第1章 生徒会室
生徒会室は、思っていたより普通だった。
もっとこう、偉い人たちが集まる場所らしく整然としているのかと思っていたけれど、実際には長机と椅子が並んでいて、壁際には書類棚があり、隅には段ボールが積まれていた。
「これです」
高寺先輩が、その段ボールの一つを指さした。
「……紙って、これですか」
「うん」
「いっぱいあるって、本当にいっぱいあるじゃないですか」
「だから助かった」
先輩は悪びれずに笑った。
中身は行事の案内やらアンケート用紙やら、私にはよく分からない書類ばかりだった。
「どこまで運ぶんですか」
「隣の資料室。あと、その棚に学年ごとに分けて入れてほしい」
「私、完全に労働力として連れてこられてません?」
「気づいた?」
「気づきますよ」
「でも暇だったでしょう?」
「まあ……」
「じゃあ、利害は一致してる」
なんとなく言い返せなくて、私は段ボールの中から軽そうな束を持ち上げた。
「それくらいなら大丈夫?」
「はい。歩くのは普通にできます」
「無理しないでね」
「分かってます」
先輩はそれ以上何も言わなかった。
怪我をした人に対する妙な遠慮みたいなものがない。
それが少し楽だった。
私は言われた通り、書類を資料室へ運んだ。
二往復したところで、生徒会室の扉が勢いよく開いた。
「ただいま戻りましたー」
明るい声と一緒に、女子生徒が入ってくる。
二年生らしい。
肩くらいまである髪を後ろで一つにまとめていて、片手にはコンビニの袋をぶら下げていた。
「紗季」
高寺先輩がその袋を見る。
「なに」
「それ」
「差し入れ」
「自分への?」
「半分くらい」
「ほとんど自分じゃない」
「細かいなあ、会長は」
その人はそう言ってから私を見た。
「あれ。誰?」
「一年の真夏ちゃん」
「真夏ちゃん」
初対面なのに、いきなり下の名前で呼ばれた。
「はい」
「生徒会入るの?」
「いや、私は……」
「今のところ手伝ってもらってるだけ」
高寺先輩が答える。
「へえ」
その人は私の顔をじっと見た。
「スポーツやってそう」
「陸上です」
反射的に答えてから、少し間が空いた。
「……やってました」
その人の表情がほんの少し変わった。
きっと何か聞いたことがあるんだと思った。
けれど、その人も深く聞いてはこなかった。
「そっか。私は小宮山紗季。二年で書記」
「よろしくお願いします」
「よろしくよろしく」
紗季先輩はコンビニ袋からチョコレートを一つ取り出して私に差し出した。
「働いた人には糖分」
「まだそんなに働いてないです」
「じゃあ前払い」
「紗季」
「はいはい。会長の分もあるって」
「そういう話じゃないんだけど」
高寺先輩が困ったように笑う。
私はそのやり取りを見て、少し意外に思った。
学校中から頼られている生徒会長でも、普通に友達から軽口を叩かれるらしい。
「もらっていいんですか」
「どうぞどうぞ」
「ありがとうございます」
包みを開ける。
甘かった。
その日、私は一時間くらい生徒会室にいた。
やったことといえば、書類を運んで、古い資料を順番に並べて、最後に机の上を拭いたくらいだった。
でも不思議と嫌ではなかった。
「ありがとうございました」
帰り際、高寺先輩が言った。
「助かった」
「本当に紙運んだだけですよ」
「紙を運ぶ人がいなかったから困ってたの」
「他の生徒会の人は?」
「今日はみんな用事」
「会長一人でやるつもりだったんですか」
「そのつもりだった」
「大変じゃないですか」
「まあ、なんとかなるよ」
その言い方が妙に自然だった。
無理をしているようには見えなかった。
「じゃあ、またね」
先輩が言う。
「はい」
私は生徒会室を出た。
廊下を歩きながら、少し不思議な気分だった。
放課後に学校に残ったのに、今日は一度もグラウンドを見なかった。
翌日の昼休み。
私は陸上部の顧問を訪ねた。
手には、一枚の紙を持っていた。
退部届。
名前を書くところまでは家でできたのに、理由を書く欄だけ何度も手が止まった。
怪我のため。
結局、それだけ書いた。
「……本当にいいのか」
顧問は紙を受け取る前に聞いた。
引き止めるための声ではなかった。
私の膝のことも、医者に言われたことも知っている。
「はい」
答えた。
「マネージャーで残るとか、そういうやり方もあるぞ」
「分かってます」
「大会の手伝いだけでもいい」
「……はい」
「すぐ決めなくてもいい」
優しかった。
だから、余計につらかった。
「でも」
私は膝の上で拳を握った。
「今は、走ってる人の近くにいるほうがきついです」
顧問は少し黙った。
「そうか」
「すみません」
「謝ることじゃない」
それから、紙を受け取った。
たったそれだけだった。
中学から何年も続けてきたものが終わる瞬間にしては、驚くほど静かだった。
放課後、部室へ荷物を取りに行った。
練習が始まる前を選んだのに、何人かはもう着替えていた。
「真夏」
同じ一年の子が、私を見る。
「今日、来るんだ」
「荷物だけ」
「あ……」
それ以上、誰も何も言わなかった。
ロッカーを開ける。
練習着。
タオル。
テーピング。
大会用に買ったばかりのスパイク。
高校ではこれで自己ベストを出すつもりだった。
まだ靴底のピンには、ほとんど傷がない。
持ち上げると、驚くほど軽かった。
こんなに軽いもののために、私はずっと毎日を使っていたんだと思った。
「それ、どうするの?」
後ろから聞かれた。
「持って帰る」
「そっか」
捨てるとは言えなかった。
誰かにあげるとも言えなかった。
もう履かないのに。
鞄の一番下へ入れた。
部室を出ると、ちょうど短距離組がグラウンドへ向かうところだった。
反射的についていきそうになって、足を止める。
私だけ、廊下の反対側へ曲がった。
その日の放課後も、私は生徒会室へ行った。
頼まれてもいないのに顔を出し、封筒へ案内文を入れる地味な作業を手伝った。
鞄の底には、スパイクが入ったままだった。
高寺先輩は何も知らずに、
「今日も来た」
と笑った。
「暇なので」
私はいつものように答えた。
その言葉が、昨日までとは少し違って聞こえた。
「先輩って、なんで生徒会入ったんですか」
「高校に入ったら、やってみようと思ってたから」
「最初から?」
「うん」
答える前、先輩の手が一瞬止まった。すぐにいつもの笑顔へ戻ったけれど、その小さな間だけが妙に残った。
三日目も、生徒会室へ行った。
四日目も行った。
五日目は、高寺先輩のほうから教室まで来た。
帰り支度をしていると、廊下から名前を呼ばれた。
「真夏ちゃん」
「はい」
振り向くと、クラス中の視線が一斉に入口へ向いた。
高寺先輩が立っていた。
「今日、時間ある?」
「あ、あります」
「手伝ってほしいことがあるんだけど」
「分かりました」
私が鞄を持つと、隣の席の子が小声で言った。
「真夏、生徒会長と仲いいの?」
「いや、別に」
「名前で呼ばれてたじゃん」
「手伝いしてるだけ」
「ふうん」
その「ふうん」が妙に意味ありげで、私はなんとなく居心地が悪かった。
廊下へ出る。
「すみません」
先輩に言う。
「なにが?」
「教室まで来てもらって」
「別にいいよ」
「目立ちますよ」
「そう?」
「会長、有名だから」
「ああ」
先輩は少し困ったように笑った。
「やっぱり変なことできないな」
「前も言ってましたね、それ」
「覚えてた?」
「覚えてますよ」
数日通ううちに、残りの役員とも顔を合わせた。三年の副会長、水野千景先輩。一年の会計、宮下凛。紗季先輩を含め、生徒会室は思っていたよりずっと賑やかだった。
凛は数字に細かく、紗季先輩はよく喋る。千景先輩は全体を見ながら必要なところだけ口を出す。その中心で、高寺先輩は先生への応対も、書類の確認も、誰かからの相談も滞りなく片づけていた。
そういえば。
何日かここへ通っているのに、誰も高寺先輩を下の名前で呼ばない。
同級生の紗季先輩も「高寺」。
千景先輩も「高寺」か「会長」。
先生も「高寺さん」だった。
壁の役員表には「会長 高寺芳美」とフルネームで書かれている。だから名前を知らないわけではない。ただ、口にしている人を一度も見たことがなかった。
あとで紗季先輩に聞くと、
「下の名前で呼ばれるの嫌なんだって」
と、たいしたことでもないように言った。
「昔から?」
「少なくとも入学したときから。最初に言われたよ。高寺って呼んでって」
「へえ」
少し変わっていると思った。
でも、そのときはそれだけだった。
先輩にも、呼ばれたくない名前くらいあるのだろう。
私は深く考えなかった。
「高寺さん、ちょっといい?」
途中で先生が顔を出した。
「はい」
「来週の委員会の件なんだけど」
「今行きます」
先輩は席を立つ。
「真夏ちゃん」
「はい」
「その束、終わったらこっちお願いしていい?」
「分かりました」
「ありがとう」
先輩が部屋を出ていく。
私は言われた通り作業を続けた。
しばらくして、小宮山先輩がぽつりと言った。
「高寺、忙しいなあ」
「いつもこんな感じなんですか」
「だいたい」
千景先輩が答える。
「でも任せればちゃんとやるから」
「すごいですね」
「すごいよ」
迷いのない言い方だった。
「高寺が会長になって、本当に助かってる」
「そんなに?」
「前の会長が悪かったわけじゃないけどね。高寺は抜けがないから」
小宮山先輩もうなずく。
「何頼んでも忘れないし」
「勉強もできるし」
「先生受けもいいし」
「あと怒らない」
「それ大きい」
二人が次々に挙げる。
私はなんとなく嬉しくなった。
別に私が褒められているわけじゃない。
なのに、知っている人が褒められているみたいで、少し誇らしかった。
「完璧ですよね」
私が言うと、千景先輩が笑った。
「ほんと、それ」
そのとき扉が開いた。
「何の話?」
高寺先輩が戻ってきた。
「高寺が完璧って話」
小宮山先輩が言う。
「やめてよ」
「本人照れてる」
「照れてない」
「真夏ちゃんも言ってたよ」
「え」
先輩が私を見る。
「完璧って」
「言いましたけど」
「それは買いかぶりすぎ」
「でも本当じゃないですか」
高寺先輩は少し困ったように笑った。
「そんなことないよ」
それだけ言って、自分の席へ戻った。
その日の帰り際。
みんなが先に帰って、私と高寺先輩だけが生徒会室に残った。
「真夏ちゃん」
「はい」
「今日もありがとう」
「もう慣れました」
「毎日来てくれるから助かる」
「暇なので」
「まだそれ言う?」
「本当ですから」
鞄を持つ。
先輩は机の上の書類をまとめながら言った。
「ねえ」
「なんですか」
「正式に生徒会、入らない?」
私は動きを止めた。
「……私が?」
「うん」
「なんで」
「今さら?」
「いや、手伝いと所属するのは違うじゃないですか」
「そうだけど」
先輩は私を見る。
「向いてると思う」
「どこが」
「人の話を聞くし、頼んだことちゃんとやるし」
「それだけ?」
「大事だよ」
「でも私、生徒会とか全然興味なかったですよ」
「今も?」
言われて、少し考える。
興味があるかと聞かれたら、よく分からなかった。
生徒会の仕事が好きなのかも分からない。
書類を運んだり、封筒に紙を入れたりすることが楽しいわけでもない。
ただ、ここへ来ることは嫌ではなかった。
「……分かんないです」
「じゃあ、まだ決めなくていいよ」
先輩はそう言った。
「無理に入ってほしいわけじゃないから」
「でも誘ったじゃないですか」
「誘いたかったから」
「どうして?」
先輩は少し黙った。
まただ。
一瞬だけ、何か考えるような顔をした。
でもすぐに、いつもの笑顔に戻る。
「真夏ちゃんがいてくれると、助かるから」
その言葉に、私は何も返せなかった。
胸が少し詰まった。
怪我をしてから、いろんな人にいろんなことを言われた。
ゆっくり休めばいい。
焦らなくていい。
陸上だけが人生じゃない。
きっと他にやりたいことが見つかる。
全部、私のことを思って言ってくれた言葉だった。
でも。
必要だと言われたことはなかった。
中学までは、当たり前のようにあった。
大会に出てほしい。
リレーを走ってほしい。
記録を出してほしい。
チームにいてほしい。
そういう言葉が。
走れなくなった途端、なくなった。
当然だと思っていた。
だって私はもう走れない。
それなのに。
「真夏ちゃんがいてくれると、助かる」
先輩はそう言った。
陸上とは何の関係もない場所で。
「……入ります」
気づいたら言っていた。
「え?」
「生徒会」
先輩が目を丸くする。
「入ります」
「本当に?」
「はい」
「さっき興味ないって」
「分かんないって言ったんです」
「そうだった」
先輩が笑う。
私は少し恥ずかしくなって視線をそらした。
「何やればいいんですか」
「最初は雑務かな」
「今までと変わらないじゃないですか」
「たしかに」
「役職とかあるんですか」
「一年生は凛ちゃんが会計だから、真夏ちゃんは庶務かな」
「庶務」
「いろいろやる人」
「雑ですね」
「便利な役職だよ」
「聞こえがいいだけじゃないですか」
先輩は楽しそうに笑った。
その笑顔を見ながら、私は思った。
ここにいてもいいのかもしれない。
走れなくなった私でも。
何かできるのかもしれない。
それに、たぶん私は、生徒会そのものだけを気に入ったわけではなかった。
放課後にここへ来れば、高寺先輩がいる。
名前を呼ばれて、何かを頼まれて、くだらないことを言えば笑ってくれる。
その時間が思っていたより心地よかった。
まだ、それ以上の意味なんて考えていなかったけれど。
そのときの私は、生徒会に入ったことが自分の高校生活をどれほど変えるのか知らなかった。
もちろん。
目の前で笑っている高寺先輩という人が、私自身をどれほど変えることになるのかも。




