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第8章 姉

 文化祭が終わった翌週、私は約束どおり高寺先輩と出かけた。

 行き先は駅前だった。

 ずいぶん普通だと思った。

 もっと特別な場所を選ぶのかと思っていたけれど、本人に聞いたら、

「遠出するほどでもないでしょう」

 と言われた。

 たしかにその通りだった。

 でも私は少し残念だった。

 別に遠くへ行きたかったわけじゃない。

 ただ、二人で出かけるという響きに、勝手に期待していたのだと思う。

「真夏ちゃん」

「はい」

「さっきから何見てるの?」

「別に」

「今日それ多くない?」

「気のせいです」

「最近その返し好きだね」

 先輩が笑う。

 休日に制服ではない高寺先輩を見るのは、なんとなく不思議だった。

 薄い色のブラウスに、紺のスカート。

 派手ではないけれど、よく似合っている。

 私は朝から何を着るか迷った自分が少し馬鹿らしくなった。

「まずどこ行きます?」

「真夏ちゃんが決めたんじゃないの?」

「今日は先輩が行きたいところを決める約束ですよ」

「じゃあ真夏ちゃんについていく」

「それじゃ意味ない」

「難しいなあ」

「だから、先輩が気になったところ行けばいいんです」

「気になったところ」

「はい」

 先輩は駅前を見回した。

 店が並んでいる。

 雑貨屋。

 本屋。

 カフェ。

 洋菓子店。

 少し考えてから、先輩は小さな文房具店を指さした。

「あそこ」

「文房具?」

「嫌?」

「全然」

 二人で入る。

 店の中には、学校で使うような普通のノートやペンだけでなく、少し変わった便箋や小物も並んでいた。

 先輩はゆっくり棚を見ていく。

 私は少し後ろをついていった。

「先輩、文房具好きなんですか」

「好きなのかな」

「またそれ」

「見るのは好き」

「じゃあ好きでいいじゃないですか」

「そんな簡単?」

「簡単ですよ」

 私は棚から青い付箋を取る。

「これとか」

「それ、いつも使ってる色」

「知ってます」

「真夏ちゃん、ほんとよく見てるね」

「今さら?」

 先輩の口元が緩んだ。

 そのあとも何軒か回った。

 本屋では先輩が小説の棚で足を止めた。

 雑貨屋では、小さなガラス細工を見ていた。

 カフェでは、メニューを長いこと眺めた末に苺のパフェを選んだ。

「やっぱり苺好きじゃないですか」

「これは真夏ちゃんが勧めたから」

「またそれ」

「本当だよ」

「じゃあ一口ください」

「自分で頼めばよかったでしょう」

「味見」

「しょうがないなあ」

 スプーンを渡される。

 私は一口だけもらった。

「おいしい」

「でしょう」

「なんで先輩が得意そうなんですか」

「私が選んだから」

「私が勧めたんですけど」

「じゃあ共同作業」

「大げさ」

 笑った。

 楽しかった。

 何でもない休日だった。

 でも、私には十分特別だった。

 先輩がどこを見るのか。

 何に足を止めるのか。

 何を食べるのか。

 そういうことを一つずつ知るたび、嬉しくなる。

 ただ。

 ふとした瞬間に、私は春美さんのことを思い出した。

 高寺先輩が文房具を見る姿。

 苺を食べる姿。

 笑う顔。

 こういうものを、春美さんも好きだったのだろうか。

 それとも全然違ったのだろうか。

 聞きたい。

 でも聞けない。

 結局、その日は春美さんの名前を一度も出せないまま終わった。


 翌週、文化祭の反省資料をまとめる日々に戻った。

 春美さんのことは気になったままだった。

 特に、卒業アルバムに名前がなかったことが。

 二年生の終わり近くまで確かに在籍していたのに、三年生の記録がない。

 転校なら、それで説明はつく。

 でも高寺先輩の「いた」という言い方を思い出すたび、もっと別の答えがあるような気がした。

 それ以上調べるのはやめた。

 知りたい気持ちと、知ってはいけない気持ちが、ずっと同じくらいあった。


 数日後。


 放課後、私は職員室へ書類を届けに行った。

「失礼します」

 指定された先生の机まで行く。

「これ、生徒会からです」

「ああ、ありがとう」

 先生が受け取る。

 そこで終わるはずだった。

「君、生徒会の一年生だよね」

「はい」

「名前は?」

「真夏です」

「ああ、真夏さん」

 先生が少し考えるように私の顔を見た。

「どこかで見たことあると思った」

「え?」

「いや、ごめん。変な意味じゃなくて」

 先生は年配の女性だった。

 私が入学するずっと前からこの学校にいるらしい。

「高寺さんとよく一緒にいるでしょう」

「高寺先輩ですか?」

「そうそう」

「生徒会なので」

「仲いいよね」

「まあ……」

 少し恥ずかしくなった。

 先生は笑う。

「高寺さんも、あなたといると楽しそう」

「そうですか」

「うん」

 嬉しかった。

 それだけで帰ればよかった。

 でも先生は続けた。

「それにしても」

 私の顔をもう一度見る。

「笑うと、ちょっと似てるね」

「……誰にですか」

「春美さん」

 心臓が一度、大きく鳴った。

「高寺春美さん?」

「あれ、知ってるの」

「名前だけ」

「そう」

 先生は懐かしそうに笑った。

「高寺さんのお姉さん。私、春美さんが在学してたころもいたから」

「……やっぱり、お姉さんなんですね」

「そうよ」

 これで確定した。

 分かってはいた。

 でも、誰かの口から聞くと違った。

「似てるって、私がですか」

「そっくりってほどじゃないよ」

「はい」

「顔立ちはそんなに似てないし」

 先生は少し首を傾げた。

「でも、笑ったときかな」

「笑ったとき」

「雰囲気がね。春美さんも、よくああいうふうに笑ってた」

 背中が少し冷えた。

 あの違和感。

 写真を見たときに感じたもの。

 ようやく分かった。

 見たことがあったんじゃない。

 自分だった。

「春美さんって、どんな人だったんですか」

 気づけば聞いていた。

「しっかりした子だったよ。生徒会長で、先生からも生徒からも頼られてた」

 先生は少し懐かしそうに目を細めた。

「でもね、何より人が好きな子だった。困ってる子を見ると放っておけなくて、自分の仕事まで増やしちゃうような」

 高寺先輩と重なる。

「姉妹仲もよかったんですか」

「よかったよ。春美さん、妹の話をよくしてたから」

「高寺先輩の?」

「そう。可愛くて仕方ないって感じだった」

 胸の奥で、何かが引っかかった。

 先輩の口からは、姉のことをほとんど聞いたことがない。

 迷った末に、私はもう一つ聞いた。

「先生」

「なに?」

「春美さんって、この学校を卒業してないんですか」

 先生の顔から、笑みが消えた。

 一瞬だった。

 でも、それまでとは明らかに違った。

「どうしてそう思ったの?」

「卒業アルバムに名前がなかったから」

「……見たんだ」

「はい」

 先生はすぐには答えなかった。

「二年生の写真にはいるのに、三年生にはいなくて」

「うん」

「転校したんですか」

 先生は私を見た。

 困っているというより、言葉を選んでいる顔だった。

「それは」

 少し間があった。

「高寺さんから聞いたほうがいいと思う」

 答えにはなっていなかった。

 でも、それで十分だった。

 ただの転校ではない。

 少なくとも、先生が簡単に説明していい話ではない。

「……分かりました」

「ごめんね」

「いえ」

 それ以上は聞かなかった。

 聞けなかった。

 春美さんが卒業していない理由。

 その答えは、まだ私の知らない場所にあった。

「ありがとうございました」

「ううん」

 私は頭を下げて職員室を出た。

 廊下を歩く。

 頭の中にいろんなものが浮かんだ。

 高寺春美。

 先輩が、その人の歩いた道をなぞるように同じ学校で生徒会長になっていること。

 二年生の終わり近くで途切れた記録。

 卒業アルバムから消えた名前。

 そして、その理由を言わなかった先生。

 姉は人から好かれる人だった。

 誰かに頼られると仕事を抱え込む。

 それも、同じ。

 それから。

 私。

 笑った顔が、春美さんに似ている。

 足が止まった。

 急に嫌な考えが浮かんだ。

 最初の日。

 グラウンドの近くで一人で座っていた私に、高寺先輩が声をかけた。

 どうして。

 あのときの私は、先輩と話したこともなかった。

 全国大会に出ていたことを知っていた。

 怪我をしたことも知っていた。

 だから、落ち込んでいる後輩を放っておけなかった。

 私はそう思っていた。

 でも。

 先輩は最初から私の名前を知っていた。

 そして、私が笑ったとき。

 先輩は何度か、変な顔をした。

 体育祭の日。

 泣いたあとに私が笑ったとき。

 懐かしそうな顔。

「……いや」

 小さく声が出た。

 違う。

 考えすぎだ。

 似ていると言っても、笑ったときだけ。

 先生だって、そっくりではないと言った。

 それに、仮に先輩が私を見て春美さんを思い出したとしても、それが何だというのか。

 姉に似た人を見れば、気になることくらいある。

 それだけだ。

「真夏ちゃん」

 顔を上げる。

 廊下の向こうから高寺先輩が歩いてきた。

「どこ行ってたの?」

「職員室」

「資料届けてくれた?」

「はい」

「ありがとう」

 先輩がいつものように笑う。

 その顔を見る。

 今までは、ただ嬉しかった。

 今日は少し違った。

「……先輩」

「なに?」

「春美さんって」

 言ってしまった。

 高寺先輩の表情が止まった。

 はっきり分かった。

 笑顔が消えた。

「……どこで、その名前を」

 声が低かった。

「生徒会の昔のアルバムで見て」

「そう」

「それから、歴代会長のプレートの裏にも名前があって」

「……そっか」

「卒業アルバムも見ました」

 先輩の目が、わずかに揺れた。

「春美さんの名前、なかった」

 沈黙。

「お姉さんなんですよね」

 先輩は少し黙った。

「うん」

 静かに答えた。

「私の姉」

 胸が苦しくなった。

「どうして今まで言わなかったんですか」

 責めるつもりはなかった。

 でも、少し強い言い方になった。

「聞かれなかったから」

「この前、兄弟いるか聞きました」

「だから、お姉ちゃんがいたって言ったでしょう」

「名前は言わなかった」

「……そうだね」

「生徒会長だったことも」

「それも」

 先輩は笑わなかった。

 こんなに長く、会長の顔をしていない先輩を見るのは初めてかもしれない。

「話したくなかったですか」

「分からない」

「分からない?」

「話す必要がないと思ってた」

 先輩は少し俯いた。

「昔のことだから」

 昔のこと。

 それだけで片づけられるような声ではなかった。

「春美さん、どんな人だったんですか」

 先輩の指先がわずかに動いた。

「どうして知りたいの?」

 初めて聞き返された。

 私は答えに詰まった。

「……先輩のお姉さんだから」

「それだけ?」

 心臓が鳴った。

 今日、先生に言われたこと。

 私が春美さんに似ていること。

 それを言うべきか迷った。

「今日、先生から聞きました」

「何を?」

「春美さんのこと知ってる先生がいて」

 先輩の顔が少し硬くなる。

「それで」

 言う。

「私、春美さんに似てるって」

 沈黙。

 たった数秒だったと思う。

 でも長く感じた。

「……そう」

 先輩はそれしか言わなかった。

「知ってたんですか」

 今度は、さらに長い沈黙だった。

「先輩?」

「……うん」

 胸が冷えた。

「知ってた?」

「最初に会ったときから」

 頭の中で何かがつながった。

 グラウンド。

 隣に座った先輩。

 名前を知っていたこと。

 私が笑ったときの、あの表情。

「どこが」

 自分でも、何を聞いているのか分からなかった。

「どこが似てるんですか」

「雰囲気」

「それだけ?」

「……笑った顔」

 やっぱり。

 先生と同じことを言った。

 私は自分の口元に触れた。

「そっか」

「真夏ちゃん」

「はい」

 先輩が何か言いかける。

 でも、続かなかった。

 私は怖くなった。

 聞きたいことがあった。

 でも、まだ聞きたくなかった。

 あの日。

 どうして私に声をかけたのか。

 その答えに春美さんがいるのか。

 知りたくない。

「先輩」

「うん」

「今日はもう戻りましょう」

「……そうだね」

 二人で生徒会室へ戻った。

 並んで歩いているのに、いつもより距離がある気がした。

 先輩は何も話さない。

 私も話せなかった。

 生徒会室の扉を開ける。

「遅かったね」

 紗季先輩が言う。

「先生につかまった?」

「ちょっと」

 私は答えた。

 高寺先輩はいつもの席へ戻る。

 そして。

「ごめん、待たせたね」

 笑った。

 いつもの会長の顔だった。

 さっきまで廊下で春美さんの話をしていたことなんて、何もなかったみたいに。

 私はそれを見ていた。

 以前なら、すごいと思ったはずだ。

 切り替えが早い。

 何があっても仕事をする。

 完璧な人。

 でも今は。

 その笑顔が、少し怖かった。

 私は初めて考えた。

 この人はどうして、こんなふうに笑うんだろう。

 誰に教わったみたいに。

 同じ形で。

 いつも。

 そして、もう一つ。

 どうして高寺先輩は、姉が歩いた道をここまで同じようになぞっているのだろう。

 偶然。

 憧れ。

 それだけなら、何もおかしくない。

 でも。

 好きなものを聞かれて答えられない先輩。

 やりたいことが分からないと言った先輩。

 誰かに必要とされることばかりを選ぶ先輩。

 その全部が、今までとは違って見え始めていた。

 高寺春美という名前を知ったことで。

 先輩の中にあった小さな違和感が、少しずつ一つの形になろうとしていた。

 私はその形を見るのが、少し怖かった。

 それでも。

 目を逸らすことは、もうできなかった。


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