第7章 先輩の好きなもの
夏休みが終わっても、私は春美さんのことを聞けずにいた。
二年生の終わりまでは写真がある。
生徒会長だった記録もある。
でも卒業アルバムには名前がない。
そして高寺先輩は「姉がいた」と過去形で言った。
気にならないわけがなかった。
それでも、本人が話さないことを勝手に追いかけるのは違う気がした。私は卒業アルバムを見たことを、先輩には言えずにいた。
代わりに、日常の中で高寺先輩自身のことを少しずつ知った。苺。薄い青。苦いものは苦手。甘いものは好きなのに認めたがらない。
本人が自分のことを語らないからこそ、見つけるたびに嬉しかった。
二学期が始まると、文化祭準備が本格化した。
企画変更、体育館の時間割、来賓受付、放送委員からの質問。高寺先輩の周りには朝から放課後まで人が途切れなかった。
ある日、放課後になっても昼食を取っていないことに気づき、私がパンを押しつけると、紗季先輩に「もう高寺のお母さんじゃん」とからかわれた。
「じゃあ奥さん」
そう続けられて、思った以上に動揺した自分にも腹が立った。
文化祭まで二週間を切るころには、先輩の忙しさはさらにひどくなった。
もともと何でも引き受ける人だった。
それが今は、学校中から仕事を集めているように見える。
手伝おうとしても、先輩は「大丈夫」「もう少しだから」と断った。実行委員の印刷ミスまで自分で抱え込んでいるのを見つけた日、私は半分を奪うように持った。
「最初から頼ってください」
「ごめん」
謝らせたいわけじゃない。ただ、一人きりの生徒会室で見た、何もない顔を知ってしまった今、先輩の「大丈夫」を以前のようには信じられなかった。
「高寺」
千景先輩が生徒会室へ入ってきた。
「これ、なんで自分で持ってるの」
「差し替えです」
「それは分かる。実行委員に返した?」
「忙しそうだったので」
「だからって自分で抱えない」
「でも、もう終わりますから」
千景先輩がため息をついた。
「前から思ってたけどさ」
「はい」
「人に任せるのも会長の仕事だよ」
「分かってます」
「分かってない顔してる」
「そんな顔してます?」
「してる」
高寺先輩は笑った。
千景先輩もそれ以上強くは言わなかった。
たぶん、これまでも何度も似たやり取りをしてきたんだろう。
そして結局、高寺先輩は全部終わらせてしまう。
だから周囲も最後には納得してしまう。
この人ならできる。
高寺会長なら大丈夫。
私だって、少し前まではそう思っていた。
文化祭まで一週間。
放課後七時近くになっても、生徒会室の明かりはついていた。
遅くまで残る許可は取ってある。
紗季先輩と凛は先に帰った。
千景先輩は先生との確認に行っている。
私は掲示物の確認をしていた。
高寺先輩は、ずっと机に向かっている。
「先輩」
「なに?」
「これ終わりました」
「ありがとう。じゃあ今日は帰っていいよ」
「先輩は?」
「もう少し」
また。
「何やってるんですか」
「当日の役割表」
「明日じゃ駄目?」
「明日先生に見てもらいたいから」
「朝やれば」
「朝は実行委員との打ち合わせ」
「昼」
「昼は放送委員」
「じゃあ明日の放課後」
「そこから直すところが出たら間に合わないから」
私は黙った。
何を言っても、仕事が出てくる。
「手伝います」
「大丈夫」
「何やればいいですか」
「これは私がまとめたほうが早いから」
「じゃあ他は?」
「ないよ」
「本当に?」
「うん」
「先輩」
「なに?」
「今日、ご飯食べた?」
「食べたよ」
「何」
先輩が黙る。
腹が立った。
「なんで嘘つくんですか」
「嘘ってほどじゃ」
「食べてないんでしょ」
「あとで食べるよ」
「いつ?」
「帰ったら」
「昼も食べてないですよね」
「……少し食べた」
「何を」
「真夏ちゃん」
先輩が困ったように笑った。
その笑顔を見た瞬間。
何かが切れた。
「笑わないでください」
自分でも驚くほど低い声が出た。
先輩の笑顔が止まる。
「え?」
「そうやって笑えば、全部終わると思ってるんですか」
「真夏ちゃん?」
「疲れても笑って、大丈夫って言って。お腹空いてても大丈夫。仕事多くても大丈夫。頼まれたら何でもやる。誰に何言われても笑う」
「ちょっと待って」
「何が大丈夫なんですか」
先輩が黙った。
私は止まれなかった。
「大丈夫じゃない人が、大丈夫って言うの、嫌いです」
言ってから、しまったと思った。
生徒会室が静かになった。
廊下からも音がしない。
高寺先輩は私を見ていた。
いつもの笑顔はなかった。
「……ごめん」
先輩が言った。
違う。
「謝ってほしいんじゃないです」
「うん」
「私、別に怒りたいわけじゃ」
「うん」
「ただ」
うまく言葉が出てこない。
怒っている。
確かに怒っている。
でも、その奥にあるのは別のものだった。
怖い。
先輩がどこかへ行ってしまいそうで。
理由も分からないまま、笑ったまま消えてしまいそうで。
「……心配なんです」
やっと出た。
「先輩のこと」
高寺先輩の目が少し大きくなった。
「私?」
「先輩以外誰がいるんですか」
「でも」
「でもじゃない」
「真夏ちゃんが心配することじゃないよ」
その一言で、今度は胸が痛くなった。
「……そうですか」
「あ」
先輩の顔が変わる。
「違うの。そういう意味じゃ」
「じゃあどういう意味ですか」
「私は、本当に大丈夫だから」
「またそれ」
「ちゃんとできるから」
「できるかどうかなんて聞いてない」
私は机の端を握った。
「先輩は何でもできますよ。知ってます。仕事だって終わらせるし、成績もいいし、みんなに頼られてるし」
「真夏ちゃん」
「でも、できるから何なんですか」
声が震えた。
「疲れてるのにやる必要あるんですか。嫌なのに引き受けなきゃいけないんですか。先輩がやりたいことって、どこにあるんですか」
言った瞬間。
高寺先輩の表情から、何かが消えた。
あの日と同じだった。
一人で生徒会室にいたときの顔。
何もない。
先輩はしばらく黙っていた。
「……分からない」
小さな声だった。
「え?」
「私がやりたいこと」
聞き間違いかと思った。
「分からない」
もう一度、先輩が言う。
私は何も言えなくなった。
「誰かに頼まれたら、やることがあるでしょう」
先輩は机の上へ視線を落とした。
「何をすればいいか分かる。どうすれば喜んでもらえるかも分かる」
「……はい」
「ちゃんとできれば、必要としてもらえる」
その声は、私が知っている高寺先輩の声より弱かった。
「それでいいと思ってる」
「本当に?」
先輩は答えなかった。
私はその沈黙を見ていた。
「先輩」
「うん」
「今日は帰りましょう」
「でも」
「役割表なら明日、私も手伝います」
「真夏ちゃんには」
「できます」
「でも」
「できる範囲なら頼まれたことやるんでしょう?」
先輩が顔を上げる。
「さっき先輩が言ってました」
「……そうだったね」
「じゃあ私に頼んでください」
長い沈黙のあと。
「手伝って」
先輩が言った。
たった四文字だった。
でも、それを聞いた瞬間、胸が熱くなった。
「はい」
私は答えた。
「喜んで」
先輩の口元が緩んだ。
今度の笑顔は、いつものものとは違った。
疲れていて。
少し困っていて。
でも、ちゃんと先輩の顔だった。
私たちは残っていた書類をまとめて、生徒会室を出た。
外はもう暗かった。
校門を出て駅へ向かう途中、先輩はいつもよりゆっくり歩いた。
私も歩幅を合わせる。
「真夏ちゃん」
「はい」
「さっきはごめんね」
「また謝る」
「でも」
「じゃあ一個だけ約束してください」
「何?」
「大丈夫じゃないとき、大丈夫って言わない」
「難しいな」
「なんで」
「癖だから」
「じゃあ直してください」
「厳しい」
「私、厳しいですよ」
「知ってる」
先輩が少し笑う。
「じゃあ、真夏ちゃんも」
「私?」
「大丈夫じゃないとき、大丈夫って言わない」
今度は私が黙った。
体育祭の前。
怪我をしたあと。
私は何度「大丈夫」と言っただろう。
「……それは」
「人には言うのに?」
「ずるい」
「お互いさま」
先輩は少し得意そうだった。
「分かりました」
「約束ね」
「はい」
駅の手前で、私は少し迷ってから言った。
「文化祭終わったら、どっか行きません?」
「どこか?」
「先輩が行きたいところ」
「私が?」
「はい。いつも人に合わせるから、今度は先輩が決めてください」
「難しいなあ」
「じゃあ、それまでに考えといて」
先輩が笑った。
「ちゃんと考えとく」
「お願いします」
「真夏ちゃんも付き合うの?」
「私が行きたいから誘ってるんです」
少し恥ずかしくなって、付け足す。
「……先輩と」
高寺先輩は立ち止まった。
駅前の街灯の下だった。
私を見る。
その顔に、またあの妙なものが浮かんだ。
懐かしさ。
寂しさ。
それから、少し苦しそうな色。
「真夏ちゃんは」
先輩が何かを言いかける。
「はい?」
「……ううん」
「またそれ」
「ごめん」
「最近多いですよ、それ」
「そうかも」
先輩は笑った。
今度は追及しなかった。
文化祭まであと一週間。
それが終われば、二人でどこかへ行く。
そう思うだけで嬉しかった。
そのころの私は、高寺先輩の過去に何があるのか、まだほとんど知らなかった。
春美さんという姉がいたこと。
その姉も、この学校で生徒会長をしていたこと。
それだけ。
私はただ、文化祭が終わったら先輩と二人で出かけられることが嬉しかった。
その気持ちが恋だということを、私はもう知っていた。
ただ一つだけ、知らなかった。
私が高寺先輩自身のことを知ろうとしているそのとき。
先輩は私の中に、別の誰かを見ていた。




