第4章 二人だけの放課後
体育祭が終わると、生徒会室も少し落ち着いた。委員会や部活で誰かが抜ける日が増え、高寺先輩と二人きりになることも珍しくなくなった。
最初は意識した。けれど、二人で黙って別々の作業をしている時間は、不思議と気まずくなかった。
むしろ、紗季先輩や凛が先に帰って、「今日は二人か」と分かると、少し嬉しい日もあった。
その理由を考えるほどではなかった。
高寺先輩とは話しやすいから。
たぶん、それだけだと思っていた。
いつもは五人で囲んでいる机。
並んだ椅子。
壁際の書棚。
それまで気にも留めなかった空間が、二人きりになっただけで妙に目につく。
「今日は何やればいいですか」
「特に急ぎはないかな」
「え」
「珍しいでしょう」
「じゃあ帰っていい?」
「いいよ」
「即答」
「帰りたいんじゃないの?」
「いや」
私は自分の席に鞄を置いた。
「せっかく来たし」
「せっかく?」
「ここまで階段上がってきたから」
「二階だけど」
「私には大冒険です」
冗談で言ったつもりだった。
本当は、階段を見ると今でも二段ずつ駆け上がりそうになることがある。
昔は何も考えずやっていた。
今は一段目で身体が動きかけて、頭のほうが先に止める。
普通に歩ける。
軽く走ることもできる。
だからこそ、「できること」と「もうやらないほうがいいこと」の境目が、ときどきひどく曖昧だった。
高寺先輩は笑ったあと、一度だけ私の右脚へ視線を落とした。
「膝、大丈夫?」
「もう普通に歩く分には平気です」
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
怪我をしてから、「大丈夫?」には何度も答えてきた。心配されるのはありがたい。でも、答えるたびに自分まで平気なふりをしなければならない気がして、少し疲れることもあった。
高寺先輩は心配してくれるのに、私が話したくないところまでは追ってこない。体育祭の日もそうだった。黙って隣にいて、私が口を開くまで待ってくれた。
その距離が、私は好きだった。
「じゃあ、宿題でもやってていいですか」
「もちろん」
「先輩は?」
「私はこれ」
机の上には厚い資料が一冊置かれていた。
「何ですか」
「来月の学校説明会」
「もう?」
「もう」
「生徒会って、ずっと先のこと考えてるんですね」
「終わったと思ったら次だからね」
「大変」
「今さら?」
「最近やっと分かってきました」
「遅いなあ」
先輩が資料を開く。
私も英語の教科書とノートを取り出した。
二人だけの生徒会室に、紙をめくる音とシャープペンシルの走る音が響く。
静かだった。
でも、気まずくはなかった。
誰かと二人きりなのに、何か話さなければと思わなくていい。
そういう相手は、私にはあまりいなかった。
何問か英文を訳したころ、向かいから小さな声がした。
「……苦い」
職員室でもらったらしいコーヒーを、高寺先輩が少し嫌そうに見ている。
「苦いなら飲まなきゃいいじゃないですか」
「もらったものだから」
「そういうところですよ」
砂糖を渡すと、先輩は少し迷ってから一つ入れた。
高寺先輩は苦いものが苦手らしい。そんな小さなことを知れたのが、妙に嬉しかった。
別の日、先生から新しい仕事を頼まれて戻ってきた先輩に、私は聞いた。
「できても、やりたくないことってないんですか」
「あるよ。早起き」
「そうじゃなくて、頼まれ事」
先輩は少し考えた。
「できる範囲ならやるかな。頼ってもらえるのは嬉しいし」
必要とされるのが嬉しい感覚なら、私にも分かる。でも先輩には、どこで休むのかという線が見えなかった。
「そのうち倒れますよ」
「倒れないよ」
「体育祭の日だって全然休んでなかったじゃないですか」
「真夏ちゃんもでしょう」
「私は途中で泣いてました」
「そうだったね」
「忘れてください」
「無理かな。大事なことだから」
あまりに普通に言われて、顔が少し熱くなった。
別の日、購買で季節限定の苺クリームパンを見つけ、なぜか二つ買った。
「これ、食べません?」
高寺先輩へ一つ渡す。先輩は一口食べるなり、ほんの少し目を見開いた。
「……おいしい」
「甘いもの好きなんですか」
「そんなに」
「今めちゃくちゃ嬉しそうでしたけど」
「気のせい」
珍しくむきになる先輩がおかしくて笑った。いつもの整った笑顔ではない、少し子どもっぽい顔。
私は、そっちのほうが好きだと思った。
その言葉が、自分の中で妙に長く残った。
もちろん、笑い方の話だ。
そう決めて、それ以上は考えなかった。
それから、細かなことが目につくようになった。疲れると字が少し右上がりになる。考え事をすると左の髪を耳へかける。机は整っているのに鞄の中は意外と雑。付箋は薄い青から減っていく。甘いものは否定するくせに、渡せば嬉しそうに食べる。
そして、そのたびに思うようになった。
学校中が知っている高寺先輩と、私が知っている高寺先輩は、少し違う。
誰かが生徒会室へ来れば、先輩はすぐに生徒会長になる。
「高寺さん、これ確認お願い」
「はい。明日までで大丈夫ですか?」
「助かる」
「分かりました」
教師と話すとき。
委員長から相談を受けるとき。
後輩から質問されるとき。
いつも同じ、穏やかな笑顔。
声の調子まで変わらない。
相手が話し終えるまで待って、それから一つずつ答える。
誰に対しても丁寧で、決して苛立った顔を見せない。
格好いいと思う。
私も最初は、そういう先輩ばかり見ていた。
でも最近は、もっと小さなところが目に入る。
人が出ていったあと、一瞬だけ肩を落とす。
頼まれた書類を机へ置いて、誰も見ていないと思って小さく息を吐く。
紗季先輩の冗談に、会長らしく笑うときと、本当におかしくて吹き出すときでは笑い方が違う。
そういうものを見つけるたび、少し得をしたような気持ちになる。
たぶん私は、生徒会長ではない高寺先輩を探していた。
そのことに自分で気づいたのは、もう少しあとのことだった。
ある日の放課後。
生徒会室を出て昇降口まで行ったところで、教室に教科書を忘れたことに気づいた。
「最悪」
また階段を上がり、教室へ戻る。
机の中から教科書を取り出して、今度こそ帰ろうとした。
そこで、生徒会室に水筒を置いてきたことを思い出した。
「今日どうなってんの」
一人で呟く。
また廊下を戻った。
もう誰もいないはずだった。
高寺先輩も、私より少し前に帰ると言っていた。
生徒会室の前まで来て、扉に手をかける。
鍵が開いていた。
「先輩?」
返事はない。
扉を開ける。
高寺先輩がいた。
自分の席に座っている。
「なんだ、まだいたんですか」
私はいつもの調子で声をかけた。
先輩は反応しなかった。
「……先輩?」
そこで初めて、様子がおかしいことに気づいた。
机に肘をついている。
片手で額を押さえ、目を閉じていた。
眠っているわけではない。
泣いてもいない。
具合が悪そうにも見えなかった。
ただ。
何の表情もなかった。
私が知っている高寺先輩の顔には、いつも何かがある。
笑っている。
困っている。
考えている。
誰かの話を聞いている。
相手に合わせて、何かしらの表情を浮かべている。
でも、そのときだけは何もなかった。
ひどく疲れているというより、全部を止めてしまったみたいだった。
顔からも、肩からも、指先からも力が抜けている。
そこにいるのに、どこにもいないように見えた。
「……高寺先輩」
もう一度呼んだ。
先輩の肩が小さく跳ねた。
顔が上がる。
私を見る。
一瞬だけ。
見たことのない表情が浮かんだ。
驚いたような。
見つかってしまった、とでもいうような。
それから、すぐに消えた。
「真夏ちゃん?」
笑った。
いつもの高寺先輩だった。
「どうしたの?」
あまりにも早かった。
さっきまでの姿が、私の見間違いだったように思えるほど。
「……水筒」
「水筒?」
「忘れました」
「ああ」
先輩が机の端を指す。
「これ?」
「はい」
私は水筒を取った。
「先輩は?」
「なに?」
「帰ったんじゃなかったんですか」
「少しやること思い出して」
「そうですか」
「うん」
笑っている。
いつも通り。
でも、さっきの顔を見たあとでは、その笑顔の見え方が少し違った。
「……疲れてます?」
「大丈夫だよ」
即答だった。
「そうじゃなくて」
「え?」
「疲れてるか聞いたんです」
先輩が黙った。
短い間があった。
「少しは疲れてるかな」
「じゃあ帰ればいいのに」
「これ終わったら」
「またそれ」
「もう本当に少しだから」
机を見る。
残っている資料は二枚だけ。
たしかに、量としては多くない。
「じゃあ待ってます」
「え?」
「終わるまで」
「真夏ちゃん、帰るところだったでしょう」
「そうですけど」
「明日も学校だよ」
「先輩もです」
「私は大丈夫」
「だから、それ禁止」
先輩が目を瞬く。
「何が?」
「大丈夫」
「禁止?」
「大丈夫って言えば話が終わると思ってるでしょ」
「そんなことないよ」
「あります」
「ないよ」
「ある」
軽く睨む。
先輩は困った顔をした。
「真夏ちゃん、今日は強いね」
「いつもです」
「そうだった」
私は空いている椅子へ座った。
「終わるまでいます」
「どうして?」
「……なんとなく」
「またそれ?」
「私、なんとなくで生徒会入った人なので」
「暇だったからじゃなかった?」
「似たようなものです」
先輩はしばらく私を見ていた。
それから、小さく息を吐く。
「じゃあ、五分だけ」
「はい」
先輩が資料へ向き直った。
私は頬杖をついて、その姿を見る。
「見られるとやりづらい」
「気にしないでください」
「気になるよ」
「じゃあ窓見てます」
窓の外へ顔を向ける。
夕方のグラウンドでは、まだいくつかの部活が練習を続けていた。
陸上部もいる。
短距離の選手が流しをしているのが見えた。
以前なら、目を離せなかったと思う。
誰が走っているのか。
どれくらいの速度か。
フォームはどうか。
そんなことばかり考えていた。
その日は、しばらく見たあと自然に視線を外した。
後ろから紙をめくる音がする。
先輩がいる。
それだけで不思議と落ち着いた。
「終わった」
五分より少し長かった。
「お疲れさまです」
「待たせてごめんね」
「別に」
先輩が立ち上がる。
「帰ろうか」
「はい」
二人で生徒会室を出た。
廊下はもう薄暗い。
階段を並んで下りていく。
「真夏ちゃん」
「なんですか」
「さっき」
先輩が言いかけて止まった。
「何です?」
「……ううん」
「気になるじゃないですか」
「大したことじゃないから」
「じゃあ言ってください」
先輩は少し考えてから言った。
「真夏ちゃんって、変わってるね」
「それだけ?」
「うん」
「先輩にだけは言われたくないです」
「どうして」
「自分のこと、何も話さないから」
先輩の足が、一瞬だけ止まった。
「私、話してるよ」
「話してないですよ」
「そう?」
「そうです」
私は階段を下りながら指を折った。
「苦い飲み物が苦手」
「それは話したっていうより見られた」
「甘いもの好き」
「好きじゃない」
「鞄の中ちょっと汚い」
「それいつ見たの?」
「この前、ファイル取ってって言われたとき」
「忘れて」
「無理です」
私は笑った。
「でも、それくらいじゃないですか」
「十分じゃない?」
「全然」
「じゃあ真夏ちゃんは、私の何を知りたいの?」
聞かれて、足が少し遅くなった。
何を知りたい。
趣味。
好きな食べ物。
休日に何をしているのか。
家ではどんなふうなのか。
そういうものも気になる。
でも、それだけじゃない。
私は今日、先輩の見たことのない顔を見た。
何も映っていないみたいな顔。
あんな顔をする理由を知りたい。
そう思った。
「……先輩が何考えてるか」
思ったまま答えた。
高寺先輩が私を見る。
「それは難しいな」
「なんで」
「自分でも分からないこと、あるから」
「先輩でも?」
「私を何だと思ってるの」
「完璧超人」
「まだ言う」
先輩が笑う。
いつもの笑顔だった。
私はもう、その笑顔をただ綺麗だとは思えなくなっていた。
さっき生徒会室で見た顔が、その奥に重なってしまう。
高寺先輩は、私が思っていたよりずっと疲れる人なのかもしれない。
嫌なことだってあるのかもしれない。
やりたくないことも、本当はあるのかもしれない。
ただ、それを誰にも見せないだけで。
「先輩」
「なに?」
「一番好きな食べ物って何ですか」
高寺先輩は、なぜかそこで黙った。
「……そんな難しい質問です?」
「考えたことないかも」
「じゃあ今考えてください」
「今?」
「宿題にすると忘れそうだから」
「信用ないなあ」
少し歩いてから、先輩がぽつりと言った。
「……苺、かな」
「たぶん?」
「たぶん」
「そこは言い切ってくださいよ」
「でも、好きだと思う」
答えたあと、先輩はどこか不思議そうだった。自分の好みを初めて確かめたみたいに。
「じゃあ一個発見ですね」
「何が?」
「先輩の好きなもの」
私は笑った。
好きな食べ物一つなのに、なぜか嬉しかった。
一人きりの生徒会室で見た、何もない顔。すぐには答えられなかった「好き」。
学校中が知っている高寺会長の奥に、まだ私の知らない人がいる。
もっと知りたい。
その気持ちが何なのか、私はまだ考えないことにした。




