5-2
――香織が見ていた。切れ長の目で幸一と、そして優の姿をばっちりと捉えていた。
研究室に到着するとすでに来ていた香織が、入ってきた幸一を見るなり目を細めてじっと2人を見つめた。
香織の視線が数度幸一と優の間を行き来し、最後に幸一に睨むような視線を1つ寄こすと、何事もなかったように手元の資料に目を落とした。
‥‥マジで見えるのか。
冗談で言っていたつもりだったが、まさか本当だとは。ていうか、もしかして状況まで察してるんだろうか。
結輝は香織の様子には気づいていないらしく、早く入れよ、と入口に立ち尽くす幸一の背中をつっついている。
研究室といっても、特に設備が整っているというわけではない。というか、目立ったものは何もない。
一方の壁が全部本棚になっている手狭な部屋の真ん中に、部屋の3分の1ほどを占める机がどんと構えており、両側から3人ずつ座ってちょうどというサイズだ。本棚にはどの程度読まれているのか知らないが、ぎっしりと参考書が詰めこまれている。
そして教授用のデスクとパソコン(キーボードはなぜかどぎついピンク色で、それだけやたらと浮いている)とプリンタ。それがこの部屋にある全てだった。研究室というよりは、事務室というくらいのほうがよほどしっくりくるように思える簡素な部屋である。
研究室内には幸一たちが到着したことでゼミ生6人中5人がそろっていた。その中には前回のゼミ後に一緒に帰った野上愛衣の姿もあり、緩くウェーブのかかったショートボブを揺らしながらぽけっとした様子でどこかを見つめている。その視界にも入っているはずの優の存在には気が付いていないようだった。
そしてぽつぽつと会話が交わされながら待つことしばらく、開始時刻ちょうどくらいに最後の1人、佐藤千尋が「遅くなったけど遅刻ではないですヨっ!」などと言いながらセミショートの茶髪を乱して駆けこんできた。いつも通りの風景である。
ちなみに優は椅子に座る幸一に後ろからさばりついて手元の資料を覗きこんでいる。結輝と香織には見えていると思うとこの状態は少し、いやかなり落ち着かないが、人目があって話しかけられないので仕方なく放っておいた。
全員揃ったところで、上座に座ったゼミの教授が卒論について資料を見ながら説明をし始めた。その説明が始まってすぐ、机の上に置いていた幸一のスマホがぱっとディスプレイを明るくした。
画面を確認すると、メールの着信。差出人は対面に座る香織だった。香織はきれいな姿勢で資料を見ているようで、手だけは机の下に落ちている。
早川香織は女性にしては高い身長に、艶やかな腰まで届く黒髪と怜悧な瞳。寒色系でまとめた垢抜けないタイトな服装で涼やかな佇まいと、見た目だけでは非常に優秀で真面目そうで落ち着いた、大人の女性然とした雰囲気をまとっている。しかしその実、様々な面において非常にくだけた人物だった。
今のゼミ中のメールにしてもそうだが、ひどく自然な態度で適度にいい加減をする。冷静に、場を見極めて、やらないことはやらない。
講義もよくサボっているし、成績も優秀とは程遠く、単位取得ギリギリのラインを攻めている。にも関わらず、いまだ一度も単位を落としてはいないという、見事なまでの最小限の努力だった。
ただ1つ、性格がクールなのはあながち間違いではなく、基本的には物静かで落ち着いた女性である。しかし本人は単に思っていることが表情に出づらいだけ、と一見無感情に話していたが、口ぶりから察するにそれに関しては少なからず気にしているようだ。
だが実際話してみるとその所作や表情に似合わず話し口は軽快だ。初見では幸一も堅苦しい人だと思っていたが、数回話しただけですぐ打ち解けてしまったのは驚きだった。
とにかくそんな香織から、メールが届けられていた。
特に携帯の持ち込みは規制されていないが、ゼミ中であれば当然その使用は注意される。さりげなく画面を撫でてメールを開くと、そこには簡潔に『話がしたいからこのあとご飯でも食べに行きましょう。2人で』と書かれていた。簡潔すぎてちょっと怖い。
幸一も机の下に手を差し入れ、返信。宛先にはそのまま香織と、そして結輝を追加した。
香織の文面もそのまま残し、『3人で。言いたいことは分かってるから』と返すと、手元からわずかに視線を下げた香織の眉がぴくりと跳ねた。幸一を見て、次に結輝に視線を向ける。しかしそれだけで再び元の落ち着いた姿勢に戻ってしまった。
結輝もメールに気がつき、分かりやすく驚いた様子で携帯画面を食い入るように見つめ、ちらちらと何度も視線を幸一と香織の間で往復させた。そう、それが普通の反応だ。結輝を見ていると安心する。
後ろからのぞきこんでいた優に香織のメールを見せると、優は小さく首を傾げる。仕方なく『優のこと』と素早く打って見せると、一度結輝を見てからこくりと頷いた。先程の香織の所作には気づいていなかったようだ。
とりあえず、3人のアイコンタクトは完了した。それ以降はメールのやり取りもないまま、淡々と教授の説明が終了する。
「まあできれば卒論には早めに取り掛かってほしいし、どういう内容で取り組みたいかだけでも、休み明け最初に何人か発表してもらえるといいんだけど」
「あたしにはできません!」
説明を締めてこちらを向いた教授に、即行で手をあげたのは千尋。さきほどまで垂らしていた髪は、今はいつもの短いポニーテールに結ばれている。大きい目を輝かせながら、なぜかやたらと自慢げだ。
他のメンバーと比べ頭1つから2つ分も小さい千尋だが、大学受験の際一浪したらしく実は1つ年上だったりする。しかし年長者としての威厳のようなものは一切感じられない。
「安心しろ、ちー様。そりゃあ暗黙の了解だよ」
即座に結輝に突っ込まれ、千尋はそっかー、となぜか笑顔だった。結輝の言葉だからとかいうわけではなく、単に千尋の頭の中がお花畑なだけである。
「私もできそうにないです」
そしてさらりと千尋に乗っかり、香織も素早く逃げていた。その雰囲気からは何か予定があるから、と暗に語っているようで、実際は面倒なだけだろう。
――そして研究室は静寂に包まれた。
誰もが教授と目を合わせないように俯き、無駄に深刻そうな顔で自分に面倒が降りかからないことを祈っていた。
見事なまでのゼミ生の意欲の無さに教授はうーん、と苦く唸って、「誰かやってくれないかなあ」とゼミ生を見渡す。
いつもならとりあえず真面目そうな香織に声をかける教授だが(大抵はそれらしい理由で断られる)、香織はそれを見越したからこそ早々に手を打ったのだ。さすがというべきか。
「‥‥あ、じゃあ、僕やります」
そんな中、若干おずおずとした挙動で、なぜか半笑いを浮かべて挙手をしたのは木口裕也だった。ゼミのメンバーでは抜けて真面目な性格、といえば聞こえはいいが、実際のところは単に融通がきかないと言ったほうがよほどしっくりとくる。
他のメンバーのバカなノリにもノってくることが極端に少なく(というよりは不意なノリに応えられない)、自然とイジられ役になるというなんとも残念な男である。
とはいえどうにかノリについてこようとしているようにも見えず、かといって積極的に孤立するわけでもなく、飲み会などには参加するためイジられる機会を自ら増やしているという謎のスタンス。
今回に挙手に関しても、どうせそうなるだろうとは誰もが思っていたので特に反応はない。
「もう1人くらい‥‥野上さんとか、どう?」
身を小さくして俯いていた愛衣が、ぴょこっと困ったように顔をあげた。大人しく真面目な子だが、あまり精力的ではないのは他のメンバーと同じだ。
「えっと、はい、じゃあ‥‥やってみます」
どう見ても乗り気ではないが、断ることもできず愛衣は苦笑いでそれを引き受けた。千尋のような能天気さも香織のような強かさも持ち合わせていない愛衣は、堂々と断ることが苦手なタイプだ。
ごめんな、愛衣ちゃん。誰かが犠牲にならなくちゃいけなかったんだ。などと幸一は胸中で他人事な安堵全開。
以上でその日のゼミは終了。ゼミ生は研究室を後にし、研究室の前の廊下で輪を作るように集まった。毎回恒例の、ゼミ後のちょっとした雑談タイムである。
「あー‥‥わたし公務員講座もあるんだけどなー‥‥。そりゃあ、いつかはしなくちゃいけないんだろうけど‥‥」
早速しょぼん、と音を発しそうな勢いで愛衣がうなだれている。千尋の次に背の低い愛衣だが、いつも以上に小さく見える。
「すまんな、アイちゃん。誰かが犠牲にならなくちゃいけなかったんだ」
「もう、結輝くんひどい!」
ぽん、と愛衣の肩に手を置いて幸一の考えと同じようなことを言う結輝に、愛衣がプンスコと音を立ててむくれていた。
「あはぁ‥‥あいにゃんは可愛いなあ。生きていくのに必須なあたしの主成分だよー」
「気が合うわね千尋。私も同じことを考えていたわ」
千尋が恍惚とした表情でがばりと愛衣に抱きつき、なぜか香織も便乗して愛衣を反対側から抱きしめていた。2人に挟まれた愛衣はあわあわと慌てている。いつもの光景だ。
「あのさ、僕も公務員講座あるんだけど」
「え?」「え?」「え?」「‥‥えっ」
裕也の呟きに結輝が最も早く、それに続いて幸一と千尋がわざとらしく聞こえなかった振りをする。
半歩遅れて愛衣も声をあげたのは、そういえばそうだったね、といった感じの純粋な言葉だったが、今のタイミングでは完全に前3人に乗っかって裕也をイジっただけにしか聞こえない。
もはや訓練されたレベルの連携攻撃を受け、裕也は半笑いのまま拗ねて沈黙した。しかしこれもいつもの光景だ。諦めろ裕也。
「よーし、あいにゃん分を補給したら、あたしはこれからお仕事です。いっぱい溜めとかないとね」
「私はバイトではないけれど、溜めておくわ。ついでに千尋分も溜めていいかしら」
「どーぞどーぞ。しかしその代わり、あたしにはかおちゃんの身長をください」
「ダメよ。千尋は小さいから可愛いの。自分から長所を捨てるなんてありえないわ」
「あー、そっかー。それじゃあ仕方ないね!」
「どーでもいい話の時だけは、香織サンが一番アホだよなー」
しかも千尋のようにふやけた顔をしているわけでもなく、いたっていつも通りの凛とした表情で抱きついたりしているものだから、どこまでが冗談なのかもよく分からない。そして真ん中の愛衣はやはりあたふたしている。
1歩離れた位置で手持無沙汰に立ち尽している優に視線を送っていると、ふと幸一の手に生温かくて気色悪いものが触れた。
「コーイチ、結輝分、いるか?」
「いらねえよふざけんな」
なんか急に結輝が寄り添ってきやがった。腰にまわしてきた手を振り払い鬼の形相で威嚇する。
「よぅし、それじゃああたしはへいらっしゃいしてくるよ! あ、ゆーき! お前飲み会の幹事な! 今日中に飲み会のメール回せ! ではまた!」
「おいおい、すげえ一方的に押し付けられたんだけど。まあ、いいけどさ」
去り際にそう言い残し、千尋は階段を下りて早くも姿を消してしまった。結輝は呆れながらも特に嫌そうな顔はしていない。
そういえば、飲み会をやろうと言ったきり詳細を決めることなくそのままになっていたのだった。
誰かやってね、ではなかなか話は進まないし、個人を指定するのなら結輝は確かに適任だ。しかし自分ではやらないというあたりが非常に千尋らしい。予定をまとめたりとか、苦手そうだし。
「じゃ、オレらも退散しますか。コーイチは、今日はバイトだよな?」
「え? ‥‥ああ、うん、バイト」
突然結輝が意味深な笑みを浮かべて尋ねてきたので、一瞬戸惑ったがすぐに意図を察して嘘を答えた。
「てことで、コーイチがいないならアイちゃんも帰るだろ? じゃあ今日は解散で」
「へぇ? あ、うん。‥‥うん!?」
何をくみ取ったのか、ぽけっとした顔から一転顔を赤らめ、ニヤニヤ笑う結輝をじっとりと睨む愛衣。そして裕也には何も聞かれないのはやはりいつも通りである。さすがに時々不憫になる。
ぞろぞろと騒がしく外へ向かっていると、マナーモードを解除していた携帯が簡素な音を奏でた。確認すると、結輝から『すぐそこのファミレスに現地集合なー』と幸一と香織宛のメールが届けられていた。




