10分か、15分もあれば着くと思う」
「うん!」
それでも優は嬉しそうに頷いて、するりと幸一の手を握った。とても自然な動きで。
そして幸一も意識したわけでもなく、その小さな手をきゅっと握り返していた。
優と2人で歩く、久し振りの実家近所の街並み。国道を逸れて横の道に入ると、途端に街の喧騒が遠くなる。道を行く人の姿は今は見られず、交通量もかなり少ない。
遠くから聞こえる子供の声は道を逸れた先にある公園からだろう。客が入っているところなんて滅多に見ないラーメン屋は、しかし今ものれんを下げて営業中を示している。その先にある建物は元々何かのお店だったのか、今も昔も薄汚れた外装と白くくすんだガラス張りの向こうにごちゃごちゃとした内装をぼんやりと浮かび上がらせていた。
新築の家が建てられていたり、何があったのか覚えていないがぽっかりと更地ができていたりするところもあるが、おおむねずっと変わらない風景。幸一が生まれてから20年近く、特別変化があったようには思えない。都会とはとても言えないが、田舎というには自然の少ない中途半端な住宅街。
久しぶりにゆっくりと街並みを眺めてみると、思ったよりも色々と懐かしく感じるものだ。
懐かしむこと自体は別におかしなことではない。しかし今回に限らず年に数度は帰ってきていたはずなのに、なぜ今になってこんな感傷のようなものに浸っているのか。
そしてこの風景を見て感じる、なにかがぽっかりと抜け落ちてしまったかのようなこの感覚はいったい何なのか。
見知った街並みのはずなのに色々なことが分からない。陳腐な表現かもしれないけれど、幸一の育った街とよく似た、だけどどこか知らない場所に放り込まれてしまったかのような感覚だった。
そういえば、やたら周囲の様子をゆっくり観察できると思ったら優が静かだった。バスを降りてからこっち、全然口を開いていない。周りには2人以外誰もおらず、優が口を閉ざす理由はないはずだ。いつもだったら新しい場所に心躍らせ楽しそうにはしゃいでいそうなのに。現に移動中はずっとそうだったはずなのに。
「優、どうかしたか?」
声をかけると、優がゆっくりと振り向いた。どこか虚ろな瞳で幸一の姿を捉えると、ふにゃっと困ったような笑みを浮かべた。
「‥‥えへへ、ごめんね。なんだか周りを見てたら、変な気分になってきちゃって」
「‥‥‥‥優」
もしかすると、優は幸一と同じような漠然とした不安を抱いているのかもしれない。
ここに来て、同じような不安を抱き始めた幸一と優。何かを思い出しそうで、でも思い出したくなくて、何かに必死で抗っている。
何に抗っているのか。抗うことなどできるのか。それは本当に抗わなければならないものなのか。そもそもどうして抗っているのか。
不安を押し殺すように、帽子の上から優の頭をくしゃっと撫でた。優はくすぐったそうに笑うと、再び幸一の手を取って歩きだす。
入った覚えもない古びた銭湯を通り過ぎ、昔は酒屋だったはずの駐車場を越え、薄汚れたポストが目印の角を曲がれば、実家はすぐそこだ。道の突き当りには大きな公園があり、その少し手前の白い一軒家が幸一の実家だった。インターホンを押すまでもなく、実家なのだから幸一も鍵は持たされている。
玄関を開けると、当然ながら数カ月そこらでは何も変わっていない、いつも通りの眺め。左右に伸びる廊下の右手には洗面所と風呂。正面は昔祖父母が使っていた2部屋の和室。祖父母はすでに亡くなり、和室は現在それぞれ客間と仏間になっている。左手にはリビングがあり、そちらに向かうとソファに寝転がってテレビを見ている母親の姿があった。
「ただいま」
「あら、おかえり。いつもより遅かったのね。なにかあったの?」
「いや、のんびりしてただけ」
声をかけると、母親はひょいっと顔だけ起こしてどこか気の抜けた調子で幸一を見た。
手を洗ってカバンを下ろしたところで、その中身のことを思い出す。
「あ、そうだ、お土産」
「ああ、ありがと。仏壇に供えといて」
「‥‥‥‥うん」
母親は田舎育ちのためか、墓参りを含め先祖を尊重する考えが根付いている。しかしあまり気にしていない幸一はなにかとおろそかにしがちなので、仏壇へのあいさつとお供えはいつも指摘されることだった。
――そう、いつもと同じはずなのに。
徐々に、不安が具体的な形を帯び始めている気がした。
土産片手に振り返ると、そこに優の姿はなかった。
重い足取りで和室へ向かうと、がらりと開けた扉の先――
「‥‥‥‥優?」
優は仏壇の前に座り込んで、両手で顔を覆っていた。慌てて幸一が駆けより肩に手を添えると、その手に伝わる微かな振動。
「ごめん‥‥ごめんね‥‥」
消え入りそうな小さな声で、優はひたすらそう繰り返していた。そこには、いつもの無邪気な優の姿はなかった。
「優、どうしたんだよ‥‥」
声をかけ、自分の声も震えていることに気がついてはっとする。
優はゆっくりと顔をあげると、乾いた瞳で幸一の顔を見て、そして目の前の仏壇へと顔を向けた。
鼓動が高鳴る。
もはやこの震えは優のものなのか、自分のものなのかも分からなかった。
優の視線を追って、ゆっくりと幸一も仏壇へと視線を向けると、そこには小さな写真立てに収められた祖父と、祖母の遺影。そして――
「ごめんね――こうちゃん」
そして、明るい笑顔を振りまく、目の前で肩を震わせる優と全く同じ顔をした少女の写真が飾られていた。
今日は――姉の命日だった。




