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Dear you  作者: くらうでぃーれん
9.八咲幸一
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20/26

9-2


 講義が終わって学部の掲示板前に向かうと、そこにはすでに待ち人の姿があり、愛衣が小さく手を振るとこちらに気づいて軽く手を振り返してくれた。


 その待ち人は、同級生で同じゼミ生の幸一。先日ご飯でも食べに行こうとメールをもらい、愛衣が講義の終わった後のこの時間に待ち合わせをしていたのだった。

 自転車に乗って学校からほど近い定食屋に向かい、2人で少し早い夕食をとることにした。味は悪くないが量も値段も特別魅力的というわけではなく、店内は学生よりも社会人と思しき人たちのほうが多かった。


 愛衣もここを訪れるのは久しぶりだ。幸一がおごってくれると言うので、執拗に断ることはせず結局はお言葉に甘えさせていただくことに。

 向かい合って席に座り、食事を注文すると愛衣は少しだけ緊張気味に切り出した。


「それで、今日はどうしたの?」


 幸一はそれに少し曖昧な笑みを返す。


「あー、いや、別に用はないんだけど。なんとなく」

「そうなの? 相談があるとかじゃなくて?」

「うん。たまにはゆっくり話がしたいなーとか思って」

「そうなんだ‥‥‥‥ちょっと嬉しい」


 愛衣は思わず頬笑みを漏らし、幸一の少しきょとんとした顔を見てぼっと頬を赤らめると、わたわたと音を立ててしまいそうなほど慌て始めた。


「あ、べ、別に変な意味で言ったわけじゃないよ。そうじゃなくて、その、なんて言うか‥‥」


 愛衣は冷水を飲んで一息つくと、どう表現すべきか言葉を探した。


「‥‥今までの幸一くんってね、ちょっと誘いづらい雰囲気があったから。実際いつも忙しそうだったし、邪魔になっちゃうかなって。だから、幸一くんからなんでもないことで誘ってくれたってわかって、ちょっと安心した‥‥って言えばいいのかな」


 愛衣が曖昧な笑顔で首を傾げると、幸一も少し困ったように頬をかいた。


「そうだったんだ。別に、誰かと話すのはイヤじゃないし、ていうか好きだし、全然誘ってくれてよかったのに。ゼミの帰りとか結輝もよく誘ってくれてたしさ」

「うん、結輝くんはむしろ、だからこそ誘ってるって感じだったかな。放っておいたら幸一くんは誰とも遊ばないって、いつか言ってたし」

「‥‥否定しきれないからツラいかも」


 幸一は少し苦い表情でずず、と冷水をすすった。


「自覚はしてるよ。っていうより、そうだったんだなって最近気づかされた。ここのところみんなに言われるんだよ。柔らかくなったって」

「うん。わたしもそう思うよ」


 幸一は困ったような恥ずかしいような微妙な笑みを浮かべていた。


「原因は優、なんだろうな。確かに、優が来てからずいぶん余裕のあることしてると思うからさ。散歩とか、昼寝とか。あんな子供に何か気づかされるってのも複雑だけど、でも実際に優のおかげで何かわかり始めてるような気はしてるんだ。それが何なのかは、まだよくわからないんだけど」


 愛衣は苦笑いで語る幸一の言葉を聞いて、その隣に視線を向けた。その席は愛衣の目には空席に見えるが、実際のところどうなのか愛衣には判断できない。


「今日は、優ちゃんは一緒に来てるの?」

「いや、今日は1人だよ。寝てるところ出てきたから、帰ったら怒られるかも」


 言葉とは裏腹に楽しそうに笑う幸一は、そういう部分が柔らかくなったと言われる理由なのだと気づいてはいないのだろうか。

 ちょうどそのタイミングで食事が運ばれてきて、2人は一度口を閉じて店員が去ってからいただきます、という言葉の後に再び会話を始める。


「幸一くんはさ、優ちゃんのこと、どうしようと思ってるの?」


 優は幽霊である、らしい。信じがたいことだが、以前出会った時に愛衣もそれが事実だと思い知らされている。となると、詳しくはわからないがいつまでも一緒にいるというわけにもいかないのではないだろうか。

 そしてそれはやはり、幸一も同じことを考えているようだ。


「‥‥うん、正直俺もどうすればいいのかよくわからないんだ。前に香織さんにも同じこと聞かれて、俺の問題でもあるから俺がどうにかしたいとは言ったけど‥‥」


 幸一は唐揚げを食べながら少し暗い表情を浮かべる。愛衣も味噌汁をすすりながら言葉を返しかねていると、幸一はすぐに柔らかい笑みを浮かべた。


「でもまあ、どうすればいいかわからないし、俺も優と一緒にいたいって思ってるから、今はとりあえずこのままでいいかなって思ってるよ」


 幸一の言葉に、愛衣は少なからず驚きを覚えた。

「とりあえず」なんて、以前の幸一が積極的に避けてきていたはずの言葉だ。だからこそ、今日までまともな就活をしていないのだし。

 愛衣はサバの味噌煮の骨を取り除く手を止めて、しばらく幸一を見つめた。


「‥‥なんだか、幸一くん嬉しそうだね」

「え?」


 愛衣の言葉に、幸一は小さく首を傾げた。


「どうすればいいかわからなくて、嬉しそう‥‥って言うと、ちょっと違うかな」


 微妙なニュアンスの違いを感じ、もっとしっくりとくる言葉を探す。しかし言葉を探すより、愛衣は思ったことそのままを尋ねてみる。


「‥‥今、楽しい?」


 愛衣の質問に、幸一はしばらく考えるように黙ってから小さく笑みを浮かべた。


「もちろん。愛衣ちゃんと2人で話すの、久し振りだし」

「わっ、そう言ってもらえるのは光栄だけど、今のはそういうのじゃなくて‥‥っていうかわ

ざと言ってるでしょっ」


 頬を紅潮させて怒る愛衣に幸一は楽しそうに笑いをあげる。確かに楽しそうだけど、愛衣が言いたいのは当然そういう楽しいじゃない。

 幸一は笑いを納めると、少し真剣な笑顔を浮かべてもう一度答えた。


「楽しいよ。俺自身少し驚いてるけど、優といると毎日が楽しいんだ」

「‥‥‥‥そっか」


 そんな幸一を、愛衣は羨ましいと思った。楽しそうなことが、ではなく、そういう自分をきちんと把握できていることが、だ。

 悩んで悩んで、それでも先の見通しが利かず現状の自分すらもよくわからない愛衣に対して、幸一も悩んでいることに変わりはないが、今の自分の状態を素直にまっすぐ受け入れているようだった。なにより、悩むことに対しての真剣さがまるで違う。


 少し前までは幸一は自分が見えていないようだった。だけど今は違う。何も変わることのできていない愛衣に対し、幸一はどんどん前に進んで行ってしまっている。

 それはいつも抱いている劣等感であり、自分とは違う幸一に対する憧れだった。


 幸一と親しくなるまでは愛衣は悩むことすらもしていなかった。色々と考え始めて将来の見通しが悪くなってきたが、しかしそれは悩み始めたからではなく、今まで見通しの悪さから目を逸らしていたからだった。

 だから、たとえ答えを見つけていなくても最初からその見通しの悪さに目を向け続けている幸一はすごいと、それができるのが羨ましいと、愛衣はずっと思っていた。


「ところでさ、愛衣ちゃんはこの先どうしようとか、考えてる?」


 突然の質問に、愛衣はややきょとんとしながらもどうにか思考を巡らせる。


「え? うん、やっぱり企業より公務員に力入れることにしたよ。行きたい企業とか、やっぱり思いつかなかったし‥‥」

「その先は?」


 重ねて尋ねられ、愛衣は意図を汲みきれず首を傾げる。


「どこかに就職できたとして、その先だよ。やっぱりいつか、結婚して仕事辞めたいとか思ってる?」

「けっ‥‥!?」


 幸一の口から結婚などという言葉が出てきて、愛衣は思わずぷしゅうと顔を真っ赤にさせる。きっと幸一は何の意識もしていないのだろうけれど、突然そういうことを言うのはやめてほしい。

 愛衣は内心の動揺を悟られないよう(もう遅いかもしれないけど)しばらく俯いて顔を隠し、少し落ち着くと顔を上げて考えを巡らせた。


「‥‥その先のことは、正直全然考えてないかも。とりあえず就職はして、それからのことはその時考えようかな‥‥ってことすら言われるまで考えてなかったけど」


 大学4年生の当面の目標は大半が就職である。そしてその就活の忙しさにそれ以外のことなんて考える余裕はないというのが、それも大半なのではないだろうか。


「幸一くんはどうしようと思ってるの? ‥‥結婚願望が強い、とか?」


 無駄にサバの身をほぐしながら、愛衣はおずおずと尋ねる。それに対して幸一は何とも言えない表情で芋の煮物を食べていた。


「そういうわけじゃないけど。ただ、やりたいこと見つけてそういう職に就いたとして、その後どうなるのかなって、ちょっと考えたんだ」

「そっか‥‥そっか」


 もそもそとサバを口に運びつつ、愛衣は俯きがちに何度も頷いた。


「まあ、聞いた俺もよくわからないんだけど。とりあえず今は、目の前の問題から片付けなきゃいけないかなって思ってるし」


 また、とりあえずだ。

 愛衣は驚いて幸一を見つめるが、幸一は特に何を気にしている風でもなくもりもりとご飯を食べている。


 少し前まではずっと先のことばかりを考えていたせいで、今でもその時考えていたことは、もしかすると半ば惰性で、継続して悩み続けているのだろう。だけど先程の幸一の質問はその時考えていたよりもさらに先の話。そしてそれについて幸一は、考えることを保留している。


 少しずつ、幸一の目を向ける先が前ばかりではなくなってきている。

 その変化が良いことなのかどうかは、目下悩んでいる最中の愛衣にはどうとも答えることなどできそうになかった。だけど少なくとも、とりあえず、こうして何気ないことで幸一に誘ってもらえるようになったという変化は、とても嬉しいことだった。


「うん、そうだね」


 だから愛衣は、そんな幸一の思いを後押しするように笑顔を浮かべて同意するのだった。


「ま、俺たちの一番目の前の問題は卒論だろうけどね」

「‥‥うん、そうだね」


 うってかわって、愛衣は消沈の笑みを浮かべて同意するのだった。


「次のゼミ、経過発表するの愛衣ちゃんだったよね」

「‥‥‥‥うん、そうだよ」


 何の表情を浮かべることもできず、額を机にめり込ませて肯定するのだった。

 最近の幸一は、時々イジワルだ。

 それがいい変化なのかどうかは、愛衣にはやっぱりわからなかった。


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