プロローグ 走れなくなった春
高校に入ったら、もっと速くなれると思っていた。
疑ってすらいなかった。
中学最後の大会を終えたとき、顧問の先生に言われた言葉を、私は何度も思い返していた。
「高校に行ったら、もっと伸びるぞ」
全国大会に出られたことよりも、自己ベストを更新したことよりも、その言葉が嬉しかった。
まだ先がある。
もっと速くなれる。
それだけで、高校へ行くのが楽しみだった。
百メートルを走る時間なんて、ほんの十数秒しかない。
けれど私にとって、その十数秒の先にはいつも次の景色があった。
もっと速い選手がいる。
もっと大きな大会がある。
もっと縮められる記録がある。
ひとつ届いたら、その先にまたひとつ現れる。
それが好きだった。
高校を選ぶときも迷わなかった。
陸上部が強い学校。
自分より速い人がいる学校。
もっと厳しい練習ができるところ。
両親は少し心配していた。
家からも遠くなるし、勉強だって中学より大変になる。
それでも最後には、
「真夏が行きたいなら、行っておいで」
と背中を押してくれた。
四月。
初めて制服を着た朝、鏡の中の私は少し大人になったように見えた。
新品のブレザー。
まだ足になじんでいないローファー。
通学鞄の中には教科書と練習着。
玄関で母に何枚も写真を撮られて、
「もういいって」
と笑いながら家を出た。
あの日の私は、本当に何も疑っていなかった。
今日から高校生になる。
今日からまた走れる。
もっと速くなるための三年間が始まる。
それだけを考えていた。
初めて見た高校のグラウンドは、中学のものよりずっと広く感じた。
放課後、陸上部の練習へ行くだけで胸が高鳴った。
先輩たちは速かった。
顧問の指示も厳しかった。
アップの仕方ひとつでも、中学とは少し違う。
それすら嬉しかった。
ここならもっと速くなれる。
入学してまだ二週間ほどだったと思う。
その日は少し肌寒くて、夕方になると風が強くなった。
グラウンドの端に溜まっていた桜の花びらが、風に巻き上げられていた。
短距離組は練習の最後に加速走をやることになった。
三十メートルほど流して、そこから一気に速度を上げる。
一本目は悪くなかった。
二本目は二年生の先輩と並んだ。
「真夏、いける?」
「もちろんです」
軽く笑って答えた。
負けたくなかった。
高校へ来てから、何度かその先輩には置いていかれていた。
今日は抜けるかもしれない。
スタート位置につく。
軽く足首を回す。
何度か跳ねる。
調子は悪くなかった。
疲れてはいたけれど、いつも通りの疲れだった。
合図が出る。
一歩。
二歩。
三歩。
身体が前へ出る。
風が耳の横を通り抜けていく。
視界の端に先輩が見えた。
少し前。
もう少し。
追いつける。
私は地面を強く蹴った。
その瞬間、右膝の奥で何かがずれた。
音がしたような気がした。
でも、本当に聞こえたのかは分からない。
次の一歩が出なかった。
右脚が突然、自分のものじゃなくなったみたいに力を失った。
前につんのめる。
肩から地面に落ちた。
そのまま何度か転がった。
「真夏!」
誰かが叫んだ。
その声より少し遅れて、痛みが来た。
「っ……」
息が止まった。
右膝を抱える。
痛い。
熱い。
どこがどうなっているのか分からないくらい痛かった。
「動くな」
顧問の先生が駆け寄ってきた。
「先生、大丈夫……」
「動くなって」
大丈夫です、と言おうとした。
転んだだけなら立てる。
痛くても少し休めば走れる。
これまでずっとそうだった。
多少の擦り傷も、筋肉痛も、足首の痛みも、走れなくなるようなものじゃなかった。
でも、その日は立てなかった。
病院へ連れていかれた。
診察を受けた。
画像を撮った。
医師からいくつも説明された。
難しい言葉がたくさん出てきたけれど、私はほとんど聞いていなかった。
「しばらく走れないってことですよね」
私が聞くと、医師は少しだけ黙った。
「まずは治療を優先しましょう」
「何か月くらいですか」
「今の段階では、復帰時期を断言するのは難しいです」
「夏までには走れますか」
医師は答えなかった。
その沈黙が嫌だった。
隣で母が手を握っていた。
私は見ないふりをした。
手術は必要ないと言われた。
それを聞いて、私はむしろ安心した。
じゃあ大丈夫だと思った。
リハビリをすればいい。
ちゃんと治せばいい。
私は身体を動かすことには慣れている。
努力することだって嫌いじゃない。
走るためなら何でもするつもりだった。
学校ではしばらく松葉杖を使った。
クラスのみんなは優しかった。
「真夏、大丈夫?」
「荷物持つよ」
「階段きつくない?」
ありがたかった。
だから私は毎回、
「大丈夫」
と答えた。
一日に何度も大丈夫と言っているうちに、自分でも本当に大丈夫なのか分からなくなった。
陸上部にも顔を出した。
「早く戻ってこいよ」
先輩が言った。
「はい」
私は笑った。
そのときは、まだ戻るつもりだった。
一か月ほどすると、松葉杖はいらなくなった。
普通に歩ける。
階段も上れる。
膝の痛みもかなり減った。
思ったより早い。
私はそう思った。
この調子なら夏には走れる。
秋の大会には間に合うかもしれない。
遅れた分は、練習すれば取り戻せる。
そう考えていた。
再び病院へ行くまでは。
その日は父も母も一緒だった。
診察室で医師が画像を机の上に並べた瞬間、少しだけ嫌な予感がした。
今後の日常生活。
リハビリについて。
負荷をかけた場合の再発の可能性。
競技復帰について。
丁寧に説明された。
慎重な言い方だった。
だから逆に、良い話ではないことが分かった。
「つまり」
私は途中で口を挟んだ。
「治れば、走れるんですよね」
「日常生活で走る程度なら、状態を見ながら可能になると思います」
「そうじゃなくて」
思ったより強い声が出た。
「百メートルです」
医師は何も言わなかった。
「また大会に出られますよね」
母が私を見た。
父は黙っていた。
「以前と同じ負荷で競技を続けることは、勧められません」
「でも、リハビリすれば」
「再び同じ箇所を痛める可能性があります」
「じゃあ筋肉つければいいですよね」
「そういう問題だけではありません」
「だったら何すればいいんですか」
医師を見る。
「何をしたら、また走れますか」
診察室が静かになった。
誰も私と目を合わせなかった。
そのとき初めて、私は怖くなった。
「競技として短距離走に戻ることは、難しいと思ってください」
医師が言った。
言葉自体は分かった。
別に難しい説明でもなかった。
なのに、何を言われているのか理解できなかった。
「……難しい?」
「はい」
「できないってことですか」
「無理をすれば走れる場面はあるかもしれません。ただ、選手として継続的に全力疾走を繰り返すのは――」
「できないってことですよね」
医師は答えなかった。
答えてくれなくても分かった。
帰りの車の中で、母が何度か話しかけてきた。
私は窓の外を見ていた。
信号で車が止まる。
横断歩道を制服姿の高校生が渡っている。
自転車に乗った学生が横を通り過ぎる。
コンビニから車が出てくる。
普通だった。
何も変わっていなかった。
それが腹立たしかった。
私の中では全部なくなったのに、外では何も起きていないみたいだった。
家へ着いたあと、父が言った。
「真夏」
「うん」
「陸上だけが人生じゃないから」
父なりに励まそうとしてくれているのは分かった。
だから怒っちゃいけないとも思った。
「分かってる」
それだけ言って、自分の部屋へ戻った。
ドアを閉める。
机の横には中学の大会でもらった賞状があった。
壁には記録会で使ったゼッケン。
棚の上にはスパイク。
全部昨日までと同じ場所にある。
私はベッドに座った。
泣かなかった。
悲しくないわけじゃなかった。
でも、何を悲しめばいいのか分からなかった。
走れないことなのか。
大会に出られないことなのか。
期待してくれていた人たちをがっかりさせることなのか。
それとも、これから先の自分が何をするのか分からないことなのか。
次の日も学校には行った。
授業を受けた。
友達と話した。
昼休みには笑った。
表面上はいつも通りだった。
放課後になると、教室から人が減っていった。
「真夏、帰ろう?」
同じクラスの子に声をかけられた。
「ごめん、ちょっと用事ある」
「そっか。また明日」
「うん。また明日」
用事なんてなかった。
でも家に帰りたくなかった。
気づけば、グラウンドの近くまで来ていた。
陸上部が練習している。
スタートの合図が聞こえた。
短距離の選手が一斉に飛び出す。
私は無意識に見ていた。
誰のスタートがいい。
誰が少し力んでいる。
誰が後半伸びている。
見れば分かる。
少し前まで自分もあそこにいた。
校舎脇の石段に腰を下ろした。
膝はもう普通に曲がる。
歩ける。
階段も上れる。
そのうち体育にも参加できる。
なのに、もう競技として走れない。
走ることは、私にとって呼吸することと少し似ていた。
いつから好きだったのかなんて覚えていない。
小学生の運動会で一番になった。
中学で陸上部に入った。
タイムが縮んだ。
大会に出た。
全国にも行った。
ただそれだけなのに、気づけば私の中の大部分を占めていた。
友達からもよく言われた。
「真夏っていったら陸上だよね」
私もそう思っていた。
走っている自分が、私だった。
じゃあ。
走れない私は、何なんだろう。
グラウンドから歓声が聞こえた。
私は俯いた。
「ここ、座ってもいい?」
突然、声がした。
顔を上げる。
女子生徒が立っていた。
知らない人ではなかった。
直接話したことはない。
でも顔は知っている。
全校集会で何度か前に立っていた。
生徒会長。
高寺先輩。
二年生。
成績がよくて、先生からも生徒からも信頼されている人。
入学してまだ二か月も経っていない私でも知っているくらい、有名な先輩だった。
「あ……はい」
少し横へずれる。
「どうぞ」
「ありがとう」
先輩は私の隣に座った。
少し距離を空けて。
それから何も言わなかった。
私は困った。
生徒会長がなんでこんなところにいるのか分からない。
そもそも、どうして私の隣に座ったんだろう。
「……生徒会長ですよね」
沈黙に耐えられなくなって、私から話しかけた。
「そうだよ」
先輩が笑った。
「高寺です。二年生」
「知ってます」
「有名?」
「まあ、たぶん」
「それは困ったな」
「なんでですか」
「変なことできないじゃない」
少し笑ってしまった。
思っていたより、普通のことを言う人だった。
全校集会で話しているときは、もっと隙のない人に見えた。
「真夏ちゃんだよね」
「え」
「一年生の」
「なんで名前知ってるんですか」
「陸上部の子でしょう」
胸が少し痛んだ。
「ああ」
グラウンドを見る。
「元、です」
言ってから、その言葉が嫌になった。
元陸上部。
自分のことなのに、ひどく他人事みたいだった。
「そうなんだ」
先輩はそれ以上何も聞かなかった。
少し驚いた。
怪我のことは知っているんだと思った。
学校では多少話になっていたらしい。
中学で全国大会に出た一年生が入ってきた。
すぐ怪我をした。
復帰は難しいらしい。
そういう話は広まりやすい。
だから何か言われると思っていた。
大変だったね。
つらいね。
でも頑張って。
きっと別の道が見つかるよ。
この一か月で何度も聞いた。
全部、優しい言葉だった。
誰も悪くない。
それでも今は聞きたくなかった。
先輩は何も言わなかった。
私と一緒にグラウンドを見ているだけだった。
やがて先輩が立ち上がった。
「じゃあ、私は行くね」
「はい」
思わず返事をした。
何だったんだろう。
わざわざ隣に座りに来ただけなのだろうか。
先輩は数歩歩いてから、ふと振り返った。
「真夏ちゃん」
「はい?」
「暇?」
「……は?」
「今」
あまりに予想外の質問だった。
「まあ……暇ですけど」
「じゃあ、ちょうどいい」
先輩は嬉しそうに笑った。
「ちょっと手伝ってくれない?」
「何をですか」
「紙を運ぶ」
「紙?」
「いっぱいあるの」
「……生徒会の仕事ですか?」
「そう」
「なんで私が」
「暇なんでしょう?」
言葉に詰まった。
確かに言った。
「嫌ならいいよ」
先輩が言う。
「でも、一人だとちょっと大変だから」
その言葉が妙に引っかかった。
一人だと大変。
だから手伝ってほしい。
それだけだった。
怪我をしたからじゃない。
かわいそうだからでもない。
元気づけようとしているわけでもない。
私は石段から立ち上がった。
「……どれくらいあるんですか」
「結構」
「重いですか」
「そこそこ」
「じゃあ、膝に負担かからないやつください」
「もちろん」
先輩が歩き出した。
私はその後についていった。
校舎へ戻る途中、グラウンドの横を通る。
短距離の選手たちが、またスタート位置についていた。
一瞬だけ足が止まりそうになった。
でも前を歩く先輩との距離が少し開いて、私はまた歩き出した。
「生徒会室って、どこにあるんですか」
「二階。職員室の反対側」
「行ったことないです」
「普通はないよ」
「面白いですか」
「生徒会?」
「はい」
先輩は少し考えた。
「どうだろう」
「会長なのに」
「会長でも分からないことはあるよ」
そう言って振り返る。
夕方の光の中で、先輩はきれいに笑った。
そのときの私は、その笑顔に何の疑問も持たなかった。
ただ、きれいな人だと思った。
きっと何でもできて、何でも分かっていて、私みたいに立ち止まることなんてない人なんだと思った。
もちろん、そんなことはなかった。
このとき私はまだ、高寺先輩という人のことを何ひとつ知らなかった。
先輩もきっと、私のことを知らなかった。
それでも私はあの日、先輩の後ろについて生徒会室へ向かった。
走るために選んだはずの高校で。
走れなくなった私が、初めて別の場所へ向かって歩き始めた。




