エピローグ 私が選ぶもの
春になった。
私が二年生になり、高寺先輩は三年生になった。
千景先輩は卒業した。生徒会室の席も少し変わったのに、不思議と部屋そのものは前と同じに見える。
「真夏、これ」
凛が会計資料を差し出した。
「はいはい」
「返事が雑」
「ちゃんとやるからいいでしょ」
「そこが雑って言ってる」
去年と変わらないやり取りをしていると、向こうの机から笑い声が聞こえた。
「二人とも仲いいね」
高寺先輩だった。
「どこを見てそう思ったんですか」
「毎日同じことで喧嘩してるところ」
「会長、仕事してください」
「してるよ」
そう言いながら、先輩は机の上の資料を一枚持ち上げる。
その横には、明日に回す、と薄い青色の付箋が貼ってあった。
私はそれを見るたび、少し嬉しくなる。
先輩は今でも忙しい。頼まれれば、つい引き受けすぎる。大丈夫、と言いかけて私に睨まれることもある。
でも最近は、そのあとで言い直す。
『ちょっと疲れた』
『今日は無理』
『手伝って』
たったそれだけの言葉を、前よりちゃんと言えるようになった。
私も、全部平気になったわけではない。
春のグラウンドを見れば、今でも走りたくなる。スタートの合図を聞けば、右脚より先に身体が反応する。記録会のポスターを見て、少し遠回りして帰った日もあった。
そんな日は先輩に言う。
「今日、ちょっと走りたかったです」
先輩は決まって、
「そっか」
とだけ答える。
それでいい。
放課後。
紗季先輩と凛が先に帰り、生徒会室に二人だけになった。
「先輩」
「なに?」
「これ」
机の上に、小さな箱を二つ置く。
購買で見つけた焼き菓子だった。苺のものと、チョコレートのもの。
「また甘いもの?」
「嫌なら私が食べます」
「嫌とは言ってない」
先輩が箱を見比べる。
「どっちがいいですか」
少し前までなら、たぶん。
『真夏ちゃんの好きなほうでいいよ』
そう答えたと思う。
先輩は二つの箱を見たまま、少し考えた。
私は急かさず待つ。
やがて先輩の指が、片方へ伸びた。
「私は、こっちがいい」
苺だった。
「やっぱり苺じゃないですか」
「好きなんだから仕方ないでしょう」
「認めた」
「もう認めてるよ」
先輩が笑った。
私はチョコレートの箱を取る。
「じゃあ半分交換します?」
「真夏ちゃん、そっちも食べたいだけでしょう」
「ばれた」
「分かりやすいから」
箱を開ける。
誰もいない生徒会室に、甘い匂いが広がった。
窓の外では、陸上部の掛け声が聞こえる。
私は一度だけそちらを見た。
胸が少し痛んだ。
でも、目を逸らさなかった。
「真夏ちゃん」
「はい」
「こっち、おいしい」
振り返る。
高寺先輩が、苺の焼き菓子を半分こちらへ差し出していた。
「一口くれるんじゃないんですか」
「半分」
「太っ腹」
「真夏ちゃんのも半分」
「交換条件じゃん」
笑いながら受け取った。
なくしたものは、なくなったままだ。
それでも、今ここにあるものまで手放す必要はない。
「先輩」
「なに?」
「今日、一緒に帰ります?」
高寺先輩は少し笑った。
「うん。一緒に帰りたい」
その答えに、もう迷いはなかった。




