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第2章 高寺会長

 生徒会に入って変わったのは、放課後の行き先だった。

 以前はグラウンドにも家にも帰りたくなくて立ち止まっていた時間に、今は生徒会室へ行く。コピーを取り、資料を配り、凛にファイルの順番を直され、紗季先輩の軽口に付き合う。陸上とは何もかも違うのに、そこには「今日やること」があった。

 高寺先輩は、いつもその中心にいた。廊下を歩けば先生や部活の代表に呼び止められ、生徒会室へ戻れば別の相談が待っている。それでも声を荒げず、一つずつ答えていく。

 忙しいはずなのに、無理をしているようには見えない。それが余計に、私にはすごく思えた。

「会長って、いつ勉強してるんだろ」

 ある日、私がぼそっと言うと、向かいに座っていた凛が顔を上げた。

「何、急に」

「だって毎日こんな忙しいじゃん」

「家でやってるんじゃない」

「でも成績いいんでしょ?」

「学年上位」

「上位ってどれくらい」

「知らない。でもかなり上」

「すご」

 私は思わず高寺先輩の机を見る。

 先輩は少し離れたところで、千景先輩と何か話していた。

 資料を見ながら、時々頷いている。

「ほんと何でもできるよね」

「まあ、会長だし」

「会長って何でもできないとなれないの?」

「そんなことないでしょ」

 凛が呆れたように言う。

「千景先輩だって会長だったし」

「え?」

 私は振り返った。

「千景先輩、会長だったの?」

「知らなかったの」

「知らないよ」

「高寺先輩が入学したときの会長」

「へえ」

 それは少し意外だった。

 今の千景先輩は、副会長という立場が妙にしっくりきている。

 高寺先輩の隣にいて、必要なときだけ口を出す。

 時には先輩を止めるし、逆に仕事を任せることもある。

「じゃあ、なんで今は副会長なの?」

「本人に聞けば」

「凛知らないの?」

「知ってるけど、私が話すことじゃないし」

 そう言われると余計に気になった。

 その日の仕事が一段落したあと、私は千景先輩に聞いてみた。

「千景先輩」

「ん?」

「前、会長だったんですか」

「ああ」

 千景先輩はあっさり頷いた。

「高寺が一年のときね」

「なんで今は副会長なんです?」

「何その聞き方。降ろされたみたいじゃん」

「違うんですか」

「違うよ」

 千景先輩が笑う。

「私はもう一期やるつもりだったの」

「じゃあ、なんで」

「高寺がいたから」

 その言い方が、妙にきっぱりしていた。

「入学してすぐ、生徒会に来たんだよ、この子」

 千景先輩が高寺先輩を見る。

「春の募集が始まって、まだ一週間くらいだったかな」

「そんなに早かったですか」

 高寺先輩が言う。

「早かったよ。しかも一年なのに、入ってすぐ仕事覚えようとするし」

「普通じゃないですか」

「普通の一年は、入って三日で前年度の議事録全部読まない」

 私は高寺先輩を見る。

「全部読んだんですか」

「必要かなと思って」

「怖」

「真夏ちゃん」

 先輩が少し眉を下げる。

 千景先輩は楽しそうだった。

「それだけじゃないよ。文化祭の予算書も、体育祭の運営資料も、前年度の反省点も、頼んでないのに全部目を通してた」

「なんでそんなに」

「……やるなら、ちゃんとやりたかったから」

 高寺先輩は静かに答えた。

 千景先輩がそれを見て、少し笑う。

「私はね、この子に会長やらせたくなったんだよ」

「そんな簡単に譲っていいんですか」

「簡単じゃないよ」

「でも、もう一期やるつもりだったんですよね」

「やるつもりだった。正直、結構やりたかった」

「じゃあなおさら」

「でも、自分よりやりたい人がいたから」

 千景先輩は迷いなく言った。

「しかも、口だけじゃなかった」

 高寺先輩は少し居心地が悪そうに視線を落とした。

「毎日一番早く来て、一番最後まで残ってた。仕事は全部覚えた。分からないことはその日のうちに聞いた。私が言う前に次の仕事を探してた」

「そこまで」

「うん」

「私、最初はちょっと引いた」

 小宮山先輩が横から口を挟んだ。

「紗季」

「だってほんとじゃん。入学したばっかりなのに怖いくらいやる気あるんだもん」

「褒めてる?」

「半分くらい」

「残り半分は?」

「引いてた」

 みんなが笑う。

 高寺先輩も笑った。

 私も笑った。

 でも、なぜだろう。

 その話を聞いているうち、胸に小さな引っかかりが残った。

「会長になりたかったんですか」

 私は聞いた。

 高寺先輩が私を見る。

「……うん」

「最初から?」

「最初から」

「高校入る前から?」

 一瞬。

 一瞬だけ。

 高寺先輩の表情が止まった。

「そうだね」

 それから、いつもの笑顔になる。

「入学する前から」

「へえ」

 それ以上は聞かなかった。

 ただ、高校に入る前から生徒会長になろうと思っている人なんているんだろうか、と少し不思議に思った。

「高寺には会長が似合ってるよ」

 千景先輩が言う。

「私よりずっと」

「そんなことないです」

「あるある。私はわりと適当だったし」

「それは否定しません」

「おい」

「でも千景先輩は、必要なところはちゃんとしてました」

「はいはい、褒めても何も出ないよ」

 二人のやり取りは自然だった。

 たぶん一年以上、こうやって一緒に生徒会をやってきたんだろう。

 私は少し羨ましかった。陸上部で得るはずだった時間とは違うけれど、ここにも積み重なっていく関係がある。最近は、走れないことだけを考える時間が少しずつ減っていた。

 それでも、身体のほうは簡単には忘れてくれなかった。

 窓の外でスタートの合図が鳴れば、反射的に顔が上がる。

 短距離の練習を横目で見れば、一本目より二本目のほうが動きが硬いとか、あの子は接地が少し前だとか、頼まれてもいないことを考えてしまう。

 そして数秒遅れて、自分はもうあそこへ戻らないのだと思い出す。

 前ほど毎回苦しくはならなくなった。

 それが少し嬉しくて、同じくらい寂しかった。

 忘れたくはない。

 でも、ずっと痛いままでもいたくない。

 そのちょうどいい場所が、まだ分からなかった。


 翌週、私は初めて大きな生徒会の会議に参加した。文化祭の企画、体育館の使用、来校者の導線。質問が次々飛ぶ中、高寺先輩は分かることには即答し、分からないことだけを「確認します」と持ち帰った。

 大声を出すわけでもないのに、先輩が話すと自然に場が整う。私は資料を配りながら、単純に格好いいと思った。

 会議が終わるころには、千景先輩が会長を譲った理由も少し分かった気がした。

「なんか、分かりました」

「何が?」

「会長譲った理由」

「でしょ?」

「私なら譲りたくないけど」

「そこ?」

「だって会長やりたかったんですよね」

「まあね」

「悔しくなかったんですか」

 千景先輩は少し考えた。

「悔しいとは違ったかな」

「じゃあ何ですか」

「楽しみだった」

「楽しみ?」

「高寺が会長になったら、どんな生徒会になるんだろうって」

 千景先輩は、高寺先輩のほうを見た。

「この子、何かやりたいっていうより、やらなきゃって感じだったから」

 私は手を止めた。

「やらなきゃ?」

「ああ、悪い意味じゃないよ」

 千景先輩は笑った。

「責任感が強いってこと」

「そうですか」

「うん。強すぎるくらい」

 その言葉が、なぜか耳に残った。


 みんなが帰ったあと、生徒会室には私と高寺先輩だけが残った。

「先輩」

「ん?」

「まだやるんですか」

「これだけ」

 机の上には、会議で出た要望をまとめたメモが広がっている。

「明日でよくないですか」

「明日も別の仕事あるから」

「じゃあ明後日」

「明後日は委員会」

「その次」

「その次は――」

「もういいです」

 思わず吹き出した。

「いつもそんな感じなんですね」

「どんな感じ?」

「予定いっぱい」

「そうかな」

「そうですよ」

 私は鞄を持ちながら先輩を見る。

「疲れないんですか」

「疲れるよ」

 あっさり返ってきて、逆に驚いた。

「疲れるんだ」

「そりゃ疲れるよ」

「なんか疲れなさそうだから」

「どういう人だと思ってるの」

「完璧超人」

「やめて」

 先輩が笑う。

 その笑顔はいつもと同じだった。

「じゃあ、今日は帰ればいいじゃないですか」

「これが終わったらね」

「私待ってます」

「なんで?」

「一人で残るのもあれでしょ」

「真夏ちゃんは帰っていいよ」

「でも私、生徒会ですよ」

「だからって付き合う必要ない」

「じゃあ手伝います」

「これは私じゃないと分からないから」

「じゃあ見てます」

「見てるだけ?」

「はい」

「意味ある?」

「あります」

「何の?」

「分かんないですけど」

 自分でもよく分からなかった。

 でも、帰る気にはならなかった。

 私は鞄から宿題を出した。

「ここでやっていいですか」

「いいけど」

「じゃあ終わるまでいます」

「……変な子」

「先輩に言われたくないです」

「私、変?」

「入学する前から生徒会長になるって決めてた人は、ちょっと」

 言った瞬間。

 先輩のペンが止まった。

 わずかな間だけ。

「そうかもね」

 先輩は笑った。

 でも、その笑顔がさっきまでと同じなのか、私は分からなかった。

 そのあと、部屋の空気が少し変わった。

 私は宿題へ目を落とした。

 英語の問題を解く。

 先輩は資料をまとめる。

 部屋には紙をめくる音と、シャープペンシルの音だけが残った。

 しばらくして、私はふと思った。

「先輩」

「なに?」

「なんでそんなに会長やりたかったんですか」

 ペンの音が止まった。

 今度ははっきり分かった。

 先輩はすぐには答えなかった。

「……なんとなく」

「それ、絶対嘘」

「どうして」

「私が生徒会入った理由より雑じゃないですか」

「真夏ちゃんの理由も大概だよ」

「暇だったから」

「ほら」

 先輩が笑う。

 そのまま話は終わった。

 結局、理由は聞けなかった。

 ただ。

 その日から、高寺先輩のことが前より気になり始めた。

 完璧だからじゃない。

 何でもできるからでもない。

 みんなから頼られているからでもない。

 たまに。

 本当にたまにだけれど。

 私が何かを聞いたとき、先輩の中から返事が出てくるまでに、妙に長い間がある。

 普通ならすぐ答えられそうなことほど、その間は長かった。

 そしてそのあと、先輩は必ず笑った。

 まるで、答えを選んでから笑うみたいに。

 私はまだ、それを不自然だとは思っていなかった。

 ただ、高寺先輩という人を、もっと知ってみたいと思った。

 みんなが知っている「会長」のことではない。

 何を聞けば一瞬黙るのか。

 何なら本当に笑うのか。

 疲れたとき、どんな顔をするのか。

 そんなことが、妙に気になった。

 先輩が先生に呼ばれて生徒会室を出ていくと、戻ってくるまで何となく扉のほうを見てしまうことにも、そのころには気づいていた。

 でも私は、それを単なる興味だと思っていた。


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