第12章 完璧じゃなくても
先輩が話し終えたあと。
生徒会室は、しばらく何の音もしなかった。
私は何を言えばいいのか分からなかった。
六年前。
十一歳の女の子が、姉にひどいことを言った。
雨の中へ飛び出した。
姉が追いかけた。
事故が起きた。
そして。
そのあと六年かけて、自分を消した。
長かった髪を切って。
好きだったものを捨てて。
笑い方まで練習して。
春美さんが歩くはずだった道を、そのまま歩こうとした。
「私、本当は死ぬはずだった」
先輩が言った。
声はもう、ほとんど残っていなかった。
「違います」
私は答えた。
「真夏ちゃんには分からない」
「分かりません」
先輩が顔を上げる。
「じゃあ」
「でも、私は先輩に生きててほしい」
言葉だけが先に出た。
「今ここにいる先輩に」
「……」
「好きな人に、死ねばよかったなんて言われるの、嫌です」
先輩の顔が歪んだ。
「ごめん」
「謝らないで」
「でも」
「それも」
私は言った。
「すぐ謝るのも禁止」
先輩がほんの少し笑った。
泣いているのに。
その笑顔を見て、胸が痛くなった。
私は机越しに先輩の手へ触れた。
冷たかった。
振り払われなかった。
「先輩」
「うん」
「春美さんって、本当に完璧だったんですか」
先輩の指が少し強張った。
「……完璧だったよ」
「一度も失敗しなかった?」
「ほとんど」
「苦手なものも?」
「なかったと思う」
迷いがなかった。
それが。
逆に怖かった。
私は春美さんのことをほとんど知らない。
古い写真で見ただけ。
先生から少し聞いただけ。
それでも。
人間に、そんなことがあるのだろうか。
私は資料室の棚を思い出した。
「先輩」
「なに」
「少し待っててください」
「え?」
「すぐ戻ります」
生徒会室を出た。
資料室へ急ぐ。
走りかけて、右膝に力が入る直前で歩調を落とした。
こんなときまで。
身体は、走っていたころの癖を覚えている。
棚から春美さんの年度のアルバムを取り出した。
今まで何度も開いた。
でも。
見ていたのはいつも、目立つ写真ばかりだった。
壇上。
集合写真。
誰かに囲まれて笑っている姿。
生徒会室へ戻る。
「それ」
「春美さんのアルバムです」
先輩の表情が硬くなった。
「何するの」
「私も」
机の上へ置く。
「ちゃんと見たことなかったから」
二人で開いた。
最初に出てくる春美さんは、私が知っている春美さんだった。
生徒会長として前に立っている。
先生の隣にいる。
後輩へ笑いかけている。
「ほら」
先輩が言った。
「お姉ちゃんでしょう」
「……はい」
ページをめくる。
そのとき。
隅に貼られた小さな写真が目に入った。
「これ」
文化祭準備中。
何人かが机を囲んでいる。
その端で。
春美さんが、机に突っ伏していた。
写真の下に、誰かの字。
会長、仕事放棄中。
「……え」
私と先輩の声が重なった。
「これ、春美さん?」
「……お姉ちゃん」
先輩が写真へ顔を近づける。
「疲れてたんですかね」
「たぶん」
次のページ。
朝の校門の端。
鞄を抱えて走っている春美さん。
その横に。
またギリギリ。
「遅刻?」
「朝、弱かった」
「知ってたんですか」
「……うん」
でも。
さっき先輩は。
ほとんど失敗しなかったと言った。
さらにめくる。
生徒会の議事録が挟まっていた。
余白に書き込み。
会長、連絡忘れ。次は絶対。
その横に。
ごめん。
「これ」
先輩が指で文字をなぞる。
「お姉ちゃんの字」
私はページを見る。
春美さんは。
人に好かれて。
生徒会長で。
妹にとって憧れだった。
でも。
朝が弱くて。
仕事を忘れて。
疲れれば机に突っ伏して。
普通の高校生だった。
「先輩」
「うん」
「完璧じゃなくてもいいんです」
先輩が私を見る。
「春美さんも」
ページの中の春美さんを見る。
「先輩も」
「……」
「春美さんがすごい人だったことと、失敗したこと。両方、本当じゃないですか」
「でも」
「先輩が春美さんを大好きなことも」
私は続ける。
「春美さんになれないことも、両方本当でいいんです」
先輩の目から涙が落ちた。
「私」
声が震える。
「知ってた」
「……はい」
「朝弱いのも。甘いもの好きなのも」
アルバムを見る。
「でも、忘れてた」
「はい」
「違う」
首を振った。
「忘れたことにしたんだ」
涙が落ちる。
「お姉ちゃんが普通の人だったら」
先輩は言った。
「私が代わりになる理由がなくなるから」
その言葉で。
全部がつながった。
先輩は、春美さんを失って。
春美さんを完璧な人に作り替えた。
そして。
その完璧な人になるために。
高寺芳美を消した。
「先輩」
「うん」
「春美さんじゃなくてもいいんです」
私は言う。
「高寺芳美でいていいんです」
先輩が顔を覆った。
肩が震えた。
私はしばらく待った。
アルバムを閉じる。
これで全部が終わるわけではない。
六年かけて作ったものが。
一冊のアルバムと、私の一言で消えるはずがない。
そして。
私の中には。
まだ一つ。
どうしても聞かなければならないことが残っていた。
「先輩」
「……うん」
「私に最初に声をかけたとき」
先輩の肩が止まった。
「春美さんを見たんですか」
長い沈黙。
「……うん」
胸が痛んだ。
「笑った顔が?」
「うん」
「だから、気になった?」
「……うん」
何度聞いても。
答えは同じだった。
私は先輩の手から、自分の手を離した。
「じゃあ」
声が震える。
「私じゃなくてもよかったんですね」
「違う」
先輩が顔を上げた。
「今は違う」
「最初は?」
「……」
「先輩」
「最初は」
唇が震える。
「お姉ちゃんに似てるから、声をかけた」
聞きたかった。
聞きたくなかった。
「そっか」
「でも」
「分かりました」
「真夏ちゃん」
「今日は帰ります」
立ち上がった。
「待って」
「無理です」
「話を」
「今は無理」
先輩も立ち上がる。
私は一歩、後ろへ下がった。
その動きを見て。
先輩が止まった。
「ごめんなさい」
私は言った。
「先輩が悪いって言いたいんじゃないです」
「……」
「春美さんを思い出したことも」
「うん」
「声をかけたことも」
「うん」
「でも」
涙が出た。
「私、先輩に見つけてもらったと思ってたんです」
走れなくなった私。
何者でもなくなったと思っていた私。
陸上部を辞めて。
新品みたいなスパイクを鞄に入れて。
どこへ行けばいいのか分からなかった私。
「先輩だけが、走れない私を必要としてくれたと思ってた」
「必要だよ」
「今は、そうかもしれない」
「真夏ちゃん」
「でも」
息が苦しかった。
「始まりは、私じゃなかった」
先輩が何も言えなくなる。
「それが、今はつらいです」
鞄を持った。
「少し」
喉が震えた。
「先輩と離れたい」
「……分かった」
ものすごく小さな声だった。
扉へ向かう。
「真夏ちゃん」
振り返らなかった。
「好きって言ってくれたの」
先輩の声。
「嬉しかった」
足が止まった。
「本当に」
「……はい」
「それだけは、嘘じゃない」
「はい」
私は扉を開けた。
廊下へ出る。
閉める。
その瞬間。
足から力が抜けた。
壁に背中を預けた。
泣いた。
声を出さないように、口を押さえた。
私は先輩が好きだった。
今だって好きだ。
だからこそ。
春美さんの代わりにはなりたくなかった。
芳美先輩に見てほしかった。
走っていた私だけじゃない。
春美さんに似た私でもない。
ただの真夏を。




