↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
14/16

第13章 高寺芳美

 真夏ちゃんが生徒会室を出ていったあと、私はしばらく動けなかった。

 扉が閉まった音だけが、やけに大きく残っていた。

 机の向こうには、さっきまで真夏ちゃんが座っていた椅子が、わずかに引かれたまま残っている。

 机の上には、彼女が触っていた資料が残っている。

 ほんの数分前まで、ここにいた。

 なのに、ずっと遠くへ行ってしまったような気がした。

「……私じゃなくてもよかったんですね」

 最後に聞いた声が、何度も頭の中で繰り返される。

 違う。

 そう言いたかった。

 今は違う。

 真夏ちゃんだから好きなんだと。

 でも、私は言えなかった。

 最初は。

 最初だけは、本当に違ったから。

 私は机の上で手を握った。

 あの日のことを思い出す。

 入学して間もないころ。


 放課後のグラウンド。

 怪我をした一年生が、陸上部の練習を遠くから見ていた。

 真夏ちゃんのことは、その前から知っていた。

 中学で全国大会に出た短距離選手。

 一年生ながら陸上部で期待されている子。

 そして、入学してすぐに大きな怪我をした子。

 生徒会にいれば、部活動に関する話は自然と耳に入る。

 だから名前も知っていた。

 でも、声をかけようと思ったのは、それが理由ではなかった。

 石段に座っていた真夏ちゃんが、通りかかった同級生に声をかけられた。

 何か短く話して。

 最後に、少し笑った。

 その顔を見た瞬間。

 息が止まった。

 お姉ちゃん。

 本当に、そう思った。

 顔そのものは違う。

 髪も違う。

 目も違う。

 声も違う。

 それなのに、笑った瞬間だけ。

 目尻が少し下がって。

 相手の顔をまっすぐ見て。

 ほんの少し首を傾ける。

 六年前まで、何度も見ていた笑顔がそこにあった。

 頭では違うと分かっていた。

 高寺春美ではない。

 全然違う一年生。

 それでも、足が止まった。

 もう一度見たいと思った。

 声を聞きたいと思った。

 近くで話してみたいと思った。

 だから隣に座った。

 だから、生徒会室へ誘った。

「……最低」

 小さく呟いた。

 でも、その言葉にも違和感があった。

 真夏ちゃんに声をかけたことを後悔しているわけではない。

 あの日、声をかけなければよかったなんて思えない。

 もし声をかけていなかったら。

 真夏ちゃんは生徒会に来なかった。

 毎日会うこともなかった。

 体育祭の日、泣いている真夏ちゃんの隣に座ることもなかった。

 甘いパンを半分押しつけられることも。

 好きな食べ物をその場で考えさせられることも。

 疲れているなら休めと怒られることもなかった。

『大丈夫じゃない人が、大丈夫って言うの、嫌いです』

 あの言葉を思い出す。

 胸が痛んだ。

 真夏ちゃんだけだった。

 私の「大丈夫」を信じなかったのは。

 みんな、私を信頼してくれていた。

 先生も。

 生徒会のみんなも。

 クラスメイトも。

『高寺さんなら大丈夫』

『会長に任せれば安心』

 そう言われるたび、嬉しかった。

 私はちゃんとできている。

 お姉ちゃんの代わりを、ちゃんと務めている。

 そう思えたから。

 でも真夏ちゃんは、違った。

『疲れてます?』

『先輩、今日は帰ればいいじゃないですか』

『何が大丈夫なんですか』

 何度も邪魔をしてきた。

 私がちゃんとしていることを。

 私がお姉ちゃんでいることを。

 それなのに。

 嫌ではなかった。

 むしろ。

 嬉しかった。

 それが、ずっと分からなかった。

 私は椅子へ深く座り直した。

 昨日、私は真夏ちゃんに全部話した。

 雨の夜のこと。

 お姉ちゃんが死んだこと。

 そのあと、私が何を捨てて、どうやってお姉ちゃんになろうとしたのか。

 口にしてしまうと、六年間ずっと正しいと思っていたことが、急に異様なものに見えた。

 髪を切ったのも。

 好きなものを捨てたのも。

 笑い方を作ったのも。

 自分の字を捨てて、お姉ちゃんの筆跡を覚えたのも。

 全部、私がやったことだった。

 誰にも命令されていない。

 それなのに私は、それを「お姉ちゃんの人生」と呼んで、自分の選択ではないことにしていた。

 真夏ちゃんは言った。

『完璧じゃなくてもいいんです』

 お姉ちゃんも。

 私も。

 あのアルバムを思い出す。

 机に突っ伏したお姉ちゃん。

 遅刻しかけて走るお姉ちゃん。

 数学嫌い、と書いたお姉ちゃん。

 私は知っていたはずなのに。

 六年間、見ないことにしていた。

 時計を見る。

 もう帰らなければならない時間だった。

 私は立ち上がった。

 いつものように机を片づける。

 書類を揃える。

 ペンをしまう。

 窓を閉める。

 電気を消す。

 そこで。

「……真夏ちゃん」

 暗くなった生徒会室で、名前を呼んでみた。

 返事はない。

 胸が苦しくなった。


 翌日も、学校へ行った。

 いつも通り。

「おはよう、高寺さん」

「おはよう」

「昨日頼んだやつ、できた?」

「うん。あとで渡すね」

「早い。ありがとう」

「どういたしまして」

 笑う。

 普通にできた。

 授業も受けた。

 先生に当てられれば答えた。

 昼休みには委員会の相談を受けた。

 放課後になれば、生徒会室へ行った。

 千景先輩。

 紗季。

 凛ちゃん。

 そして。

「お疲れさまです」

 真夏ちゃんが入ってきた。

 胸が大きく鳴った。

「……お疲れさま」

 笑った。

 真夏ちゃんも、小さく笑った。

 でも、私の近くには来なかった。

 凛ちゃんの隣へ座った。

 それだけなのに。

 部屋の中に、見えない線を引かれたような気がした。

 今まで真夏ちゃんは、よく私のところへ来た。

 何か用事がなくても。

『先輩』

『これ見て』

『今日なんか疲れてません?』

 今日はない。

 私は仕事をした。

 集中すればいい。

 そうすれば余計なことを考えなくて済む。

「高寺」

「はい」

「それ、もう見たよね?」

 千景先輩の声。

「え?」

「その資料」

 手元を見る。

 同じページを何度も読んでいた。

「あ……」

「珍しいね」

「すみません」

「別に謝らなくていいけど」

 千景先輩が私を見る。

 そのあと、真夏ちゃんを見る。

「なんかあった?」

「何も」

 すぐに答えた。

 言った瞬間。

 真夏ちゃんの手が止まった。

 私は胸の奥を掴まれたような気がした。

 また。

 私は何もないことにした。

「そっか」

 千景先輩はそれ以上聞かなかった。

 生徒会が終わる。

 紗季が先に帰った。

 凛ちゃんも立ち上がる。

「真夏、行く?」

「うん」

 真夏ちゃんも鞄を持った。

 私は何も言えなかった。

 以前なら。

 一緒に帰ろう。

 そう言えた。

 今日は言えない。

「お疲れさまでした」

「お疲れさま」

 扉が閉まった。

 私は机へ視線を落とす。

「……高寺」

 千景先輩の声。

 顔を上げる。

 まだいた。

「帰らないんですか」

「今から帰るつもりだったけど」

 千景先輩は鞄を置き直した。

「やっぱやめた」

「どうして」

「会長がひどい顔してるから」

 反射的に笑った。

「大丈夫ですよ」

「それ」

 千景先輩が私を指さした。

「何です?」

「今の」

「大丈夫?」

「それ禁止」

 胸が痛んだ。

 同じだった。

 真夏ちゃんと。

「……最近、よく言われます」

「誰に」

「真夏ちゃん」

「なるほど」

 千景先輩が椅子へ座る。

「で?」

「何がですか」

「何があったの」

「少し、喧嘩しました」

「高寺が?」

「そんなに珍しいですか」

「珍しいよ」

「……そうですか」

「相手、真夏?」

 黙った。

 千景先輩が小さく息を吐いた。

「当たりか」

「はい」

「原因聞いていい?」

「私です」

「それは原因じゃない」

「でも」

「高寺」

 名前を呼ばれた。

 柔らかい声だった。

 私は目を伏せる。

 今までなら、ここで終わらせていた。

 自分の問題だから。

 人に迷惑をかける必要はない。

 私が考えればいい。

 そうしてきた。

 でも。

『じゃあ私に頼んでください』

 真夏ちゃんの声が浮かんだ。

 頼る。

 その言葉が、最近は前ほど怖くなくなっていた。

「千景先輩」

「うん」

「私が一年生で生徒会に入ったとき」

「うん」

「どう思いました?」

「どうって」

「正直に」

 千景先輩は少し考えた。

「変な一年生来たなって」

「……変?」

「入学してすぐ生徒会に来て、去年の資料全部見せてくださいって言った子だよ?」

「必要だと思ったので」

「普通そこまでしない」

「そうなんですか」

「そうだよ」

 少し笑う。

「でも、嬉しかった」

「どうして」

「やる気がすごかったから」

「……」

「私、もう一期会長やるつもりだったの覚えてる?」

「はい」

「結構やる気だったんだよ」

「知ってます」

「それでも高寺に譲った」

「どうしてですか」

「前にも言ったじゃん」

「もう一度聞きたいです」

 千景先輩が私を見た。

「高寺に会長やらせてみたいと思ったから」

「私に?」

「うん」

「どうして」

「この子ならちゃんとやるって思った。それに」

 少し笑った。

「楽しそうだった」

「……私が?」

「少なくとも私にはそう見えた」

 言葉に詰まった。

「生徒会のこと知りたがって、仕事覚えて。何でもやりますって」

「それは」

「何?」

「……やらなきゃいけなかったから」

「誰に言われたの」

「誰にも」

「じゃあ高寺が決めたんじゃない」

「違います」

 思わず強く言った。

「お姉ちゃんが」

 止まる。

 千景先輩の顔から笑みが消えた。

「春美さん?」

「はい」

「……そっか」

 驚いた様子はなかった。

「知ってたんですか」

「何となくは」

「どうして」

「同じ高校、同じ生徒会、会長まで同じなら、考えるよ」

「だったら、どうして会長を譲ったんですか」

「どうしてって」

「私がお姉ちゃんの真似をしてるだけかもしれないのに」

「それが何?」

 思っていなかった答えだった。

「何って」

「高寺が春美さんに憧れて生徒会に入ったとしても、それで何が変わるの」

「憧れじゃ」

「じゃあ理由がもっと重かったとしても」

 千景先輩は私を見る。

「生徒会に来たのは高寺でしょ」

「……」

「一年間仕事したのも高寺」

「でも」

「議事録全部読んだのも?」

「私です」

「先生に何度も質問しに行ったのも?」

「私」

「文化祭前、寝不足になるくらい仕事覚えたのも?」

「……私です」

「じゃあ私が見てたのは高寺じゃん」

 何も言えなかった。

「私は春美さんに会ったことない」

「はい」

「だから比べようもない」

「……」

「私がすごいと思ったのは、目の前にいた高寺」

 胸が熱くなった。

「会長を譲ったのも、高寺」

「でも」

「何」

「その高寺が、最初から全部誰かの真似だったら」

 声が震えた。

「それでも?」

「真似したら、そんなに簡単に何でもできるようになる?」

「……」

「私は無理だと思うけど」

 千景先輩が笑う。

「高寺は努力したんでしょ」

「しました」

「なら、それは高寺のものじゃないの」

 涙が落ちた。

 自分でも驚いた。

「あれ」

 千景先輩が少し慌てる。

「ごめん。泣かせるつもりじゃ」

「違います」

 私は涙を拭いた。

 でもまた出てくる。

「私」

「うん」

「お姉ちゃんじゃなくても、よかったんですか」

「会長?」

 頷く。

 千景先輩は、何を当たり前のことを聞くんだという顔をした。

「もちろん」

 たったそれだけだった。

 でも。

 その言葉を、私はずっと欲しかったのかもしれない。

「高寺」

「はい」

「真夏とのことは無理に話さなくていい」

「はい」

「でも一個だけ」

「何ですか」

「高寺はどうしたいの」

 また、その問いだった。

「分かりません」

「じゃあ考えればいい」

「それができないんです」

「なんで」

「今まで、考えたことないから」

 千景先輩は少し黙った。

「じゃあ初めてだね」

「初めて?」

「自分がどうしたいか考えるの」

 私は顔を上げた。

「最初から上手くできなくても普通じゃない?」

 そう言われると。

 少し、許された気がした。


 次の日。

 私は誰より早く生徒会室へ来た。

 会長席へ座る。

 机の上には今日の仕事。

 書類が三つ。

 いつもなら、全部今日中に終わらせる。

 私は一枚目を取った。

 今日締切。

 二枚目。

 明日でもいい。

 三枚目。

 来週。

「……今日は、一個」

 声に出してみる。

 変な感じがした。

 できるのに、やらない。

 今までなら許せなかった。

 でも。

 机の引き出しを開ける。

 薄い青色の付箋がある。

 真夏ちゃんに言われた。

『そればっかりなくなるから』

 私は一枚取った。

「青」

 好き。

 たぶん。

 いや。

「好き」

 もう一度言う。

 苺。

 好き。

 本を読むこと。

 好き。

 静かな時間も。

 静かな部屋も。

 甘いものも。

 たぶん、好き。

 そして。

 真夏ちゃん。

 名前を思い浮かべただけで、胸が痛くなった。

 好き。

 これは。

 春美の好きだったもの?

 違う。

 お姉ちゃんは、真夏ちゃんを知らない。

 私が知っている。

 怒ると少し口調が荒くなる。

 考えるより先に動く。

 資料整理は意外と丁寧なのに、自分の鞄は雑。

 陸上のことになると、今でも目が変わる。

 泣きたくないときほど笑う。

 私が大丈夫と言うと怒る。

 甘いものを渡すと、私の顔をじっと見る。

 全部。

 私が知った。

「……真夏ちゃんが好き」

 誰もいない部屋で、初めて口にした。

 お姉ちゃんじゃない。

 真夏ちゃん。

 そう思ったら。


 家へ帰って、お姉ちゃんの部屋へ行きたくなった。


 その夜。

 夕食のあと、私は二階の廊下の奥まで歩いた。

 扉の前で立ち止まる。

 お姉ちゃんの部屋。

 事故のあとも、部屋そのものは残っている。

 母が時々掃除している。

 私も何度も入った。

 特に中学生のころは、毎日のように。

 勉強するとき。

 迷ったとき。

 何かを選ぶとき。

 でも。

 真夏ちゃんと出会ってから、あまり来ていない。

 今さら、そのことに気づいた。

 扉を開ける。

「……お姉ちゃん」

 返事はない。

 机へ向かう。

 引き出しを開ける。

 古いノートを取り出した。

 高校二年生。

 数学。

 お姉ちゃんが、今の私と同じ年齢だったころのもの。

 何度も見たはずだった。

 私はページをめくる。

 途中に、赤いペンで大きく書いてあった。

 わからん。

「……え」

 次。

 眠い。

 次。

 数学嫌い。

 その横に、変な顔の落書き。

「こんなの……」

 知らない。

 いや。

 見ていたはずだ。

 でも覚えていない。

 さらにページをめくる。

 私は笑った。

 笑ったまま、涙が出た。

「こんな顔、描くんだ」

 思わず声が漏れた。

 学校の記録で、遅刻しかけたり仕事を忘れたりするお姉ちゃんは見た。

 でも、数学が嫌いだったことは知らなかった。

 自分の部屋に残っていたお姉ちゃんの文字でそれを知ると、もう逃げようがなかった。

 お姉ちゃんは完璧ではなかった。

 当たり前だ。

 高校生だった。

 数学が嫌いで。

 眠くて。

 甘いものが食べたくて。

 仕事を忘れることもあった。

 私は知っていたはずだった。

 でも事故のあと。

 私は、お姉ちゃんのそういうところを全部消した。

 完璧だったことにした。

 そのほうが都合がよかった。

 完璧な人が死んだ。

 駄目な私が生き残った。

 そうすれば。

 私はずっと自分を責めていられる。

 春美になる理由も失わない。

「私……」

 声が震えた。

「何してたんだろ」

 机の上に、小さな家族写真があった。

 小学生の私。

 高校生のお姉ちゃん。

 二人で並んで笑っている。

 写真のお姉ちゃんは、完璧な生徒会長には見えなかった。

 ただの姉だった。

 私の肩を抱いて。

 楽しそうに笑っている。

「お姉ちゃん」

 涙が止まらなかった。

「私、お姉ちゃんになろうとしてた」

 返事はない。

「お姉ちゃんのこと大好きだったのに」

 声が掠れる。

「大好きだったから、全部覚えてるつもりだったのに」

 違った。

 私は死んだ春美ばかり見ていた。

 事故の日の春美。

 私を庇った春美。

 完璧だった春美。

 その形に閉じ込めていた。

 生きていた春美を。

 普通に笑って。

 怒って。

 失敗して。

 妹を可愛がっていた人を。

 私は見ないようにしていた。

「……ごめん」

 写真を胸に抱いた。

「ごめん、お姉ちゃん」

 何に謝っているのか、自分でも全部は分からなかった。

 しばらく泣いた。


 翌朝。

 鏡を見ると、目が少し腫れていた。

 誤魔化せるかと思ったけれど、母にはすぐ気づかれた。

「芳美、どうしたの?」

「……昨日、泣いた」

 母の手が止まった。

 父も顔を上げる。

 今までの私なら、大丈夫、と言った。

 今日は言わなかった。

「お姉ちゃんの部屋にいた」

 食卓が静かになった。

 我が家では、いつのころからか春美の名前をあまり出さなくなった。

 誰かが決めたわけではない。

 ただ。

 父も母も私も、話せば痛かった。

 だから避けた。

「そう」

 母が小さく答える。

「うん」

 私は味噌汁の湯気を見つめた。

「お母さん」

「なに?」

「私、お姉ちゃんみたい?」

 母の顔が強張った。

「芳美」

「怒ってるんじゃない」

「……」

「聞きたいだけ」

 長い沈黙。

「似たところは、増えたと思う」

「やっぱり」

「でも」

 母の声が震えた。

「心配だった」

「え?」

「ずっと」

 私は母を見る。

「芳美が中学生になったころから」

「気づいてたの?」

「全部じゃないよ」

 母は首を振る。

「急に勉強するようになって」

「うん」

「急に、人前でよく笑うようになって」

「……うん」

「春美が好きだったものを選ぶことが増えて」

 私は何も言えなかった。

「でも私たち」

 母の目に涙が浮かぶ。

「病院にも連れていったし、カウンセラーとも話してた。学校にも戻れたから」

 声が揺れる。

「芳美が少しずつ立ち直ってるんだって、思いたかった」

「……」

「私も、お父さんも」

 父が静かに言った。

「春美を失ったことで、いっぱいいっぱいだった」

 俯く。

「大丈夫って言う芳美に、甘えた」

 その言葉が胸に刺さった。

 大丈夫。

 また。

「ごめんな」

「謝らないで」

「でも」

「私も言わなかったから」

 私は首を振った。

「何も」

 母が泣いた。

 私もまた涙が出た。

「芳美」

「うん」

「春美にならなくていいのよ」

 何度か聞いたことがあるような気がした。

 事故のあと。

 たぶん母も父も、似たことを言っていた。

 でもあのころの私は、聞けなかった。

 今は。

「……うん」

 小さく答えた。


 その日の放課後。

 私は生徒会室へ向かった。

 扉を開ける。

 真夏ちゃんは、もう来ていた。

 凛ちゃんの隣で資料を見ている。

 私を見る。

「お疲れさまです」

「お疲れさま」

 まだ。

 以前のようには話せない。

 私も怖い。

 真夏ちゃんも、きっと同じ。

 私は会長席へ向かった。

 机の上には仕事が三つ置いてある。

 一つを確認する。

 今日中。

 二つ目。

 明日でもいい。

 三つ目。

 来週。

 私は少し迷った。

「千景先輩」

「ん?」

「これ、明日に回してもいいですか」

 千景先輩が目を丸くする。

「もちろん」

「あと」

 別の書類を持ち上げる。

「紗季」

「なに?」

「これ、お願いしてもいい?」

「私が?」

「うん」

「珍し」

「嫌なら」

「いや、やるやる」

 紗季が受け取る。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 たった、それだけだった。

 仕事を明日に回した。

 誰かに頼んだ。

 そんなこと。

 他の人には何でもないのだと思う。

 でも私には、少し怖かった。

 ちゃんと全部やらなくても。

 この席にいていいのだろうか。

 誰かに任せても。

 必要としてもらえるのだろうか。

 ふと視線を感じた。

 真夏ちゃんが私を見ていた。

 目が合う。

 私は反射的に、いつもの笑顔を作りかけた。

 でも。

 やめた。

 少し困って。

 少し恥ずかしくて。

 そんなまま笑った。

 真夏ちゃんはしばらく私を見ていた。

 それから。

 ほんの少し、笑い返した。

 胸が温かくなった。

 まだ何も終わっていない。

 真夏ちゃんを傷つけた。

 私が最初に彼女の中へお姉ちゃんを見た事実も消えない。

 好きだと言えば全部許されるわけでもない。

 それでも。

 私は初めて。

 お姉ちゃんならどうするかではなく。

 高寺芳美はどうしたいのかを考え始めていた。

 答えは、まだほとんど分からない。

 でも一つだけ。

 もう分かっていることがある。

 私は。

 真夏ちゃんが好きだ。

 春美に似ているからではなく。

 春美とは違うところまで含めて。

 真夏ちゃんが好きだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。