第11章 春美になる
六年前。
私は小学五年生で、お姉ちゃんは高校二年生だった。
その日、家には親戚が来ていた。
『春美ちゃんは本当にしっかりしてるね』
『生徒会長までやってるんでしょう。すごいねえ』
『芳美ちゃんも、お姉ちゃんを見習わないと』
『同じ姉妹なのに、性格って違うもんだね』
いつものことだった。
小さいころから、何度も言われていた。
お姉ちゃんは明るくて、人と話すのが上手で、勉強もできた。
私は逆だった。
人前で話すのが苦手だった。
知らない人が来れば母の近くにいた。
勉強だって、頑張ってもすぐには結果が出なかった。
親戚は、別に私を傷つけようとしていたわけではない。
分かっている。
みんな、お姉ちゃんを褒めていただけだった。
ついでに、私にも頑張れと言っていただけだった。
お姉ちゃんは、そのたびに困った顔をした。
『芳美だってすごいよ』
『この前、図工で賞もらったんだよ』
そうやって、いつも私の話へ変えようとした。
その日も同じだった。
『春美ちゃんみたいなお姉ちゃんがいるんだから、芳美ちゃんも安心だね』
誰かがそう言って。
お姉ちゃんは笑った。
『芳美は芳美でいいんだよ』
優しい声だった。
私を庇ってくれていた。
そんなこと、本当は分かっていた。
でも。
その日は駄目だった。
芳美は芳美でいい。
私には、その言葉が。
何でもできるお姉ちゃんが、何もできない私を許しているように聞こえた。
自分は上にいるから。
自分は困っていないから。
だから私にも優しくできるのだと。
そんなふうにしか受け取れなかった。
親戚が帰ったあと、私は自分の部屋へ行こうとした。
窓に雨が当たっていた。
後ろから、お姉ちゃんが追ってきた。
『芳美』
『何』
『さっきのこと、怒ってる?』
『怒ってない』
『絶対怒ってるじゃん』
『放っといてよ』
放っておいてくれればよかった。
今なら、そう思う。
でもお姉ちゃんは放っておかなかった。
『私、何か嫌なこと言った?』
『言ってない』
『じゃあ何で怒ってるの』
『分かんないならいい』
『分かんないから聞いてるんだって』
私は振り返った。
お姉ちゃんは本当に困った顔をしていた。
本当に分かっていなかった。
それが、たまらなく腹立たしかった。
『今日の人たちのことなら気にしなくていいよ』
『そういうのが嫌なの』
『え?』
『お姉ちゃんには分かんないよ』
『分かりたいから聞いてるんだけど』
『分かるわけないじゃん!』
自分でも驚くほど大きな声が出た。
『お姉ちゃんは何でもできるから!』
『何でもなんてできないよ』
『できるじゃん! 勉強もできて、友達もいっぱいいて、生徒会長で、みんなお姉ちゃんばっかり褒めるじゃん!』
『芳美』
『私が何やっても、お姉ちゃんと比べられる!』
『私は比べてないよ』
『それが一番むかつく!』
本当は、お姉ちゃんに勝ちたかったわけじゃない。
お姉ちゃんが嫌いだったわけでもない。
ただ。
お姉ちゃんがいなければ、一度くらい私は私として見てもらえるのかな。
そんなことを、一瞬だけ考えた。
お姉ちゃんは黙った。
傷ついた顔をした。
それでも怒らなかった。
『ごめん』
そう言った。
『ごめんね、芳美』
何も悪くないのに。
謝った。
その瞬間、何かが切れた。
『謝らないでよ!』
『芳美』
『そういうのが嫌い!』
喉が痛くなるほど叫んだ。
『お姉ちゃんなんか嫌い!』
お姉ちゃんが動きを止めた。
今でも、その顔を覚えている。
驚いて。
それから。
ほんの少し、傷ついた顔。
そこでやめればよかった。
すぐに、ごめんと言えばよかった。
嫌いじゃない。
大好きだと。
言えばよかった。
でも私は止まれなかった。
『お姉ちゃんなんか、いなくなればいい!』
言った。
お姉ちゃんは何も返さなかった。
その沈黙が怖くなった。
私は玄関へ走った。
傘も取らなかった。
靴を履いて、雨の中へ飛び出した。
『芳美!』
すぐ後ろから声がした。
振り返らなかった。
泣いていた。
雨が顔に当たった。
どこまでが雨で、どこからが涙なのか分からなかった。
水たまりを踏んだ。
靴の中まで水が入った。
『芳美、待って!』
待たなかった。
お姉ちゃんは足が速かった。
すぐ追いつかれると思った。
だから、もっと走った。
追いつかれたら、謝らなければならない。
さっき言ったことを取り消さなければならない。
でもまだ怒っていたかった。
惨めな私を見られたくなかった。
『芳美! 危ないから止まって!』
それが。
お姉ちゃんの声として、最後にはっきり覚えている言葉だった。
雨音。
自分の息。
濡れた髪が頬に張りついていた。
曲がり角の先に道路があった。
いつも通る道だった。
普段なら左右を見る。
その日は見なかった。
道路へ出た。
白い光が見えた。
雨の向こうで、急に大きくなった。
そのあとで車の音に気づいた。
身体が動かなかった。
怖いと思うより先に。
『芳美!』
お姉ちゃんが来た。
後ろから肩を掴まれた。
強く押された。
私は濡れた地面に倒れた。
手をついた。
膝を擦った。
痛かったはずなのに。
覚えているのは、地面が冷たかったことだけ。
ブレーキの音がした。
大きな音がした。
振り返った。
道路に、お姉ちゃんがいた。
最初は分からなかった。
何が起きたのか。
立ち上がろうとして転んだ。
もう一度立った。
お姉ちゃんのところへ行こうとした。
知らない大人に止められた。
『行っちゃ駄目』
『お姉ちゃん!』
呼んだ。
何度も呼んだ。
返事はなかった。
『お姉ちゃん、ごめん』
『ごめんなさい』
『嫌いじゃない』
『さっきの嘘だから』
言えば戻ると思った。
あの言葉を取り消せば。
お姉ちゃんが起きて。
『分かった』
って言ってくれる気がした。
でも返事はなかった。
救急車の音。
赤い光。
誰かに毛布を掛けられたこと。
父と母が来たこと。
そのあとは、切れ切れにしか覚えていない。
病院で。
母が私を強く抱きしめた。
『芳美が無事でよかった』
何度も言った。
私は、その言葉の意味が分からなかった。
どうして。
お姉ちゃんはいない。
私はいる。
お姉ちゃんに「いなくなればいい」と言った私が。
お姉ちゃんに助けられて。
生きている。
逆でしょう。
そう思った。
助かるのは、お姉ちゃんだったはずだ。
私が道路に出た。
私を追って、お姉ちゃんが外へ出た。
私が「いなくなればいい」と言った。
その直後に。
本当に、お姉ちゃんはいなくなった。
だから。
私が殺した。
そう思った。
誰もそう言わなかった。
警察の人も。
先生も。
父も母も。
『芳美のせいじゃない』
『事故だった』
『春美も芳美が助かってよかったと思ってる』
みんな同じことを言った。
だから、余計に苦しかった。
誰も私を責めないなら。
私が責めるしかなかった。
葬儀の間も。
学校へ行けなくなったあとも。
同じことを考えた。
本当は私が死ぬはずだった。
お姉ちゃんが生きるはずだった。
なら。
私が生きているこの時間は。
本当は、お姉ちゃんのものなんじゃないか。
そう考えたら。
少し楽になった。
私が生き残った理由を作れたから。
お姉ちゃんの代わりに、生きればいい。
私は私でなくていい。
むしろ。
芳美なんて、いなくなればいい。
最初に消したのは、髪だった。
事故のころの私は、腰の近くまで髪を伸ばしていた。
長い髪が好きだった。
休みの日には母に編んでもらった。
髪留めを選ぶのも好きだった。
お姉ちゃんは、肩にかからないくらいの短い髪だった。
葬儀からしばらくした日の夕方。
母が買い物に出て、家には私一人だった。
洗面所の鏡の前に立った。
腰の近くまで伸びた髪を、両手でまとめる。
昔は好きだった。
母に編んでもらうのも。
髪留めを選ぶのも。
でも。
鏡の中の私は、お姉ちゃんと全然違った。
引き出しから鋏を出した。
少し手が震えた。
それでも止めなかった。
髪を一つにまとめて。
首のあたりで。
切った。
ざくっ、と。
思っていたより大きな音がした。
長い髪の束が、洗面台へ落ちた。
鏡を見る。
ひどい形だった。
左右も揃っていない。
お姉ちゃんみたいには見えなかった。
だから、もう一度切った。
少しずつ。
写真で覚えていた長さに近づけるように。
何度も鋏を入れた。
床に髪が落ちていった。
一束。
また一束。
私はずっと見ていた。
寂しくなかった。
むしろ安心した。
芳美だったものが、一つなくなった。
そう思った。
しばらくして、玄関の鍵が開く音がした。
母が帰ってきた。
「ただいま」
私は洗面所から出た。
母が買い物袋を持ったまま、私を見た。
そして、その場で立ち止まった。
何も言わなかった。
ただ、短くなった髪を見ていた。
「どう?」
私は聞いた。
母は答えなかった。
だから。
もう一度言った。
「ちゃんと」
自分の髪へ触れる。
「お姉ちゃんになれてるかな」
母の顔が歪んだ。
その場で、崩れるように膝をついた。
「やめて」
声が震えていた。
「お願いだから、やめて」
私は何も言わなかった。
母は泣いていた。
「芳美は芳美でいて」
「……」
「春美にならなくていい」
その言葉が。
嫌だった。
胸が強く痛んだ。
「どうして」
私は聞いた。
「お姉ちゃんのほうがよかったでしょう」
「違う」
母が首を振る。
「違うの」
「みんな、お姉ちゃんのほうが好きだった」
「そんなことない」
「だって、ずっと言ってた」
「誰が」
「みんな」
母が立ち上がって、私の肩へ手を伸ばした。
私は一歩下がった。
触られたくなかった。
今ここで抱きしめられたら。
また芳美に戻される気がした。
「芳美」
「私は」
声が震えた。
「お姉ちゃんにならないと駄目なの」
「そんなことない」
「ある」
「ないよ」
「ある!」
思ったより大きな声が出た。
母が泣きながら私を見る。
「私が生きてるから」
言ってしまった。
「お姉ちゃんが死んだのに」
「芳美」
「だから」
私は髪を握った。
短くなった髪。
お姉ちゃんと同じくらいの長さ。
「私がお姉ちゃんになればいい」
「お願い」
母はまた泣いた。
「お願いだから、そんなこと言わないで」
私は聞かなかった。
聞けなかった。
ここでやめたら。
お姉ちゃんが本当にいなくなる気がした。
私だけが残る気がした。
それが怖かった。
だから。
「ごめん」
そう言って。
自分の部屋へ戻った。
そのあと、父と母は何もしなかったわけではない。
学校を休むようになった私を小児科へ連れていき、何度かカウンセラーとも話をした。
『眠れてる?』
『自分を責めてない?』
『お姉さんのこと、話したくなったら話していいんだよ』
私はそのたびに、
『大丈夫です』
と答えた。
春美になろうとしていることだけは、誰にも話さなかった。
やがて学校へ戻り、以前より勉強するようになった私を見て、大人たちは少しずつ「立ち直っている」と思うようになった。
でも、私はやめなかった。
むしろ。
母があれだけ泣いたことで、もう戻ってはいけないと思った。
ここまでして。
やっぱり芳美に戻りますなんて。
そんなことは許されない気がした。
その日から。
もっと徹底的に、自分を消すようになった。
家へ帰ってから、自分の部屋を片づけた。
好きだった髪飾り。
集めていた小物。
明るい色の文房具。
自分で選んだ服。
お姉ちゃんが持たなそうなものを、箱に入れた。
『捨てなくてもいいんじゃない?』
母に言われた。
『もういらない』
私は答えた。
本当は、嫌いになったわけではない。
好きだった。
だから捨てた。
芳美が好きだったものを残したら。
芳美が残ってしまうから。
代わりに、お姉ちゃんの部屋へ入った。
机の引き出しを開けた。
シャープペン。
本。
参考書。
ノート。
お姉ちゃんが触っていたものを使った。
服まで着ようとして、母に止められたことがある。
『芳美、それは春美のだから』
胸が痛かった。
分かっている。
春美のものは春美のもの。
芳美のものは芳美のもの。
その境目をなくしたかった。
勉強の仕方を真似した。
どこに線を引くのか。
どうやってノートを取るのか。
どんな参考書を使っていたのか。
何時間、机に向かっていたのか。
字も変えた。
お姉ちゃんのノートを横に置いて、一文字ずつ真似した。
少し右上がりになる行。
細く長い「し」。
丸くならない「の」。
数字の書き方。
句読点を打つ位置。
筆圧まで近づけようとした。
最初は、私が書くとすぐに分かった。
だから毎日書いた。
学校のノートも。
宿題も。
家で書くメモも。
何度も書き直した。
自分の字が出ると、失敗したような気がした。
消して。
また、お姉ちゃんの字で書いた。
そのうち先生から、
『高寺、字変わったね』
と言われた。
『そうですか?』
笑って答えた。
嬉しかった。
自分でも、昔どんな字を書いていたのか思い出せなくなっていった。
それも、うまくいっている証拠だと思った。
私は勉強が得意ではなかった。
だから。
お姉ちゃんと同じくらいの点を取るために、お姉ちゃんより長く勉強した。
最初の定期テストは、思ったような点が取れなかった。
答案を破ろうとして、母に止められた。
『芳美は芳美のペースでいいのよ』
嫌だった。
芳美のペースなんていらなかった。
私はもっと勉強した。
次は上がった。
先生に褒められた。
母にも褒められた。
その瞬間だけ。
少し、お姉ちゃんに近づけた気がした。
人と話すことも練習した。
もともとの私は、人前が苦手だった。
一人で本を読んでいるほうが楽だった。
でも、お姉ちゃんは誰とでも話した。
相手の顔を見る。
最後まで話を聞く。
名前を覚える。
困っている人には声をかける。
頼まれたら断らない。
笑う。
家に人が来れば、自分から居間へ出るようにした。
学校では委員に立候補した。
休み時間に誘われれば、読みかけの本を閉じた。
何を話せばいいか分からないときは。
お姉ちゃんなら、どうする。
そう考えた。
鏡の前で笑った。
口角を上げる。
相手を見る。
声を少し明るくする。
何度も。
何度も。
最初は、自分の笑顔が気持ち悪かった。
私じゃないみたいだった。
だから。
そのまま続けた。
私じゃなくなるために。
名前も、そうだった。
中学に入ってから、私は人に下の名前で呼ばせなくなった。
『芳美って呼んでいい?』
そう聞かれても、
『高寺でいいよ』
と笑った。
それでも一度「芳美」と呼ばれれば、
『ごめん。下の名前で呼ばれるの、好きじゃないんだ』
と必ず直してもらった。
例外は作らなかった。
芳美、という音を誰かの口から聞くと。
昔の自分を呼び戻されるような気がした。
だから嫌だった。
高寺なら、お姉ちゃんと同じだった。
名字だけなら。
どちらなのか分からなくてよかった。
好きなものも言わなくなった。
『何食べたい?』
『なんでもいい』
『何色がいい?』
『どれでも』
『どこ行きたい?』
『みんなが行きたいところでいい』
選ばなければ。
芳美は出てこない。
嫌いなものも言わなかった。
苦くても飲んだ。
疲れていても頼まれればやった。
嫌でも笑った。
お姉ちゃんなら、どうする。
それだけで決めた。
中学三年になるころ。
『高寺ってしっかりしてるよね』
『何でもできるよね』
『誰とでも仲良くできるよね』
そう言われるようになった。
昔の私なら、一度も言われなかった言葉。
嬉しかった。
成功していると思った。
でも。
同時に怖かった。
一度でもやめたら。
また芳美に戻る。
だから、もっとやった。
成績を上げた。
人に頼られる役を引き受けた。
断らなかった。
失敗したら、家に帰って原因を書いた。
同じ失敗をしないようにした。
人前では困った顔をしないようにした。
笑った。
ずっと。
高校を選ぶときは、迷わなかった。
昔。
お姉ちゃんが学校案内を見せながら言ったことを覚えていた。
『ここ、お姉ちゃんがいた高校だよ』
だから。
私もそこへ行くことにした。
入学したら生徒会へ入る。
会長になる。
最初から決めた。
お姉ちゃんが二年生の終わりで途切れた、その先を。
私が歩けばいい。
卒業アルバムに残らなかったお姉ちゃんの代わりに。
私が卒業する。
お姉ちゃんが過ごすはずだった三年生を。
その先を。
私が生きる。
そうすれば。
お姉ちゃんの命を使って生きている私にも、意味があると思った。
高校の入学式の朝。
制服を着て、鏡の前に立った。
短い髪。
整えた制服。
何度も練習した笑顔。
昔の私なら選ばなかった鞄。
昔の私ならしなかった立ち方。
鏡の中の私は。
まだ、お姉ちゃんではなかった。
顔も違う。
声も違う。
当然だった。
それでも。
昔の芳美は、ほとんど残っていないように見えた。
嬉しかった。
これなら。
もっと続ければ。
いつか本当に。
高寺芳美はいなくなれる。
そう信じていた。
お姉ちゃんの代わりになれると。
本気で思っていた。




