第14章 私は、あなたが好き
芳美先輩と距離を置いて、一週間が過ぎた。
生徒会では普通に話した。
必要なことは言える。
でも、どうでもいいことを話さなくなった。
それだけで、前までどれほど先輩と話していたのかが分かった。
嫌いになったわけではない。
まだ好きだった。
だからこそ、始まりに春美さんがいたことを、簡単になかったことにはできなかった。
放課後、生徒会室へ入る。
「お疲れさまです」
「お疲れさま」
芳美先輩はいつも通りに見えた。
でも、この一週間で少し変わった。
仕事を紗季先輩へ頼んだ。
先生から渡された資料に、
「締切はいつですか」
と聞いた。
今日中でなくていいと分かると、そのまま机の端へ置いた。
以前なら全部、自分で、すぐにやっていた。
小さな変化だった。
でも私は気づいた。
ずっと見てきたから。
会議が終わり、みんなが帰り支度を始める。
私も鞄を持った。
「真夏ちゃん」
呼ばれて、足が止まる。
「少し、いい?」
振り返る。
先輩は緊張していた。
「……はい」
千景先輩たちは何も言わずに出ていった。
扉が閉まる。
二人きりになった。
芳美先輩はしばらく黙っていた。
それから、
「もう一度、話したい」
と言った。
「この前は、自分でも何が本当なのか分からないまま話したから」
「はい」
「でも今は、少し分かった」
先輩は私を見る。
「最初に真夏ちゃんへ声をかけたのは、お姉ちゃんを思い出したから」
胸が痛んだ。
でも、目は逸らさなかった。
「うん」
「笑った顔を見て、似てると思った」
「……はい」
「だから気になった。それは変えられない」
「はい」
「始まりを、きれいな話にするつもりもない」
先輩の声は震えていた。
「真夏ちゃんを傷つけたことも」
「うん」
「ごめんなさい」
私は少し考えてから言った。
「私も、なかったことにしてほしいわけじゃないです」
先輩が顔を上げる。
「春美さんに似てたから声をかけた。それは、もういいです」
「……いいの?」
「よくはないです」
「え」
「傷ついたし」
「うん」
「たぶん、しばらくは思い出します」
「……うん」
「でも」
私は先輩を見る。
「それだけだったのかどうかが知りたい」
先輩はすぐに答えた。
「違う」
「本当に?」
「うん」
今度は迷わなかった。
「私は真夏ちゃんを知った」
先輩が一つずつ言う。
「負けず嫌いで」
「はい」
「考える前に動いて」
「それ悪口?」
「最後まで聞いて」
「はい」
「人が大丈夫って言ってるのに、全然信じなくて」
「それは先輩が信用ないから」
「ほら、そういうところ」
少し笑った。
「お姉ちゃんとは違う」
私は黙る。
「真夏ちゃんは、私が嫌がることを言った」
『何が大丈夫なんですか』
『手伝ってって言ってください』
『先輩は何が好きなんですか』
いくつも思い出す。
「ずっと、お姉ちゃんだったらどうするかだけで生きてきた」
「はい」
「自分で選ばなくてよかったから」
先輩が自分の手を見る。
「でも真夏ちゃんが、私に選ばせた」
「苺とか?」
「それも」
「薄い青とか」
「うん」
「大したものじゃないですね」
「私には大したことだった」
先輩は笑わなかった。
「お姉ちゃんが好きだったものじゃなくて、私が好きなものを聞かれたの、ずっと久しぶりだったから」
胸が熱くなる。
「私、この一週間ずっと考えてた」
「何を」
「真夏ちゃんのどこがお姉ちゃんに似ていて、どこが違うのか」
「はい」
「途中で、どうでもよくなった」
「え」
「だって」
先輩が少し泣きそうな顔で笑った。
「私が好きなのは、似てるところを集めた真夏ちゃんじゃなかった」
心臓が大きく鳴った。
「困ったときにすぐ顔に出るところも」
「そんな出てます?」
「出てる」
「……はい」
「陸上の話をするときだけ、今でも少し声が変わるところも」
私は息を止めた。
「走れなくなっても、陸上を嫌いになろうとしないところも」
「それは」
「好きだったものを、好きだったまま持ってるところ」
先輩の声が静かになる。
「私は、それができなかった」
「春美さん?」
「うん」
目に涙が浮かぶ。
「お姉ちゃんを好きだったまま、自分で生きればよかった」
「……はい」
「でも私は、お姉ちゃんを好きだから、お姉ちゃんにならなきゃいけないと思った」
先輩が涙を拭った。
「もう、それはやめたい」
私は何も言わず待った。
「お姉ちゃんは今も好き」
「はい」
「たぶん一生」
「それでいいじゃないですか」
「うん」
「私も陸上、今でも好きです」
「うん」
「たぶん一生」
先輩の口元が緩んだ。
「同じだね」
「全然違いますけど」
「そこは合わせてよ」
「でも」
私も笑った。
「なくしたからって、嫌いになる必要はないところは同じかも」
「うん」
戻らないものはある。
私はもう、競技として短距離を走れない。
春美さんも戻ってこない。
それでも、それまで好きだった時間まで捨てる必要はない。
失ったものを抱えたまま、別のものを好きになっていい。
先輩が私を見る。
「真夏ちゃん」
「はい」
「私、真夏ちゃんが好き」
前には、そのあとに「でも」があった。
今日はなかった。
「お姉ちゃんじゃない」
先輩は言う。
「誰かの代わりじゃない」
声が震える。
「真夏ちゃんが好き」
私は目元が熱くなるのを感じた。
「……返事、遅いです」
「ごめん」
「謝らないで」
「難しいなあ」
先輩が泣きながら笑った。
私は一歩近づいた。
「私も」
言う。
「芳美先輩が好きです」
「うん」
「完璧な生徒会長だからじゃないです」
「うん」
「苦いコーヒー、無理して飲むところも」
「まだ言うの?」
「疲れると字がちょっと斜めになるところも」
「そんなところまで」
「困った顔も。怒るところも。泣くところも」
先輩の目から涙が落ちた。
「大丈夫じゃないところも」
「……うん」
「春美さんじゃなくて」
私は、はっきり言った。
「芳美先輩が好きです」
先輩はしばらく何も言えなかった。
それから、小さく笑った。
「ありがとう」
私は手を差し出した。
先輩がその手を見る。
「帰りません?」
「うん」
先輩が手を重ねる。
指が触れた。
少し迷ってから、握った。
「先輩」
「なに?」
「これからは、自分で決めてくださいね」
「何を?」
「好きなものとか。やりたいこととか」
「……難しいな」
「ゆっくりでいいです」
「真夏ちゃんも」
「何がですか」
「走りたくなったら、走りたいって言って」
胸が少し痛んだ。
でも、前ほど嫌な痛みではなかった。
「はい」
「つらかったら?」
「つらいって言います」
「私もそうする」
「大丈夫って?」
「言わないようにする」
「よし」
生徒会室を出る。
いつもの廊下。
いつもの階段。
でも、今日は少し違った。
手はまだ繋いだままだった。
昇降口の手前で、先輩が言う。
「真夏ちゃん」
「はい」
「私と、付き合ってくれる?」
私は先輩を見る。
ずっと見てきた顔だった。
完璧な生徒会長の笑顔。
何もない顔。
困った顔。
泣いた顔。
そして今。
答えを待って、不安そうにしている顔。
「はい」
迷わなかった。
「よろしくお願いします」
先輩が笑った。
その笑顔は。
もう、誰かに似ているかなんて考えなかった。
高寺芳美の笑顔だった。




