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第3章 走らない体育祭

 六月に入ると、学校中が体育祭の話ばかりになった。

 教室でも廊下でも、誰がどの種目に出るとか、クラス対抗リレーのメンバーをどうするとか、そんな話が飛び交っていた。

「真夏、リレーどうする?」

 昼休み、同じクラスの子に聞かれて、私は一瞬だけ固まった。

「あ」

 聞いた本人もすぐ気づいたらしい。

「ごめん」

「いや、いいよ」

「ほんとごめん」

「大丈夫だって」

 笑ってみせる。

 本当に、責める気はなかった。

 ただ、胸に針を一本置かれたような感覚だけが残った。

 クラス対抗リレー。

 去年までなら、何も考えず名前を書いていた。

 むしろ、出ないという選択肢がなかった。

 中学では百メートルだけじゃなく、リレーも走った。

 バトンを受け取る瞬間の緊張が好きだった。

 前を走る背中を見ながら、あと数歩、あと二歩、と頭の中で数える。

 腕を後ろへ伸ばす。

 手のひらにバトンが当たる。

 その瞬間、一気に加速する。

 自分一人で走る百メートルとは少し違う。

 誰かから受け取って、誰かへ渡す。

 あれも好きだった。

「真夏は運営だよね」

 別の子が言った。

「生徒会だし」

「そうそう」

「忙しそう」

「まあね」

 私は笑った。

 逃げ道みたいで嫌だった。

 でも実際、今年の私は運営側だった。


 放課後の生徒会室には、体育祭の資料が山積みになっていた。

「真夏、これ二年三組」

 凛がプリントの束を差し出してくる。

「了解」

「あとこっち一年」

「それ私の学年じゃん」

「だから?」

「自分で持ってけば?」

「会計の仕事ある」

「庶務って便利に使われすぎじゃない?」

「そういう役」

「絶対違う」

 文句を言いながら受け取る。

 少し前なら、こんなやり取りをしている自分なんて想像できなかった。

「真夏ちゃん」

 高寺先輩が呼ぶ。

「はい」

「競技順、これで一回確認してもらえる?」

「私が?」

「短距離やってたから、選手側の感覚も分かるかなって」

 資料を渡される。

 資料には、競技名と開始時刻、出場するクラスの名前が細かく書き込まれていた。

 私は何気なく上から目を通していく。

 百メートル走のあとに二百メートル走、そのすぐ後ろにクラス対抗リレー。

 見慣れた種目名が並んでいるだけなのに、胸がざわついた。

「この順番、少し変えたほうがいいかもしれません」

「どこ?」

「百と二百、両方出る人がいたら、ほとんど休めないです」

 指で該当箇所を示す。

「リレーも同じ選手が走るなら、ここも空けたほうがいいと思います」

「選手のことまで考えてるんだね」

「……一応、経験者なので」

 そう答えてから、余計なことを言った気がして口を閉じた。

 先輩は何も聞き返さず、私の指先を追うように資料を見た。

「じゃあ、ここを障害走のあとに回す?」

「そのほうが、まだ動きやすいと思います」

「分かった。そうしよう」

 先輩はすぐにペンを走らせた。

 自分が知っていることが、まだ役に立つ。

 そう思えたのは嬉しかった。

 走れなくなっても、陸上をやってきた時間まで全部なくなったわけじゃない。

 でも同時に、少し苦しかった。

 走る人のための競技順を、走れない私が考えている。

 変な感じだった。

「真夏」

 凛に呼ばれて顔を上げる。

「なに」

「ぼーっとしてる」

「してない」

「してた」

「してないって」

「じゃあその紙、上下逆」

「あ」

「ほら」

「うるさいな」

 私は紙を持ち直した。

 高寺先輩が小さく笑った。

「真夏ちゃん、今日はもういいよ」

「え?」

「顔、疲れてる」

「大丈夫です」

 反射的に答えた。

 先輩は私の顔をしばらく見た。

「そっか」

 それ以上は言わなかった。


 体育祭当日は、朝からよく晴れていた。

 空は高くて、風もほとんどない。

 走るにはちょうどいい日だった。

 そう思った瞬間、自分で嫌になった。

 もう私が気にすることじゃない。

 それでも空を見れば風を考えてしまうし、気温を感じれば身体の動きやすさを考えてしまう。

 身体に染みついたものは、怪我をしたくらいではなくならないらしい。

 私は朝早くから生徒会の腕章をつけて、グラウンドを歩き回っていた。

 テントの位置を確認する。

 放送係に資料を渡す。

 各クラスの集合場所を確認する。

 千景先輩は本部。

 紗季先輩は得点集計。

 凛は備品管理。

 高寺先輩は、その全部を行ったり来たりしていた。

「真夏ちゃん」

「はい」

「スタート係の先生、まだ来てないから見てきてもらえる?」

「分かりました」

 返事をして歩き出す。

 昔なら走っていた。

 たったそれだけの距離でも。

 急いでいるなら、走る。

 そんなことを考える必要さえなかった。

 今は歩く。

 早足で。

 右膝に痛みはない。

 階段も上れる。

 普通に歩いているだけなら、怪我をしていることすら誰にも分からない。

 だから余計に変だった。

 できそうなのに、できない。

 体育祭が始まった。

 開会式。

 準備運動。

 最初の競技。

 グラウンドのあちこちから歓声が上がる。

 私は忙しかった。

 だから、思っていたより平気だった。

 走っている人を見ても、そこまで苦しくない。

 仕事があるから。

 次にやることがあるから。

「真夏」

 凛に呼ばれる。

「これリレー用のバトン」

「数合ってる?」

「合ってる」

「じゃあ置いとく」

 忙しい。

 それでいい。

 ずっと忙しければいい。


 午前の後半。

 百メートル走が始まった。

 私は本部横で記録用紙を持っていた。

 スタートラインに選手が並ぶ。

 スパイクが土を噛む音がする。

 一人ずつスタートブロックへ足を合わせていく。

 私は息を止めた。

「位置について」

 身体が勝手に反応した。

 頭の中では、自分もスタートブロックに足を置いていた。

「用意」

 腰が上がる。

 一瞬だけ、グラウンドから音が消える。

 乾いた号砲。

 選手たちが飛び出した。

 最初の三歩。

 加速。

 腕振り。

 上体が徐々に起きていく。

 全部見える。

 誰のスタートがいい。

 誰が少し力んでいる。

 誰が後半で伸びる。

 分かる。

 分かってしまう。

 私は記録用紙へ目を落とした。

 数字を書く。

 次の組が並ぶ。

 また号砲が鳴る。

 また走り出す。

 胸が、少しずつ狭くなっていった。

 それでも私は仕事を続けた。

 大丈夫。

 私はもう選手じゃない。

 今日は生徒会。

 運営側。

 やることがある。


 昼休憩になった。

「真夏ちゃん、ご飯食べた?」

 紗季先輩が聞く。

「まだです」

「一緒食べよ」

「あとで行きます」

「ちゃんと来なよ」

「はい」

 本部から離れる。

 教室へ戻ればクラスの子がいる。

 でも今は行きたくなかった。

 なんとなく、人が少ない校舎裏へ向かった。

 体育館の横に、小さなベンチがある。

 そこに座る。

 お腹は空いていた。

 でも、弁当を開ける気になれなかった。

 遠くから放送が聞こえる。

 午後の競技案内。

 そのあと。

「午後最初の競技は、クラス対抗リレーです」

 胸が詰まった。

 私は右膝を見た。

 もう腫れていない。

 傷があるわけでもない。

 体操着から伸びた脚は、左と何も変わらないように見える。

 走れそう。

 今すぐグラウンドへ戻って、アップをして。

 軽く流して。

 スタートを何本か合わせて。

 バトンを握れば。

 走れるような気がする。

 医師の言葉が蘇った。

 競技として短距離走に戻ることは、難しいと思ってください。

「……やだな」

 声が漏れた。

 誰もいないから、聞かれることはない。

「なんで」

 何に向かって言っているのか、自分でも分からなかった。

 怪我に。

 医者に。

 走っている人たちに。

 自分に。

 全部に腹が立った。

 目の奥が熱くなる。

 嫌だった。

 泣きたくなかった。

 もう一か月以上経っている。

 歩けるようになった。

 学校にも普通に来ている。

 生徒会にだって入った。

 前よりずっと大丈夫になったと思っていた。

 なのに。

「真夏ちゃん」

 声がした。

 慌てて顔を上げる。

 高寺先輩が立っていた。

「……なんでいるんですか」

「探した」

「なんで」

「お昼食べてないって紗季から聞いたから」

「別に」

「うん」

 先輩は隣に座った。

 少し間を空けて。

 あの日と同じだった。

 私がグラウンドを見ながら一人で座っていた日。

 初めて声をかけられた日。

 あのときも先輩は、何かを聞くより先に私の隣に座った。

「午後、リレーですね」

 私が言った。

「うん」

「私、速かったんですよ」

「知ってる」

「百も二百も」

「うん」

「リレーも、ずっと走ってました」

「そっか」

 それだけだった。

 慰めない。

 励まさない。

 私はそれが、少し悔しくなった。

「何か言ってくださいよ」

 思わず口にする。

「何を?」

「分かんないですけど」

「じゃあ、分からない」

「先輩ってこういうとき、何でも言えそうなのに」

「そんなことないよ」

 先輩は前を見たままだった。

「言っても、戻らないでしょう」

 胸が痛んだ。

「……そうですね」

「走れるようになるって、私には言えない」

「はい」

「忘れたほうがいいとも言えない」

「……はい」

「だって、好きだったんでしょう」

 その一言で、駄目だった。

 涙が出た。

 止める暇もなかった。

「好きでした」

「うん」

「すごく」

「うん」

「高校でも、もっと走れると思ってた」

「うん」

「全国だって、また行けると思ってた」

「うん」

「もっと速くなれると思ってた」

「うん」

「全部なくなった」

 声が震えた。

「入学して、二週間ですよ」

「うん」

「まだ何もしてないのに」

「うん」

「何も始まってないのに、終わった」

 顔を伏せる。

 泣くのが恥ずかしかった。

 こんなところで。

 よりによって高寺先輩の前で。

 でも、止まらなかった。

 先輩は何も言わない。

 背中を撫でたりもしなかった。

 ただ隣にいる。

「みんな、陸上だけが人生じゃないって言うんです」

「うん」

「分かってます」

「うん」

「分かってるけど」

「……うん」

「そんなの、今すぐ言われても分かんないですよ」

「そうだね」

 初めて、はっきり返事が来た。

「分からなくていいんじゃないかな」

 私は顔を上げた。

「いいんですか」

「今は」

「でも」

「真夏ちゃんが陸上を好きだったこと、無理になくす必要ないと思う」

 先輩は穏やかに言った。

「走れなくなったからって、好きだった時間まで消えるわけじゃないでしょう」

 涙がまた出た。

 先輩の言葉は、未来の話じゃなかった。

 新しい夢を見つけようとも言わなかった。

 立ち直れとも言わなかった。

 私が走ってきた時間を、そのままそこに置いてくれた。

 それが嬉しかった。

「……先輩」

「なに?」

「ハンカチあります?」

「あるよ」

「貸してください」

「はい」

 差し出されたハンカチを受け取る。

 白地に、小さな青い花柄が入っていた。

「かわいい」

「そう?」

「先輩、こういうの持つんですね」

「失礼じゃない?」

「もっと無地かと思ってました」

「どういうイメージなの」

「何でもできる人」

「買いかぶりすぎ」

 少し笑った。

 泣きながら笑ったから、たぶんひどい顔だった。

 先輩も笑った。

 でも、その顔を見たとき。

 少し違和感があった。

 私が泣いているから困っている。

 そんな顔とは違う。

 懐かしそうな。

 何か、とても遠いものを見つけたみたいな。

 そんな目をしていた。

「真夏ちゃん」

「はい」

「笑った」

「泣いてますけど」

「うん」

「何ですか」

「……なんでもない」

 先輩は目を細めた。

「そのほうがいいなと思って」

「泣いてるほうが?」

「笑ってるほう」

「当たり前じゃないですか」

「そうだね」

 先輩は少し遠くを見るように笑った。

 私はその表情が気になった。

 でも、聞かなかった。


 午後のリレーが始まるころには、私は本部へ戻っていた。

 目は少し腫れていた。

「真夏、泣いた?」

 凛が聞く。

「泣いてない」

「その目で?」

「風」

「今日ほぼ無風だけど」

「うるさい」

 凛は私をちらりと見た。

 それ以上は聞かなかった。

 スタートの合図が鳴る。

 私はトラックを見る。

 まだ苦しい。

 胸が痛い。

 走りたい。

 あそこにいたい。

 その気持ちは何も変わっていない。

 でも、今は手元に仕事がある。

「第二走者、確認してください」

 放送が入る。

「真夏」

「はい」

 千景先輩が資料を渡してくる。

「次の組、呼んできて」

「分かりました」

 私は歩き出した。

 走らない。

 でも、前には進む。

 そんな一日だった。


 体育祭が終わるころ、空は少し赤くなっていた。

 片づけを終えて、生徒会室へ戻る。

 みんな疲れ切っていた。

「もう動けない」

 紗季先輩が机に突っ伏す。

「ちゃんと動いてください」

 凛が言う。

「凛ちゃん冷たい」

「ゴミ残ってます」

「明日」

「今日」

「会長ー」

「凛ちゃんが正しいかな」

「裏切られた」

 私は笑った。

 高寺先輩と目が合う。

 先輩も笑った。

 今度は、昼に見たような妙な表情ではなかった。

「真夏ちゃん」

「はい」

「今日はお疲れさま」

「先輩も」

「よく頑張ったね」

「運営ですけどね」

「運営も体育祭だよ」

「そうですけど」

「真夏ちゃんがいてくれて助かった」

 また、その言葉。

 私は少し照れくさくなった。

「それ、よく言いますよね」

「本当だから」

「便利だからじゃなくて?」

「それもある」

「あるんじゃないですか」

 先輩が笑う。

 私も笑った。

 グラウンドから聞こえていた歓声は、もう遠くなっていた。

 走れなくなったことは、まだ全然平気じゃない。

 たぶん明日になっても、来月になっても、簡単には平気になれない。

 それでも今日、私は一日ここにいた。

 トラックの外側から体育祭を見ていた。

 それは、私が望んでいた高校生活とはまるで違った。

 でも。

 全部が終わったわけじゃないのかもしれない。

 そんなふうに思えたのは、たぶん。

 隣で笑っているこの人が、私の失ったものを無理に忘れさせようとしなかったからだった。

 帰る支度をしながら、私は何度か高寺先輩の姿を探した。

 別に用事があったわけではない。

 ただ、今日の最後にもう一度顔を見ておきたかった。

 自分が泣いたことを知られているのに、恥ずかしいより先に、先輩が見つけてくれてよかったと思っている。

 それは、少し前までの私にはなかった感覚だった。


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