12-1
「ただいま」
つい、いつものくせで誰もいない部屋の中に声をかけてしまった。
そこには、誰もいない。幸一の前にも、隣にも、幸一の求める少女の姿はなかった。
凛と別れてからすぐ、祖父母と姉の眠る墓地にお参りに行って、お盆が明けてしばらく実家でゆっくりとした後、こうしてまたこちらへと戻ってきていた。
バイトもなく、ただゴロゴロしていればいい実家での数日間。ぞんぶんに体を休めることができるはずの帰省中の数日は、あまりにも空虚で退屈な毎日だった。
心にぽっかりと穴が空いたようで、彼女がどれほど幸一にとって大切な存在だったのかを改めて思い知らされたようだった。
帰ってきたのは昼前。そして今日は早速バイトに行かなければならないが、それまではまだまだ時間がある。幸一はカバンを放るとどさりと布団の上に寝転んだ。
また1人になってしまったし新しいバイトでも探そうかと思ったが、それでは今までと何も変わらない。同じことを繰り返したのでは意味がない。
前ばかりでなく、足元も。もっとしっかり今も見つめなければならないと気づかされたばかりなのだから。
だけど――
「‥‥今の、何を見ればいいんだよ。姉ちゃん‥‥」
幸一は1人ごち、ぼんやりと何をするわけでもない時間をただただ過ごしていた。
凛の前ではどうにか強がって大丈夫なんて言ってみせたけれど、強がりは強がりでしかなかった。いつまでもしょぼくれて、どうすればいいのか分からなくて迷っている。
ずっと先だけを見続けて、だけど本当は何も見えていなくて。ようやく今を見られるようになってきて――後ろにあるものを見失っていることに気がついた。
色々な物が見えるようになってきた矢先に、その全てのきっかけである凛を再び失ってしまったのだ。今更どんな1歩を踏み出せばいいのか分からない。もう何を見ればいいのか分からなくなってしまいそうだった。
何も分からないまま、バイトの時間が迫っていた。幸一はカバンをひっ掴んで立ち上がる。
「‥‥いってきます」
がらんとした部屋に投げた言葉に応える声はやはりなく、その声は静まり返った部屋に空しく響くだけだった。
「お、久々のこーいっちゃん。で、さっそく元気ねーな」
「‥‥おはようございます」
1週間ぶりくらいに会う織人は、相変わらずだった。相変わらず能天気だし、相変わらず幸一の心情の変化に無駄に敏感だ。今ばかりは、幸一が分かりやすいだけかもしれないが。
「おいおい、ほんまにどしたん? 元気ねーっていうか、半分魂抜けかけみたいになっとるで?」
あまりに反応の薄い幸一に、さすがの織人も少しばかり対応に困っているようだ。
「‥‥まあ、色々あったんです」
「そっかそっか、苦難を乗り越えてこその人生。こうやってこーいっちゃんも男の子になっていくんじゃな」
そして相変わらずワケの分からない織人だが、今はそれに突っ込む余裕もない。
しばらく、厨房に沈黙が落ちる。しかし沈黙を不得手とする織人は変わらない口調で声をかけた。
「まあ、よー分からんけど、話して楽になるんなら言えよ。オレに出来る範囲の相談なら乗っちゃるけえ」
「それはつまり、聞く以外何もできないってことですか」
こちらも相変わらず、容赦のない突っ込みは幸一ではなくホールのバイトちゃんである。それを受けた織人も「手痛いツッコミが来たー!」などとなぜか楽しそうだった。
よほどホールも暇なのか、珍しくしばらく漫才を繰り広げている織人とバイトちゃんの会話にも、幸一はまともな反応を示すことはできなかった。
のんびりと料理を作りながら、織人はそれでも変わらない態度で小さくため息を吐く。ため息にすら気楽さが混じる織人は、本当にいつでも気を張らない人だと思った。
「なあ、こーいっちゃん、いっこだけ言わせて。何があったかは知らんけど、落ち込んだってええことはなんもねえよ。反省するなとか全部忘れろっていうんじゃなくて、後ろ向きな考えで得することなんかほとんどねえってことな」
言いたいことは分かる。落ち込むという行為にメリットは何も無い。手に入るものがあるとすれば、同情の声くらいだろうか。
慰めや気遣いではなく、恐らくそれは織人の生き方そのものなのだろう。その言葉には意外なほど重みがあり、十分すぎるほど耳を傾ける価値があるものだった。
しかし幸一は「でも」と即座に否定の言葉を返した。
「後ろを向かないと見えないものも、中にはあるんです」
織人はしばらく何も答えず、やがて「そっか」と一言呟いた。
「じゃあ今のこーいっちゃんには、それしか見えてないんじゃな」
慰めても責めてもいないその言葉に、幸一は何も返すことができなかった。
散歩に出かけてみた。2人でよく歩いた道を辿ってみた。土手まで行ってみた。ベンチに腰かけて川を眺めてみた。だけどそこには何もなかった。
買い物に行った。間違えておやつを2人分買ってしまった。朝、ヨーグルトを食べるようになった。
昼寝をしなくなった。本をよく読むようになった。読み終わっても内容を思い出せなかった。
やっぱり新しいバイトを探そうかと思った。何もしたいと思えなかった。
卒論は着々と進んでいた。他にやることがなかった。
結輝から連絡をもらった。何かあったのかと聞かれた。何もないと答えた。
嘘はついていない。だって今の幸一には――何もないから。
「‥‥コーイチ、ホント大丈夫か?」
その翌日、結輝が押し掛けるように幸一のアパートにやって来た。そしてその隣にはなぜか戸惑った様子の愛衣もいる。
努めて隠すつもりもなく、凛のことについては一通り説明をした。それを聞いた結輝も愛衣も、どう反応していいやら困っているようだった。
「‥‥なあコーイチ。ツライのは分かるけど、いつまでも落ち込んでるわけにもいかないだろ。コーイチがそんなじゃ、その‥‥ねーさんだって、悲しむぞ」
ここで姉の話を出すのは忍びないと思ったのか、結輝の言葉は少し控え目だ。
「えっと、わたしも、よく分からないけど、でも、お姉さんも、幽霊なんだったら、きっとこのほうが良かったんだよ。あの、いや、良くないのかもしれないけど‥‥」
必死に元気づけようとしてくれているのは分かるが、何と言っていいのか分からないのだろう、何を言っているのか正直よく分からない。
「‥‥うん、ありがとう。分かっては、いるつもりなんだけど‥‥」
幸一が力なく答え、部屋に沈黙が落ちる。
「分かってんなら、ちょっとは元気出せよ‥‥。コーイチ、コーヒー飲んでいい?」
結輝は小さくため息交じりに言って、幸一が頷くと慣れた様子でケトルで湯を沸かし始めた。コップを探し、インスタントコーヒーを漁り始める。2種類あるうちの、高い方を遠慮なく選んでいた。
「アイちゃん、砂糖と牛乳は?」
「あ、1本、と多めで。‥‥あ、いや、遠慮気味でっ」
勝手知ったる様子で準備している結輝とは対照的に、愛衣はひどく戸惑い気味だ。しかしそれらのやり取りにも、幸一はまともな反応を示すこともできない。
湯が沸くと結輝は3人分のコップにコーヒーを淹れ、自分のと幸一のに牛乳を注ぎ、愛衣にはお好みでどうぞとパックを差し出した。愛衣はひどく遠慮気味に牛乳を少量注ぎ、くるくるとかき混ぜる。
「にがっ」
そして思わずと言った様子で顔をしかめ、直後に顔を赤らめていた。
「あ、ごめん。砂糖出すの忘れてた」
結輝が立ち上がり、その様子を見た幸一はわずかに――笑った。しかしその瞳は愛衣を見ながらにして、愛衣に焦点が合っているようではなかった。
「‥‥幸一くん?」
愛衣が首を傾げ、幸一は思わず浮かべていた儚い笑いを収める。
「あ、いや‥‥前に優‥‥姉ちゃんも同じような反応したことが、あったから‥‥」
彼女がここに現れて間もない頃、幸一のコーヒーを口にした凛が同じように顔をしかめてコップを突き返した時のことが不意に頭に浮かんだ。
幸一は再び表情を暗くする。考えるのは、そんなことばかりだ。
結輝が砂糖を持って来て、愛衣がひと掬いコーヒーに入れ、牛乳を注ぎ足し、くるくると混ぜてひと口すすり、わずかに表情を和らげる。
幸一もひと口コーヒーをすすった。いつもより少し苦めだったが、今はそれがちょうど良かった。
部屋に沈黙が落ちる。何か言ったほうがいいのだろうとは思いつつも言葉は出てこず、幸一もずっと無言を保ったままだった。
「ねえ、幸一く――」
見かねた愛衣がわずかに身を乗り出して幸一を見つめ、図らずも幸一と至近距離で顔を突き合わせてしまい顔を赤くして言葉を止めた。ちょうど以前の飲み会後の、幸一の部屋であった時と同じように。
しかし反応を示したのは愛衣だけで、幸一はぼんやりとしたままどこか遠くを見つめているだけだった。
「‥‥元気、出してよ」
愛衣は肩を落とし、俯いてぎゅっと両手を握りしめる。
「ちゃんと、わたしのことも見てよ‥‥」
その呟きは、しかし幸一に届くことはなかった。
こうして気にかけてくれる2人の気持ちは素直に嬉しい。それでも幸一はどうしても前向きになることができなかった。
凛はいなくなってしまった。凛がいるのはまた、幸一のずっと後ろになってしまった。ずっと後ろの、幸一が7歳の時のあの頃。
だから前を向いてしまうと、また凛を見失ってしまうような気がして怖かった。もう二度と、凛のことを忘れたくなんてなかったから。
だからもう一度前を向くためには、もう一度凛に会うしかないと思った。
甘えでもいい、依存でもいい、わがままでもいい。なんでもいいから、もう一度会いたかった。もう一度、話がしたかった。だから少しでいいから、もう一度戻ってきてほしかった。
――いや、中途半端な意地とか強がりとか見栄とか遠慮とかそんなものは捨ててしまおう。たった一度で、満足できるはずがないのだから。
だから幸一の願いは、結局はこういうことだ。
――いつまでも一緒にいて欲しい。
ただそれだけ。
結局、結輝も愛衣も何をすることもできないまま幸一のアパートを後にした。
2人が帰ってしばらくするとチャイム共に今度は香織が現れ、意外な来訪者にやや面食らうものの、それ以上の反応をすることはできなかった。
香織が家に来るのは初めてのはずだが、ひどく落ち着いた様子で座るよう促される。
「コーヒーの香りがするわね。私も頂いていいかしら」
「あ、ああ、うん」
飽くまでいつも通りのペースの香織の戸惑いながら、言われたとおりコーヒーを用意する。
「せっかくだから美味しいのが飲みたいわ。八咲くんのお気に入りはどれ?」
世間話の口調で、しかし要するに一番美味いものを淹れろと言われている。言われるがまま、幸一の一番お気に入りのレギュラーコーヒーを用意する。
「砂糖と牛乳は多めに入れてもらえるかしら」
先程の愛衣とは正反対の、清々しいまでの遠慮なさである。まあ、今でなくとも文句を言うつもりはないが。
しかしそのおかげでというべきか、わずかながらも気が軽くなったような気がした。
香織はしばらく無言でコーヒーをすすり、幸一もそれに合わせてコーヒーに口をつける。やっぱり、この粉は美味しい。
「少しは落ち着いた?」
「‥‥まあ」
別に落ち着きがなかったわけではない。どうしようもなく心が荒んでいるだけで。
「砂城くんも愛衣も、心配してくれてるのよ」
「分かってる」
やや殺伐とした返答をして、香織はコーヒーをすする間を空けてから続けた。
「優ちゃんの‥‥お姉さんのことはさっき2人に聞いたわ。なんというか‥‥残念だったわね、でいいのかしら。ごめんなさい、私も何と言っていいのか分からないの」
珍しく、香織の声に憂いが混じる。しかしすぐにいつもの調子に戻ると、真っすぐに幸一を見据えた。
「だけど八咲くん、早く元気を出しなさい。あなたがそんな様子じゃ、お姉さんも安心できないでしょう」
「‥‥分かってる」
香織が言うと、故人への言葉にも現実味が感じられる。それでも幸一は、呻くようにそう答える以外のことはできない。香織は毅然とした口調を崩すことなく続ける。
「辛い気持ちは分かるわ。最近の八咲くんはずいぶんと前向きになっていたから、尚更でしょうね。だけど、いつまでもそうしているわけにはいかないと、分かっているんでしょう?」
「‥‥香織さん、結局、何を言いに来たわけ?」
心配してくれている相手に対してずいぶんな物言いだと自覚はしている。けれど、荒れる感情を制御することは今の幸一にはできなかった。
対照的に香織は相変わらず淡々とした態度のまま答えた。
「八咲くんを元気づけに。もしくはお姉さんへの未練を断ち切るために来たのよ。大切な人を失って悲しいのは誰だって同じ。だけど今の八咲くんは少し落ち込み過ぎているわ。だから放っておけない」
「未練って。なにそれ、除霊の延長みたいなもの? まさに香織さんの得意分野ってわけだ」
「だから私は専門家ではないと言ったでしょ。そんなものまともにしたことなんてないわ」
「じゃあ、香織さんになにができるんだよ。俺に、どうしろっていうんだよ‥‥」
ふつりと怒りが湧いては沈んでゆく。そんな不安定なまま紡がれる言葉は誰に向けてのものなのか。
「故人ではなく、今生きている人に目を向けてあげなさい。だから、いつまでもお姉さんのことばかり考えてちゃいけないわ」
「簡単に言うなよ!」
静かに放たれた香織の言葉に、噛みつくように叫びをあげて睨みつける。
「‥‥ずっと、忘れてたんだ。あんなに大切だったのに‥‥。もう二度と忘れたくない。絶対に忘れるわけにはいかない‥‥。だから、少しも目を逸らしたくないんだ‥‥」
「だからといってそこまで極端に執心する必要はないでしょう。落ち込むことに何の意味もないわ。そもそも八咲くんは何を求めているの?」
「姉ちゃんに会いたいんだ‥‥。そうしないと、どうしたらいいのか、分からないんだよ‥‥。今のままじゃ、何もできないんだ‥‥」
たった1つの、そして全ての道標を失って、どうすればいいのか日に日に分からなくなっていた。
甘えだと言われても、情けないと罵られても、自分1人ではどうしようもなかった。
香織は一つ息を吐いてコーヒーをすする。乱れた感情が落ち着くのを待っていてくれているようだ。
ゆっくりと2,3口コーヒーを飲んでから、香織は再び口を開く。
「八咲くん、はっきりと言わせてもらうわ。お姉さんはね、もういないの。ずっと前に亡くなってしまったのよ。少しだろうと一緒にいられたことは、まさに奇跡なの。本当なら、死者が存在しているなんて間違ったことよ。お願いだから、それを理解して」
「分かってる。頭では、理解してるんだよ。でも‥‥」
一度言葉を切って凛の笑顔を思い浮かべる。昔の記憶にある凛ではなく、この間まで一緒にいてくれた彼女の姿を。
「‥‥確かに、姉ちゃんは姉ちゃんだけど、今の俺にとっての姉ちゃんは、もっと、違う存在だったんだ‥‥。間違ってても、ずっといてほしかった。なのに俺、大丈夫なんて嘘ついて、姉ちゃんに安心して欲しかったから、でも、全然大丈夫じゃなくて、だから、頑張らなくちゃいけないのに‥‥」
途中からはもう、ただの泣きごとに近いものだった。そんな台詞に、香織はわずかに反応を示す。
「‥‥お姉さんは、別れの時何と言っていたの? 自分が消えることに納得していたの?」
「‥‥いや、辛いけど、いちゃいけないからって‥‥」
「そう‥‥」
あの時の姉の表情を思い出す。今にも不安で泣きだしそうで、ほんとは縋りつきたかったくせに、大人ぶって幸一を突き放したあの顔。
それを思うと自分以上に、凛のことが弟ながら心配になる。あんなに甘えたがりのくせに、1人で大丈夫なワケないだろ、と。
「八咲くん、もう一度だけ言うわ。お姉さんのことは諦めなさい。もっと大切なものが、すぐに見つかるわよ」
「無理だよ。今までずっと、そうだったんだから」
「どうしても無理なの?」
「どうしても、無理だ。1人じゃ何もできない」
「お姉さんがいないと、前を向けない?」
「姉ちゃんだけが、今の俺の目印だったんだ」
「もう一度、お姉さんに会いたい?」
「会い‥‥‥‥‥‥たい」
普通に返事をしそうになって、しかし香織の言葉に含みがあることに気がついてはっと顔を上げた。
「‥‥香織さん?」
香織はふぅ、と諦めたような息をついてコーヒーを飲み干し、カップの底を見ながら呟くように言った。
「言ったでしょ、本来彼女がいることは間違っている。だからできることなら、八咲くんにはちゃんと立ち直ってほしかったの」
「方法があるの!?」
言葉を遮るように、香織にぐいと身を寄せる。香織は幸一の視線を真っすぐに受けて、はっきりと答えた。
「あるわ」
そしてすぐに、それを付け足す。
「ただし、可能性はあまりに低いけれどね。限りなく噂に近い方法だからその信憑性と、本当だったとしてその成功率も含めて」
途端に目の前が明るくなったような気がした。少しでも可能性があるというのなら、それがどんなものでも縋りたかった。
「それでも構わない」
はっきりとそう答えた幸一に、香織は不意に何とも言えない表情を浮かべた。
「‥‥ねえ、八咲くん。これは恐らく、私だけの言葉ではないと思うのだけれど」
そう前置いてから、香織はそれを問うた。
「――私たちじゃ、ダメなのかしら」
「‥‥‥‥!」
ぎゅっと、胸を引き絞られるような思いがした。
以前にも、結輝に同じことを言われた。お前はオレを頼ってくれないのかと、責められた。
決して彼らのことを軽んじていたわけではない。ただ少し、幸一の中で凛の存在が大きくなりすぎていただけの話。
それでもこうして面と向かってそれを言われると、やはりキツい。
――それでも今は、〝一番〟大切だと言わなければならないものがある。
「‥‥ごめん」
その謝罪は、今度こそ友人に対し「力不足である」と告げるものだった。いや、力不足というのは少しニュアンスが違うかもしれない。それでも、彼らにはどうにもできないのだと告げるものには違いない。
幸一が頭を下げると、しかし香織はさして残念でもなさそうに頷いた。
「そう、今の八咲くんは、そうなのね」
そして、少しだけ責めるように語気を強めるとひと言だけ付け加えた。
「ただ、あなたに一番求めて欲しいと思っている子がいることは、分かっておいて」
結輝とはまた違った責められ方にしばしぽかんとするも、すぐに漠然とした心当たりに気がついて、何も言えずに黙り込む。
「それじゃあ八咲くん、どんな苦行にでも耐えうる覚悟はあるかしら」
「俺に出来ることなら、なんでもするよ」
ぐっと表情を引き締めて頷いた幸一に、香織はくすりと愉快げな笑みを漏らした。
「なんて言ってみたけど、実際やることは簡単よ。というより、ほとんど無いに等しいわ」
「なんだよそれ、普通にビビったんだけど」
少しだけ気持ちに余裕ができたおかげで、幸一も小さく笑みを浮かべてそれに応えた。
しかし香織はすぐに、悪戯な笑みを殺して真剣な表情に戻る。
「だけど八咲くん、私がすぐに教えたくなかった一番の理由はね、もしこの方法で失敗したら――今度こそ八咲くんは、立ち直れなくなるかもしれないわ」
その通りだと思う。ただでさえ打ちひしがれた状態でさらに希望を奪われたとなれば、その時与えられる絶望は計り知れない。
真っすぐに香織の目を見つめ返し、幸一ははっきりと頷いた。
「それでも教えてほしい」
「‥‥分かったわ。本当に単純なことよ。あのね――」
香織はどこか優しい笑みを浮かべ、ようやく説明を始めてくれたのだった。




