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その日も優は、幸一を引っ張って2人で散歩をしていた。幸一もなんだかんだと言いながらも、以前よりも優のわがままに付き合ってくれるようになっていた。
幸一には少なからず迷惑がかかっているのかもしれない。だけど迷惑をかけろと言ったのは幸一自身だ。
だから優はあまり気にせず、幸一に迷惑をかけようと思っていた。それは幸一に対する甘えであり、信頼でもあった。
幸一と2人で歩く、家の近くの人通りの少ない道。少ないとはいってもゼロではないし、今見えないからといっていつ急に現れるかわからない。だから幸一はずっと無言で歩き続けていた。優が1人で色々と話しかけることはあるけど、幸一はその間ずっと前だけを向いて、だけど優の話を聞いてくれていた。
出かける時の服装はほぼ毎日違うもの。好きな服を好きなだけ着られるので、幽霊の体って意外と便利。
今日はデニムのショートパンツに、素気ない柄の灰色のシャツとシックな黒色のジャケット。最近お気に入りのボーイッシュないでたちは幸一の服装と似たものを意識していた。実際、今着ているシャツとジャケットは幸一の持っているのと同じものだ。幸一が少し嫌がるのでペアルックにはしないけれど。
幼い兄弟であれば同じ服を着ている人も少なくない。だから幸一と似た服を選ぶことでより本当の兄妹であるような感じがして、優はそれが嬉しかった。
「ね、お兄ちゃん、このまま買い物行こっ。ヨーグルト、もう無くなってたでしょ」
優の提案に、会話ができないなら答えようもないはずだが、このように「はい」か「いいえ」で答えられる質問に対してはさりげない合図があった。
2人はいつも手を繋いで歩いている。その手をぎゅっと握り返してくれれば「はい」。小さく振られた時は「いいえ」。そして幸一は、優の手をぎゅっと握り返してくれた。
最近の幸一は優しい。いや、もともと優しかったけれど、最近は優しいだけじゃなく、優のことを見てくれるようになった。
出会ってすぐの頃は、幸一は今にも切れてしまいそうなほどにいつも張り詰めていて、優のことはもちろん、自分自身さえも見ていないようだった。だから優は幸一に甘えることにためらいを覚え、どうすればいいのかもわからないままに少し気を遣っていた。だからあの頃は2人で黙ったまま部屋にいることが少しだけ気詰まりだったりもした。
だけど今はちゃんと優のことを見てくれる。少し前までは人が多いとこはダメと言って滅多に買い物にも連れて行ってくれなかったけれど、最近ではよく一緒に遊びに出かけてくれる。会話が無くても気詰まりに感じることもなくなった。
優は幸一が大好きだった。そして幸一も優が大好きだと言ってくれた。それがすごく嬉しくて、だから優は幸一と一緒にいられるだけで十分だった。
優にとってたった1人の、大好きなお兄ちゃん。手を繋いで歩いてくれるだけで、それだけで温かい気持ちになれる。
なんて思っていても、大きな誘惑には勝てないこともある。
例えば、スーパーのデザートコーナーとか。
いつも一緒に行くスーパーに到着するなり、優は幸一の手をぽーんと放り出して一目散にそこへ向かって駆け出していた。
優にとってスーパーは夢の国だ。だって目の前には美味しそうなおやつが種類も豊富に大量に並んでいるのだから。
優の好物は小さなカップに入ったプリンとかゼリーとか、あとヨーグルトも好きだ。プリンは普通のが好きで、ゼリーはコーヒーセリーが好きで(これは幸一も好きだから)、ヨーグルトはフルーツ系全般、特にいちご味が好きだった。そしてここには、その全てが揃っている。これが興奮しないでいられるだろうか。
プラカップに入ったぷるんと輝く宝石たちに完全に意識を奪われていると、いつの間にか他の客がすぐ真横にまでやってきていた。とはいっても優のことは見えないだろうし、意識していなければすり抜けていってしまう。だから優もあまり気にかけていなかったが、もう1歩こちらに踏み出そうとした若い女の人は「おっと」と声を上げて優を見た。
「ごめんね、気づかなかった」
そしてそう言ってすぐにその場を去って行ってしまった。
どうやら今の人は〝見える〟人だったようだ。こうして人の多いところに出かけていると、時々こういうことはある。
これまでの経験から、だいたい店の中だと1人いるかいないかくらいの割合のようだ。だけど今のところ優が幽霊だとひと目で気づいた人は、幸一の友人である香織を除いていなかった。
再び目の前に意識を戻して優が目をキラキラと輝かせていると、呆れた顔をした幸一がようやく追いついてきてくれた。幸一は優の真後ろに立つと、何も言わずに優の肩に手を置いた。
「今日はこれがいい!」
そう言って少し高めのチョコプリンを指すと、幸一は少しだけ難しい顔をしていた。が、優はすかさず幸一の手を掴むと、自らカゴの中にぽいと商品を放りこんだ。幸一は小さくため息をついて優のほっぺたをむにっと挟んで、だけどそのまま別の場所へ歩きだす。
幸一は優しくなったし、ちょっと甘くなった。優にとっては、イイコト尽くめである。
幸一が朝のヨーグルト(プレーン)を買おうとしていたのでその手を引きとめ、代わりに別のヨーグルト(いちご)をカゴに入れる。幸一はじっとりと優を見据えるも、結局は何も言わずにそれを買ってくれる。まあ結局、ヨーグルトを食べるのは優になるからというのもあるのだろうけれど。
買い物を終えるとアパートに戻って、早速買ってきたおやつを食べることに。幸一は座イスに深くもたれかかり、優はそのひざの間にすっぽりと納まる。優はいそいそと買ってもらったチョコプリンを買い物袋から取り出して「いただきます!」とスプーンでひと掬い。
「んー、おいしー」
「そりゃ、高かったからな」
頬に手を当ててうっとりとした声を漏らす優に呆れたように言いながら、幸一はチョコの詰まったスティック菓子をぽりぽりとかじりつつ机の上のパソコンをぱちぱちと叩いている。学校の宿題みたいなものらしいが、優にはよくわからない。
「お兄ちゃんも食べる?」
「食べる」
「はい、じゃああーんしてー」
幸一は遠慮なく答え、優がスプーンで口元まで持っていき、
「やっぱりあーげな‥‥ああっ!」
引っ込めようとしたところで、その前にかぷりと食べられてしまった。イジワルしようとあえて多めに掬っていたので、そのショックは大きい。遠慮がなくなったぶん、幸一は少しイジワルになった。
「絶対やると思った。俺の勝ち」
「お兄ちゃんのイジワル!」
「先にイジワルしようとしたのは優だろ」
「それは、そうだけど‥‥もー!」
にやにやしながら言われるけど、確かにその通りだから何も言い返せない。悔しいので幸一のお菓子を1本かじってやるが、プリンのほうがよほど甘いせいで味気なく感じてしまう。さらに負けた気分だ。
だけどそんな気分も、幸一に頭を撫でられただけでやんわりと霧散してしまった。
そんな単純な自分が悔しくて、でもやっぱり撫でてもらうのは嬉しくて、何とも言えない表情で優は幸一を見上げた。
優には自分に関する生前の記憶がない。「優」という名前ですら本当の名前でなく、幸一につけてもらった名前だ。
最初の頃は記憶が戻ればいいのにと思っていた。何もわからないのはどうしても不安だから。だけど最近は、記憶が戻ることに不安を覚え始めていた。
記憶が戻ることによって、幸一とのこの関係が崩れてしまうことが怖かった。幸一は今、優にとってたった1人の大好きな家族だ。だけど本当の家族のことを思い出してしまったら、たった1人でなくなってしまう。
記憶さえ戻らなければきっと、ずっとこうしていられる。記憶がないということは今の優にとって、幸一と一緒にいるための口実にすらなっていた。
わがままなのはわかっている。けれど、甘える人が幸一だけしかいないというのは、幸一に甘え続けるための言い訳。そして優は、その言い訳を求めていた。だからいつまでも、幸一には優にとってたった1人の家族であり続けてほしかった。
思い出せないのは不安。思い出すのも不安。そんな不安を御しきれるほど、優はまだ大人ではなかった。
プリンを食べ終えると、身を返して幸一にぎゅっと抱きつく。幸一は何も言わず、もう一度頭を撫でてくれた。
色んな不安があるけれど、それでも幸一と一緒にいると安心できる。
記憶もなく、存在そのものも文字通り希薄で、優は全てがあやふやだ。でもその中で唯一はっきりしているのは幸一のことが大好きで、大切だということ。
幸一の腕の中で、優は穏やかに眠りへと向かってゆく。幸一の腕の中は温かい。それは幸一の体温であり、心の温もり。たとえ何もわからなくても、こうしてずっと幸一と一緒にいられるのならそれだけで――
「あ、プリンまだひとくち残ってる」
「うそっ、ホント!?」
ばちりと眼を覚まして振り返ると、しかしそこにあるのは空のカップ。そして目の前にあるのは、幸一のにやにや笑い。
「あー、見間違いだった」
うー、と唸って幸一のほっぺたを引っ張り、そのまま腹の上でふて寝を開始した。
最近の幸一は少しイジワルなんじゃない。すごく、イジワルだ。
それでもそんな幸一が、優はやっぱり大好きだった。
☆
最近、色んな人に変わったと言われる。
自分でも少なからずの自覚はある。確かに生活そのものから、気持ちに余裕ができ始めているとは感じているから。
そのきっかけは間違いなく優の存在。
そしてそのきっかけのおかげで幸一には、他にも何かが見え始めているような気がしていた。
それが具体的に何なのかは、まだわからない。気づこうとしても、思い出そうとしても、その部分だけは今だに何かに覆い隠されているように感じていた。
だけど、その目の前を覆い隠しているものは自分自身の手であるようにも見えて、そしてその手の端から遠く霞んで見える向こう側に在るものは、
いつの日か見た、夏風にそよぐ白いワンピースのように見えるのだった。




