手料理に感動する陰キャモブ
二階堂奏の手づくり弁当。
俺がまごついているうちにも、『シュレディンガーの恋』に登場するヒロインの中では一番マイペースである二階堂奏は、さっさと弁当の入った包みを解き、中からきちんとした男物の弁当箱を取り出した。
「クロエちゃん、毎日零宮君にお弁当作ってあげてる、って聞いたから。零宮君は洋食が好きなんだよね?」
「えっ? あ、ああ、まぁ好きというかなんというか、昔はずっと入院しててロクなもの食べてなかったから割と何でも美味しく食べられるというか……」
「そう、ならよかったぁ。私、どっちかっていうと和食の方が得意だから。お口に合えばいいんだけどなぁ」
そう言いながら、二階堂奏が箸を差し出してきた。
俺が受け取って弁当の蓋を開けると、色とりどりの料理の数々が下から現れた。
「おっ、おお……」
思わず俺は驚嘆の唸り声を上げた。
三津島クロエがいつも作ってくれる弁当はどちらかと言えばカラフルでポップな感じだと思っているけれど、二階堂奏が作ってくれたという弁当は、なんというか、落ち着いていて高級感があった。
メインは大根おろしがかかったハンバーグ、人参や鶏肉が入った筑前煮、分厚く、金色の輝きを放つだし巻き卵、マッシュポテトのサラダなど、色覚的にもバランスが取れており、ご飯には錦糸卵がぱらりとかけられている手の込みようだった。
どちらかと言えばシックで和風な印象の二階堂奏の弁当を目にした途端、猛然と、俺の腹の虫が騒ぎ始めた。
思わず、俺は二階堂奏の顔と弁当に視線を往復させた。
「おっ、おいおい……これ、本当に手作りなのか? 威張っておカネ取れるレベルだろ、こんなの」
「うふふ、褒めてくれてありがとう。私はお料理が趣味だから。今日は奮発しちゃったよ」
「こんなの、本当に食べさせてもらっちゃっていいのか? お礼にしても申し訳がないレベルだと思うんだけど……」
「もちろん。だって零宮君が私の相談に乗ってくれなかったら、私はなー君を諦めてたんだもの。遠慮しないでおあがり」
ニコリ。三津島クロエの弾けるような笑顔とは全く違う、凄まじい母性と包容力を感じさせる笑顔に、俺の脳髄の奥深くが甘く蕩けた。
遠慮と恐縮に凝り固まっていた身体から力が抜け、今すぐ「奏ママぁ……」などと甘えた声を上げて胸に飛び込みたくなるのをちょっと真剣に我慢して、俺はまずはだし巻き卵を頬張った。
口に入れた瞬間、濃厚な玉子の甘みと、俺の貧乏舌では解析しきれないほど複雑な出汁の風味が全身を駆け抜け、一瞬、舌がおかしくなったのかと思った。
神妙に神妙に、味わうことだけに集中して、俺は名残惜しく玉子を飲み込んだ。
「……美味い」
それしか、言葉にならなかった。
思わず、三津島クロエが作ってくれた唐揚げを食べた時と同等、いやそれ以上の感動と驚きが胸の中を駆け抜け、俺の心臓が不思議に熱を帯びる。
「凄いな……玉子焼きなのに、玉子焼きであるはずなのに、こんなにも複雑な味になれるもんなのか……。料理って凄いもんだな……」
「ふふっ、どうかな? 零宮君のお口に合いそう?」
「合うよ。口に合ってるどころか、何だか俺、クロエには申し訳ないんだけど、今初めて本当の玉子焼きを食べたって気がする……」
俺は次に、和風ハンバーグを箸で小さく切り分けて口に運んだ。
これも美味い、美味いとしかいいようがない。
オイリーでジューシーなものだとばかり思っていたハンバーグから溢れ出た肉汁が、大根おろしの辛味とポン酢のさっぱり感で見事に中和され、それどころか一層上品に絡み合い、口中に壮大なハーモニーを奏で始めた。
もはや感動という言葉でも足りず、アアアア……と空を仰いで感動してから、俺は猛然と、脇目もふらずに弁当をガッツくことにした。
会話する余裕も何もなく、ただただ弁当の中身を口に放り込むことだけに集中する俺を、二階堂奏は何がそんなに楽しいのか、ニコニコと微笑んで見ていた。
米のひと粒も残すまい、と思いながら箸を進めていた俺は、途中であれっ? と首を傾げた。
おかしいな、もう弁当が空になっているではないか。
もっと食べたい、もっと味わいたいのに、もうない――。
俺が激しい喪失感に震えると、はい、と二階堂奏が空の弁当を取り上げた。
「ふふ、お粗末様でした。零宮君、ちゃんとこの間のお礼になったかな?」
慈母の微笑みと共にそう訊ねられて、俺はぶんぶんと首を縦に振った。
「めっちゃ美味しかった、美味しかったです! お礼になったなった! むしろこんな結構なものを味あわせていただいてこちらこそありがとうな!」
「あはは、大袈裟だよぉ。とにかく、喜んでくれたならよかったぁ。いっぱい感謝を込めたからね」
「感謝だなんて、それこそ大袈裟だよ。……ああ、すげー元気出た。さっきまでクタクタのヘトヘトだったのに、なんか凄い喝が入ったよ」
それはお世辞でも大袈裟でもなく、さっきまでカラカラに干からびたドラウグルそのものだった俺の身体には今や生気が満ち、こころなしか肌艶までよくなった気がする。
医食同源――食べている、味わっているというよりは、傷ついた身体に薬を塗るような感覚だった二階堂奏の手料理は、見事に俺の身体を復活させてみせたのだった。
「うふふ、ちゃんとお礼になったようでよかった。なんだか懐かしいなぁ、昔はよくなー君も零宮君みたいに美味しい美味しいってお弁当食べててくれたから……」
ふと、そんなことを寂しそうにそう言って、二階堂奏は空を仰いだ。
おや? と俺は二階堂奏の横顔を見つめた。
「なんだか、高等部に進学してからは賑やかだったから。最初になー君が深雪ちゃんと知り合って、次にクロエちゃんとも仲良くなって。中等部まではなー君の隣りにいるのはずっと私だったけれど、高等部からはそうもいかなくなってねぇ」
なんでもない世間話をするような口調だったけれど、その口調には明確に、変わってしまった幼馴染としての関係を惜しむような響きがあった。
俺が黙って聞いていると、二階堂奏は俺が食べた弁当の包みに視線を落とした。
「私、深雪ちゃんみたいに頭もよくないし、クロエちゃんみたいに人気者でもなかったから。ただただなー君と幼馴染ってだけの関係性で隣にいただけ。いつからかな、なー君の方も私の手料理が食べたいって言ってくれなくなって……。だから今、零宮君が美味しい美味しいって料理を食べてくれたの、なんだか久しぶりで嬉しかったよ」
ニコリ、と、二階堂奏は「精一杯」という感じで笑った。
そうだ。原作でも、かつては幼馴染である二階堂奏にべったりだった主人公の八百原那由太は、いつしか一葉深雪、三津島クロエという他のヒロインの登場によって、二階堂奏との間に明確に男女としての一線を曳くようになっていた。
生まれてからこの方一緒にいたはずの妹分も、もはや気軽に触れることが出来ない、一人の年頃の女の子なのだと意識するようになってからは、八百原那由太と二階堂奏の関係性は常にどこかぎくしゃくとしていたものだった。
その不器用さ故、料理など壊滅的な腕前である一葉深雪に遠慮して、八百原那由太が二階堂奏に手料理を振る舞ってもらうことを躊躇うようになったシーンも、原作にはあった。
永遠に変わることなどないだろうと信じていた自分たちの関係が、いつしか取り返しがつかないほど決定的に変化していたことを憂うように、二階堂奏は小さくため息を吐いた。
思えば、このまま二階堂奏と八百原那由太が幼馴染のままで。
お互い、妙に意識することなく、ずっと幼馴染として隣にいられる未来があったなら。
ただなんとなく一緒にいて、なんとなく付き合って、なんとなく夫婦とかになって。
これまでと何も変わらず、ずっとお互いをパートナーとしていける未来があったなら。
今の二階堂奏はそんなことを想像しているのではないかという予想が俺の中に浮かんだ。
ぐっ、と、俺は蕩けきっていた表情に力を込めた。
「……そんな寂しそうな顔するなよ。まだ決着はわからない、そうだろ?」
俺の言葉に、二階堂奏が俺を見た。
「明後日の臨海学校、そこが勝負どころだ。俺もクロエも、頑張ってお前が八百原那由太と一緒に打ち上げ花火を見られるように努力する。だから二階堂奏、お前もまだ諦めちゃダメだぞ? 一葉深雪と正々堂々、戦うって決めたんだからさ」
俺の言葉に、二階堂奏が少しだけ元気が出たような表情で、うん、と頷いた。
数日後に迫った夏の臨海学校――原作ではトラブルの末、偶然一緒に見ることになった打ち上げ花火を、今度はしっかりとした意志と共に、一緒に見る。
そして、八百原那由太が一葉深雪、二階堂奏、どちらを選ぶかを問う……文字通り、一年越しの伏線回収となるイベントに、俺の方もなんだか気合が入る思いだった。
頑張ろう、と俺が人生初の決意に燃えている横で、不意に、二階堂奏が口を開いた。
「ところで、零宮君はクロエちゃんと打ち上げ花火見るんだよね? もう学年中の噂になってるよ?」
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