7-3
――しかしそんな騒がしくも穏やかな日々は、ある日唐突に終わりを告げることとなる。
「お兄ちゃん!」
バイトが休みの日の夕方。いつものように元気よく出かけたと思った優は、しかしすぐにそんな必死の声をあげながら扉をすり抜け大慌てで部屋に飛び込んできた。
「うおっ、どうしたんだよ」
「来て! 早く!」
突然のことに思わずびくりとする幸一に何も答えず、優はぐいぐいとその腕を引っ張った。
わけも分からず無理やり連れてこられた先は人気の少ない、アパートから少し離れた場所にある寂れた小さな公園だった。幸一の言うとおり人目を気にしてこの場所をいつもの遊び場所に決めていたのだろうか。こんな場所で毎日遊べんるなんて、子供の素直で柔軟な感性があってこそだろうと感心してしまう。
そしてそこには赤い目をした英里と、もう1人見知らぬ女性が幸一を待っていたようにそこに立っていた。近くで見るとその女性は英里の顔立ちとどこか似ているものがある。おそらく英里の母親なのだろう。
優は幸一をその女性の前まで連れてくるや腕を離し、英里のもとへと駆け寄った。
「‥‥あの」
なにがどうなっているのか分からず幸一が困った声をあげると、女性は幸一にぺこりと頭を下げた。
「どうも、英里の母です。娘がご迷惑をおかけしているようで、申し訳ありません」
「あ、いえ‥‥」
どうにも状況がつかめない。それに対してどんな反応を示せばいいのかも分からず幸一は曖昧な言葉で返す。
「突然で申し訳ありませんが、1つお聞きしたいんです。最近英里が1人で遊ぶようになって、どうしてかと尋ねると、なんでもお化けの友達ができたそうなんです」
そう言って英里の母はひどく困ったような、乾いた笑い声をあげた。
「‥‥あはは、信じられませんよね。それでも毎日そう言うものですから詳しく問いただすと、そのお化けには仲の良いお兄さんがいるらしくて、じゃあ呼んでみてとお願いしたら、あなたが現れたというわけです」
「‥‥なるほど」
ようやく、幸一にも状況がつかめてきた。
人目につかない場所とはいっても完全にゼロではないだろうし、優も英里もまだまだ子供だ。周囲への警戒などすぐ散漫になって、遊んでいれば気づかず多くの人にも見られることになるだろう。そしてその中に英里のことを知る人物がいてもおかしくはない。まるでそこに誰かが存在しているかのように1人で遊ぶ光景を目撃され、どういう経緯でかそれが親にも伝わり、娘を案じた英里の母は何をしているのか詳しく尋ねたらこうなってしまった、ということか。
「お兄さん! お兄さんにも優ちゃんが見えますよね!」
「お兄ちゃん、この人にちゃんと伝えて! 私はここにいるよって!」
優と英里が必死に訴えかけてくるが、母親の目には娘が1人で騒いでいるようにしか映っていないのだろう。事実、先ほどから英里の母は一切優に注意を向けていない。
「‥‥‥‥」
2人の必死な声を聞きながら、幸一は必死に頭を働かせた。英里の母に、何と説明をすればいいか。
ちらりと、英里に目を向ける。きっと母親に否定されて強く反発してしまったのだろう。涙目になって怒りを露にしているものの、幸一が来たことで安心したような、どことなく勝ち誇ったような様子が見て取れる。
次に優に目を向ける。ぎゅっと唇を引き結んで、必死に初めてできた友達を失いたくないと訴えかけている。優の辛そうな顔を見ると、幸一まで胸を締め付けられる思いになる。
これ以上、優に悲しい思いをさせるわけにはいかない。ならば幸一にできることは、ひとつしかない。
しばらく悩んで顔をあげると小さく笑みを浮かべて、英里の頭にぽんと手を乗せる。
「英里ちゃんとは、以前みんなと公園で遊んでいるところを偶然通りかかって、一緒に遊ぶのに混ぜてもらったんです」
幸一が何を言い出したのか分からず、優と英里はぽかんとした顔で幸一を見上げる。
「その時に、僕が英里ちゃんにお話をしてあげたんです。可愛いお化けの話。そんな子がいたら楽しいねっていう、物語です。英里ちゃんはすごくその話を気に入ってくれました。だから、作りだしちゃったんでしょうね、そのお化けの、友達を」
子供が見えない〝お友達〟を作りだして遊ぶというのは稀に聞く話。だから幸一は暗に、英里の母にそう告げたのだ。
幸一は一度視線を落とし、しかし優とも英里とも視線を合わせることはなく、再び顔を上げた。
「すいません、僕にもその女の子は――見えないです」
英里は信じられないというように目を大きく見開いて幸一を見上げた。そして英里の母は不安そうに硬くしていた表情を、分かりやすく安堵を浮かべて緩めていた。
「英里ちゃん、俺の話を気に入ってくれたのは嬉しいけど、英里ちゃんにはいっぱい友達がいるんだから、ちゃんとその子たちとも遊んであげないと」
英里は見開いた眼から次第にぼろぼろと涙を流しはじめ、そして頭を撫でる幸一の手を、力いっぱいに振り払った。
「英里! なにしてるの!」
怒鳴る母親の声にも取り合わず、英里は俯いてわなわなと震えている。真っ赤に濡れた瞳でぱくぱくと口を開き、しかしその唇からは不安定に乱れた吐息しか漏れず、怒りが言葉にすらならないようだ。
「それじゃあ、すいません。僕はやることがあるので、失礼します」
「どうも、娘が大変失礼をいたしました。ほら、英里もちゃんと謝りなさい」
しかし英里は母親の言葉にも耳を貸さず、ギリと歯を食いしばって幸一を睨み上げた。幸一は目を逸らさず、その怒りに震える視線を受け止め言葉を待つ。
「‥‥さい、てい‥‥っ! お兄さんの、ウソつきーーっ!」
「こら、英里っ!」
英里はその叫びを皮切りに、大声をあげて泣き始めてしまった。
「‥‥‥‥ごめん」
幸一は最後に小さくそうとだけ呟くと、英里に背を向け公園を立ち去った。
その間ずっと立ち尽くしていた優はしばらくおろおろと英里と幸一を交互に見つめ、すぐに幸一を走って追いかけた。
「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」
その帰り道はお互い一切口を開かず、優は幸一の後ろを数mの間を空けてとぼとぼと歩いている。
アパートに着くと幸一は冷蔵庫からお茶を取り出して乱暴に一口あおり、ずるずると崩れるように座り込んだ。
優は何も言わず、幸一の目の前に座る。そっと幸一に触れようとした優を、幸一は何も言わずにぎゅっと抱き寄せた。拒絶されるかと思ったが、優はされるがまま幸一の腕の中で大人しくしていた。
「‥‥どうして、ウソついたりしたの?」
静かに響く優の声には、決して怒りの色は含まれていなかった。むしろ柔らかく、幸一をいたわるような声ですらあった。
「‥‥優、ごめん。‥‥ごめんな」
幸一は震える声を絞り出す。英里が、そして優も傷つくことは分かっていた。だけどあの場では、ああ言うしかなかった。言わなければならなかった。
優はやはり態度を荒げることなく、幸一の背を優しく撫でる。
優の優しさが痛い。優はちゃんと理解してくれている。幸一が何の意味もなく優の存在を否定したわけではないということを。
幸一がさらに力を込めて優を抱きしめると、幸一の頬に一筋の涙が伝った。
「‥‥英里ちゃんのお母さん、言ってただろ、最近英里ちゃん1人で遊んでるって。ここのところ、優としか遊んでなかったんだよ。だから多分、このままだったら英里ちゃん、学校で友達がいなくなっちゃうかもしれない。もしかしたらもう、何か変なこと言われ始めてるかもしれない。だからもう、優は英里ちゃんと遊ばない方がいい。遊ぶべきじゃない。あの子にはあの子の、友達がいる」
幸一はそこで一度言葉を切って、正面から優を見た。幸一は気を落ち着けようと唇を噛みしめる。そんな幸一を、優は沈んだ瞳で見つめ返していた。
自分は今から、優にひどく残酷なことを言わなければならない。こんなこと言いたくもないのに、今は言わないわけにはいかない。
幸一はそれ以上涙堪えることができなくなり、ぼろぼろと涙を流しながらまっすぐに優を見つめ、震える声で口を開いた。
「あのな、優。もう分かってると思うけど、優は普通の人間じゃない。それは優が思っている以上に、大変なことなんだ。だって優は普通の人には見えないんだ。だからな、優が見えない人にとっては、優と遊んだり話している人は、怖いんだよ。すげえ、気持ち悪いんだよ。だからみんなそういうことを嫌うし、目を背けようとするんだ。だから優、お前はもうこれ以上、誰かと積極的に関わろうとするのはやめろ。関わっちゃいけないんだ」
英里の母とて、何かおかしいことには気づいていたはずだ。英里は以前にも幽霊を見たことがあると言っていたが、その話だって聞かされたことがあるだろう。なにより幸一は事情も知らないまま、彼女の視点からすれば1人で、あの場所へとやってきたのだから。普通なら、本当になにもいないのなら、決してありえないことだ。
もちろん、英里の母に優の姿を見せることもできた。しかし見せたところで、優と遊ばないよう英里を説得することは難しい。始めに英里は言っていた、英里以外の子供たちには優の姿は見えていなかったと。だから一時的に姿を見せることができたとして、その子たちと一緒に遊ぶとなるとできることも制限されるし、そのせいで優が疎まれる可能性もある。
そうでなくとも、誰もが英里のように優を受け入れてくれるとは限らない。英里の母のように親は子供を心配するだろうし、子供たちの間でもどんな風に言われるか分かったものではない。
2人だけの秘密にしてと頼んだところで相手は子供。友達にだったら話してもいいと思ってしまうだろうし、その子がまた他の友達にバラしてしまうことも十分あり得る。
子供の世界は想像以上に残酷だ。子供というのは純粋で素直で短絡で軽薄で、それでいて容赦を知らない。幸一自身、被害者にも加害者にもなったことがあるから、よく知っている。だからもし、優が子供たちにイジメられるようなことになってしまった場合、〝普通の人間ではない〟優がどんな仕打ちを受けるかは、想像することもできないし考えたくもなかった。
英里はきっと優に取っていい友達だっただろう。彼女が悪い子だとは思ってはいない。しかし英里が優とそれ以外の友達全て、場合によっては学校生活というものを天秤にかけて、その全てを投げうってまで優に味方してくれる可能性は、非常に低い。
だから幸一はそれに優をそれに巻き込みたくなかった。そうなった時英里がどういう行動に出るかは分からない。遊べなくなることは免れないだろうし、最悪優に責任を押し付けるような発言をしてしまう可能性だってある。
そう考えると、幸一にはああ言う以外の方法が思いつかなかった。たとえ英里を突き放してでも、優が悲しむ可能性から救い出したかった。
それは偽善ですらない、きっとただのわがままだ。優がどう思っていたかも考えず、自分の価値観だけでこの結果を優に押しつけたのだから。
こうなってしまったのは幸一の責任だ。だから、幸一はこの苦しみも悲しみも全部背負わなければならない。英里に嫌われるのは、幸一でなくてはならない。優にこれ以上の苦しみを与えることは、絶対にしてはいけない。
優が普通の人間ではないのだと理解していなかったのは、むしろ幸一の方だった。ちゃんとそれを理解していたなら、最初から止めるべきだった。何も言わず、仲良くなる前に英里から遠ざけるべきだったのだ。
優は今にも泣き出しそうなくせに、やっぱりその瞳は涙とは無縁に乾いたままだった。
「英里ちゃんには友達がいるけど、私にはいないの?」
「いない」
幸一は即答した。そして間をおかず、さらに言葉を付け足した。
「でも、俺がいる」
他に答えなどあろうはずがないというほどはっきりとした口調で、断言する。自己満足と、わがままの意味も込めて。
「他に誰もいなくて、俺しかいないかもしれない。でも、ゼロじゃないんだ。少なくとも、俺はいる」
「でも、だって、そうしたら私、お兄ちゃんに迷惑かけるもん。今だって私のせいで、外行く時はいつも周りを気にしてる。お兄ちゃんだって、気持ち悪いって思われるかもしれないよ? そんなの‥‥ダメだよ」
「そうだな。優にはいつも、迷惑かけられてる」
あまりに率直な言葉に、優は悲しげに表情を歪ませた。だけどもちろん、幸一はそこで言葉を止めない。
「でも、そういうものだろ。誰だって誰かに迷惑かけるんだ。だから優は、俺に迷惑をかけろ。俺しかいないんだから、他の誰かにかけないように、俺に迷惑かければいい。俺はずっと、優のそばにいるから。だって俺は、優の‥‥兄貴なんだろ?」
そう言ってもう一度強く優を抱きしめると、優は肩に顔をうずめ、うん、と呟いた。
「お兄ちゃんは、私のこと好き?」
「当たり前だろ。俺は優が、大好きだ」
唐突なその質問に、しかし幸一は迷うことなく答えた。当然、それは恋愛感情なんかじゃない。それでも幸一は優のことが誰より大切で、大好きだった。
「うん。私もね、お兄ちゃんが大好き」
そして優はもぞもぞと一度体を離し、そしてもう一度、ゆっくりと幸一に近づいた。
唇に触れる、小さくて柔らかい感触。
顔を離すと、目を丸くする幸一に優はにこりと柔らかな笑みを向けた。
「いつか、誰かもね、泣いてる私にキスをしてくれたの。キスはコイビトがするものじゃないのって私が聞いたら、コイビトじゃなくても、大切で大好きな人にはキスをするんだよって、その人が教えてくれたの。私はお兄ちゃんが大好き。お兄ちゃんも、私が大好き。だから、ね」
優が語る、優のおぼろげな記憶。きっとその人は、優の大切な家族だったんだろう。そして幸一も、優の言葉に何か記憶を呼び起されるような感覚を抱いていた。上手く思い出せないけれど、恐らく幸一にも同じように愛情を注がれたことがあったのだろう。
そして今、優はその全てを失い、そこにいるのは幸一ただ1人。
その幸一を優は、大切だと、大好きだと言ってくれた。だから、
――ごめん
その言葉をすんでのところで飲み込んで、それよりももっと大切な言葉を口にした。
「――ありがとう、優」
幸一は涙を留めようとすることを諦めて、大切で、大好きな優を強く、強く抱きしめた。




