第6章 高寺春美
七月の終わり。終業式の前日、生徒会室の大掃除をすることになった。
文化祭の資料を入れる場所を空けるため、何年分ものファイルや古い備品を棚から出していく。
「これ、捨てていいやつ?」
紗季先輩が、埃をかぶった箱を持ち上げた。
「待って。中見てから」
千景先輩が止める。
箱の中には、古い行事写真や、生徒会活動記録と書かれた冊子が何冊も入っていた。
「うわ、若い」
紗季先輩が一冊を開く。
「千景先輩、一年じゃん」
「二年前だからね」
私も横から覗く。
体育祭。
文化祭。
生徒総会。
行事ごとに写真が貼られ、簡単な説明が添えられていた。
去年のページには、入学したばかりの高寺先輩もいる。
「先輩、今とあんまり変わんないですね」
「一年しか経ってないから」
高寺先輩が笑う。
写真の中でも、同じように笑っている。
私はさらに古い冊子へ手を伸ばした。
「真夏、そっち終わってから」
凛に言われる。
「分かってる」
冊子を閉じようとして、何気なく開いたページに目が止まった。
今より六年ほど前の文化祭。
校門の前で、生徒会役員らしい数人が並んでいる。
中央にいた女子生徒の顔が、どこか高寺先輩に似ていた。
似ている。
でも、同じではない。
写真の下には、小さく名前が並んでいる。
私は一番中央の名前を目で追った。
高寺春美。
「……高寺?」
小さく声が出た。
「真夏ちゃん?」
高寺先輩の声がした。
「あ」
顔を上げる。
「どうしたの?」
「いや……同じ名字の人がいたから」
そう言って、写真を見せようとした。
けれど高寺先輩は、一瞬だけ冊子へ目を落としたあと、
「昔の記録だからね」
とだけ言った。
笑っていた。
何もおかしくない笑顔だった。
それなのに。
私はなぜか、それ以上聞けなかった。
掃除を続ける。
壁に掛かっている歴代生徒会長の大きな木製プレートも、一度外して埃を拭くことになった。
普段見えている面には、近年の会長名が年度順に並んでいる。
「重っ」
「落とさないでよ」
「分かってます」
私と凛で支える。
千景先輩が裏側を拭こうとして、少し笑った。
「懐かしいな。前の名札、まだ裏に残ってるんだ」
「裏?」
見ると、プレートの背面には、表から外された古い金属の名札が何枚か並べて留められていた。
学校がプレートを作り直したとき、昔のものだけ裏へ移したらしい。
知らない名前が並んでいる。
その中に。
また同じ名字があった。
高寺春美。
今度は名前の横に、年度と役職がはっきり刻まれていた。
生徒会長。
見間違いではない。
さっきの行事写真だけでもない。
高寺春美という人は、確かにこの学校にいて、生徒会長をしていた。
「高寺って、もう一人いたんですね」
私が言うと、紗季先輩の手が止まった。
「……ああ」
「知ってるんですか」
「私は直接は知らないけど」
「高寺先輩と関係ある人?」
紗季先輩は一瞬だけ高寺先輩のほうを見た。
先輩は別の棚を整理していて、こちらを向いていない。
「本人に聞いたほうがいいと思う」
「親戚?」
「真夏」
「何ですか」
「そのくらいにしときな」
いつもの紗季先輩らしくない声だった。
それで余計に気になった。
掃除が終わっても、高寺春美という名前が頭から離れなかった。
翌日。
終業式のあと、生徒会室で夏休み中の当番を確認した。
高寺先輩はいつも通りだった。
「真夏ちゃん、最初の活動日来られる?」
「行けます」
「無理しなくてもいいよ」
「暇なので」
「またそれ」
笑う。
聞けばいいだけだった。
昨日の人、先輩の親戚ですか。
それだけ。
でも口にできなかった。
紗季先輩の反応が引っかかっていた。
高寺先輩が冊子を見たときの、一瞬の間も。
夏休みに入って最初の活動日。
文化祭の過去資料を取りに、一人で資料室へ入った。
棚の端に、大掃除で見つけた活動記録の箱がある。
私はしばらく迷ってから、一冊だけ取り出した。
「少し」
誰に言い訳しているのか、自分でも分からない。
高寺春美の年度を開く。
今度は、名前を意識して写真を見る。
一年生の春。
入学直後らしい集合写真。
二年生の体育祭。
文化祭。
生徒総会。
冬の校内行事。
春美という人は、何度も写っていた。
誰かと話している。
後輩の肩に手を置いている。
先生と笑っている。
生徒会長として前に立っている。
写真だけ見れば、ずっとそこにいた人だった。
ある文化祭の写真で、私は手を止めた。
春美が隣の友達へ顔を向けて笑っている。
カメラを意識していない顔。
口を少し開いて、目尻を下げている。
「……あれ」
変な感じがした。
高寺先輩に似ているからではない。
もっと別の何か。
どこかで見たことがある。
私は無意識に自分の頬へ触れた。
でも答えは出なかった。
ページをさらにめくる。
二年生の終わり近くまで、春美はいた。
その先。
次の年度になると、写真から突然いなくなっていた。
「……三年のがない」
生徒会長が代わったから、それだけなのかもしれない。
卒業まで生徒会の写真に写るとは限らない。
そう思った。
でも、気になった。
私は活動記録を棚へ戻し、生徒会室を出た。
向かったのは図書室だった。
奥の学校資料コーナーには、創立以来の学校案内や記念誌と一緒に、卒業記念アルバムが年度ごとに保管されている。校内閲覧だけなら在校生も見ることができた。
書架の前まで来て、私は一度手を止めた。
これはもう、生徒会の資料ではない。
調べすぎだ。
そう思った。
それでも数分後には、春美が卒業するはずだった年度の一冊を閲覧机に置いていた。
三年生のクラス写真。
一組。
二組。
三組。
四組。
顔と名前を一人ずつ見る。
いない。
最初からやり直す。
高寺。
その名字を探す。
ない。
「……え?」
巻末の卒業生名簿も見た。
高寺春美という名前はなかった。
入学時の写真がある。
二年生の終わりごろまで、行事写真にもいる。
生徒会長を務めた記録も残っている。
プレートの裏にまで名前がある。
なのに。
卒業した記録だけがない。
その不自然な途切れ方を見ていると、少し自分のことを思い出した。
中学の大会記録を探せば、私の名前はいくらでも出てくる。
写真も、タイムも、動画も残っている。
でも高校で出すはずだった記録は、一つも存在しない。
存在した過去と、来るはずだった未来のあいだに、突然空白ができる。
もちろん春美さんに何があったのかは分からない。
それでも、その空白だけは妙に生々しく見えた。
転校した。
学校を辞めた。
家庭の事情。
いくらでも理由は考えられる。
でも、なぜだろう。
どれもしっくりこなかった。
何より、高寺先輩が言った言葉が頭に浮かんだ。
まだ聞いてもいないのに、勝手に思い出したわけではない。
私はその日の帰り道、ようやく聞いた。
「先輩」
「なに?」
「兄弟っています?」
高寺先輩の足が、一瞬止まった。
「どうして?」
「なんとなく」
「先輩って、お姉ちゃんっぽいから」
苦しい言い訳だった。
「そうかな」
「後輩の面倒見るし」
「生徒会長だからじゃない?」
「それもあるけど」
「真夏ちゃんは?」
「一人っ子です」
「そっか」
少し間があった。
私は逃げずに聞いた。
「先輩は?」
「……いたよ」
過去形だった。
胸が冷えた。
「お姉ちゃんがいた」
「何歳上ですか」
「六つ」
計算する。
高寺春美。
あの年度。
合う。
「この学校に?」
口から出てしまった。
先輩が私を見た。
今までより長い沈黙だった。
「……うん」
「生徒会?」
「うん」
「会長?」
先輩は一度だけ目を伏せた。
「そうだよ」
もう疑う余地はなかった。
高寺春美は、高寺先輩の姉だ。
でも。
卒業アルバムにはいない。
「先輩」
「なに?」
どうして卒業していないんですか。
そこまで出かかって、飲み込んだ。
先輩の横顔が、今まで見たことがないほど遠く見えた。
「……何でもないです」
「そっか」
それ以上、先輩も聞かなかった。
私は隣を歩きながら考えていた。
高寺先輩には、六つ上の姉がいた。
同じ高校に入り。
生徒会長になり。
二年生の終わり近くまでは、確かに学校にいた。
けれど、卒業した記録がない。
そして高寺先輩は、その人のことを過去形で話す。
何があったんだろう。
知りたい。
でも、知るのが怖い。
そんなふうに迷っている自分を見て、もう一つだけ認めるしかなかった。
私は高寺先輩が好きなんだと思う。
名前を呼ばれると嬉しいことも。
二人きりになれると、少し得をした気分になることも。
他の人と楽しそうに笑っているのを見ると、胸がざらつくことも。
今なら、全部同じところから来ていたのだと分かる。
この人を知りたい。
この人の近くにいたい。
できれば、私にだけ見せる顔がもっとあってほしい。
たぶん、それを恋と呼ぶのだと思った。
だからこそ。
高寺春美という名前の向こうにあるものが、前よりずっと怖くなった。




