第10章 私を見ていたの?
告白してしまった翌日、私は芳美先輩とまともに目を合わせられなかった。
朝からずっと、そのことばかり考えていた。
好きです。
先輩のこと、好きです。
思い出すたびに布団へ潜りたくなる。
あんな流れで言うつもりじゃなかった。
もっとちゃんとしたかった。
二人きりで。
できれば先輩が困っていないときに。
春美さんの話なんかしていないときに。
それなのに私は、先輩に食ってかかって、その勢いのまま告白した。
最悪だ。
「真夏、今日五回目」
昼休み、向かいに座っていた友達が言った。
「何が」
「ため息」
「そんなしてた?」
「してる」
「ごめん」
「何かあった?」
「……何も」
「絶対あるじゃん」
「ないって」
私は弁当の卵焼きを口に入れた。
味は分かる。
普通においしい。
でも、食べている感じがしなかった。
放課後になれば生徒会室へ行かなければならない。
芳美先輩がいる。
もちろん会いたい。
会いたくない。
どっちも本当だった。
帰ってしまおうか、と一瞬考えた。
でも生徒会の仕事がある。
それに、逃げるのは嫌だった。
私はいつもより少し遅れて生徒会室へ向かった。
扉の前で一度立ち止まる。
深呼吸。
ノックする。
「どうぞ」
芳美先輩の声だった。
心臓が跳ねる。
「失礼します」
扉を開ける。
「お疲れ」
千景先輩。
「お疲れさまです」
紗季先輩もいる。
凛もいる。
そして、芳美先輩。
「お疲れさま、真夏ちゃん」
「……お疲れさまです」
一瞬だけ目が合った。
先輩はいつものように笑っていた。
昨日のことなんて、何もなかったみたいに。
私は少し安心して。
同時に、少し傷ついた。
何を期待していたんだろう。
先輩が私を見て動揺すること?
昨日の告白を気にしている顔をすること?
自分勝手だと思う。
「真夏」
凛が小さな声で呼んだ。
「何」
「こっち」
机の端に置かれた資料を指す。
「文化祭会計の最終確認」
「私数字分かんないけど」
「照合するだけ」
「はいはい」
席に座る。
凛が横からじっと見てきた。
「なに」
「別に」
「その顔やめて」
「昨日、何かあった?」
小声だった。
「なんで」
「分かりやすい」
「何もない」
「嘘」
「今は聞かないで」
そう言うと、凛は少し驚いたあと、
「分かった」
とだけ答えた。
ありがたかった。
その日の芳美先輩は、本当にいつも通りだった。
先生が来れば笑って対応する。
紗季先輩のくだらない話にも笑う。
千景先輩と次の生徒総会について相談する。
私にも普通に仕事を頼む。
「真夏ちゃん、この名簿確認してもらっていい?」
「はい」
「ありがとう」
昨日、好きだと言った相手。
そう思うだけで、何でもない言葉が苦しくなる。
でも私は平気なふりをした。
たぶん先輩も、平気なふりをしていた。
そう思いたかった。
生徒会が終わるころ、千景先輩が立ち上がった。
「じゃ、今日はここまででいいね」
「はい」
芳美先輩が答える。
「高寺も帰りなよ」
「帰ります」
「ほんとに?」
「今日はちゃんと」
「真夏、監視よろしく」
「なんで私」
「適任だから」
「千景先輩」
芳美先輩が困ったように笑う。
「冗談冗談」
みんなが帰り支度を始める。
私は急いで鞄へ物を入れた。
今日は一人で帰ろう。
先輩と二人になるのは、まだ無理だ。
「真夏ちゃん」
呼ばれた。
身体が止まる。
「……はい」
「少し、いい?」
芳美先輩が私を見ていた。
逃げられない。
「はい」
千景先輩たちが出ていく。
凛だけが私をちらりと見た。
私は小さく頷いた。
大丈夫。
そう言いそうになって、やめた。
大丈夫じゃない。
でも、残る。
扉が閉まる。
二人きりになった。
昨日までなら、嬉しかった時間。
今は静かすぎる。
「昨日のこと」
先輩が言った。
「はい」
「ちゃんと話したい」
「……はい」
私たちは向かい合わせに座った。
先輩は机の上で手を組んでいる。
いつもより少し指先に力が入っていた。
「真夏ちゃんが言ってくれたこと」
「忘れてくださいって言ったら、忘れます?」
「無理だと思う」
「ですよね」
「うん」
少し笑う。
でも、すぐ静かになった。
「嬉しかった」
先輩が言った。
私は顔を上げた。
「……嬉しかった?」
「うん」
胸が跳ねる。
でも次の言葉を待つのが怖かった。
「でも」
やっぱり来た。
「今の私には、答えていいのか分からない」
「どういう意味ですか」
先輩は黙った。
「私のこと嫌いなら、そう言ってください」
「違う」
即答だった。
「じゃあ」
「真夏ちゃんのことは好き」
息が止まった。
先輩は私を見ていなかった。
「好きだよ」
もう一度言う。
「一緒にいると楽しいし、真夏ちゃんが来ると嬉しい。話したいって思う」
「だったら」
「でも」
先輩の声が震えた。
「それが、本当に真夏ちゃんに向いてる気持ちなのか、分からない」
胸が冷えた。
嫌な予感がした。
「……春美さん?」
先輩の肩が小さく揺れる。
答えだった。
「やっぱり」
「真夏ちゃん」
「私が似てるから?」
「それだけじゃない」
「でも関係あるんですよね」
「……ある」
私は机の下で手を握った。
聞きたくない。
でも。
もう逃げたくなかった。
「最初に会ったとき、私に声をかけたのも?」
先輩は答えなかった。
その沈黙だけで、もう分かってしまった。
「春美さんに似てたから?」
逃げ道をなくすみたいに、私は聞いた。
先輩の唇が震えた。
「……うん」
たった一言だった。
それなのに、胸の奥で何かが落ちた。
「そっか」
「真夏ちゃん、でも今は違う」
「今は、ってことは、最初は違ったんですよね」
「……うん」
責めたいわけじゃない。姉を思い出したことまで悪いとは思わない。
それでも痛かった。
「私」
声が小さくなる。
「先輩に生徒会誘われたとき、嬉しかったんです」
「……うん」
「走れなくなって、何もなくなって」
体育祭の日のことを思い出す。
グラウンドを見ながら座っていた私。
隣に来た先輩。
「みんな、私のこと心配してくれました」
「うん」
「優しかった」
「うん」
「でも、必要としてくれたのは先輩だった」
涙が出そうになる。
嫌だった。
今日は泣きたくない。
「真夏ちゃんがいてくれると助かるって」
「……言ったね」
「私、それが嬉しかった」
走れない私。
陸上選手じゃない私。
それでも、ここにいていい。
そう思えた。
「私だから必要としてくれたんだと思ってた」
「真夏ちゃん」
「でも違ったのかな」
「違わない」
「最初から?」
先輩は黙る。
また。
その沈黙が、一番痛かった。
「……最初は」
先輩が言う。
「お姉ちゃんに似てた」
私は俯いた。
「真夏ちゃんが笑ったとき、びっくりした」
「……はい」
「本当に、一瞬、お姉ちゃんがいるみたいに見えた」
聞きたくない。
でも耳を塞げなかった。
「だから気になった」
「はい」
「もっと話したいって思った」
「春美さんと?」
「……たぶん」
先輩が苦しそうに言った。
「最初は」
涙が落ちた。
机に一滴。
私は慌てて拭った。
「ごめん」
「謝らないで」
「でも」
「先輩、悪いことしたと思ってるんですか」
「真夏ちゃんを傷つけた」
「そうじゃなくて」
私は顔を上げた。
「春美さんに似てると思ったこと」
「それは」
「悪いことじゃないでしょ」
「……うん」
「姉妹だったんだから、思い出すのは普通だと思います」
自分で言いながら苦しかった。
「ただ」
「うん」
「私は春美さんじゃない」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってる」
「だったら」
喉が詰まる。
「どうして先輩は、春美さんになってるんですか」
空気が止まった。
芳美先輩の顔が変わった。
驚き。
そのあと、恐怖に近いもの。
「……何を」
「先輩、春美さんと同じ高校に来た」
「それは」
「同じ生徒会に入った」
「真夏ちゃん」
「同じ会長になった」
「やめて」
初めて聞いた。
芳美先輩の、はっきりとした拒絶だった。
私は口を閉じる。
先輩の呼吸が少し荒い。
「……ごめんなさい」
言った。
でも先輩はしばらく黙っていた。
「誰から」
やがて聞く。
「え?」
「誰から聞いたの」
「何をですか」
「私がお姉ちゃんの真似してるって」
「誰からも」
「じゃあどうして」
「見てたから」
私は答えた。
「先輩のこと」
芳美先輩が私を見る。
「先輩、自分の好きなもの分からないでしょう」
「それは」
「何したいかも分からない」
「……」
「でも、人に頼られたら何でもできる」
「それがどうして」
「春美さんみたいだから」
私は続けた。
「春美さんって、本当に何でもできたんですか」
「できたよ」
反射みたいに返ってきた。
「勉強も?」
「できた」
「人付き合いも?」
「誰とでも仲良くできた」
「失敗とか」
「ほとんどしなかった」
迷いがない。
むしろ、私が問い返すこと自体を不思議に思っているようだった。
「真夏ちゃん」
「はい」
「何が言いたいの?」
「……分からないです」
「分からない?」
「私、春美さんのことほとんど知らないから」
「だったら」
「でも」
私は先輩を見る。
「先輩が話す春美さんって、欠けてるところが一つもないんです」
先輩の顔が強張った。
「何それ」
「悪く言いたいんじゃないです」
「私のお姉ちゃんだよ」
「分かってます」
「ずっと一緒にいた」
「はい」
「私が一番知ってる」
「……はい」
先輩の声が震えていた。
怒っている。
悲しんでいる。
その両方だった。
「お姉ちゃんは何でもできた」
先輩が言う。
「勉強もできた。友達もたくさんいた。みんなに好かれてた。誰にでも優しかった」
「先輩」
「私は違った」
急に声が小さくなった。
「勉強もできなかった」
私は何も言えなくなった。
「人と話すのも苦手だった。親戚が集まると、いつもお姉ちゃんと比べられた」
芳美先輩が笑った。
ひどく乾いた笑いだった。
「芳美ちゃんも春美ちゃんみたいになればいいのにって」
初めて聞く話だった。
「みんな悪気はなかったと思う」
「……はい」
「私も、お姉ちゃんが好きだったから」
先輩の目に涙が浮かんだ。
「大好きだった」
「はい」
「だから余計に、自分が嫌だった」
涙が一つ落ちる。
芳美先輩が泣くところを、私は初めて見た。
「お姉ちゃんみたいになりたかった」
「先輩」
「でも、なれなかった」
肩が震える。
「それなのに」
そこで止まった。
「……それなのに?」
私は静かに聞いた。
先輩は長いこと黙っていた。
やがて。
「私が、殺した」
意味が分からなかった。
「……え?」
「お姉ちゃん」
芳美先輩が言う。
「私が殺したの」
頭が追いつかなかった。
何かを聞き返そうとした。
でも、先輩は私を見ることなく、静かに息を吸った。
その顔を見て、私は何も言えなくなった。
しばらくして、芳美先輩は途切れ途切れに話し始めた。
六年前の、自分の話を。




