ボロボロになる陰キャモブ
「ハァハァ……くっ、たっ、ただいまぁっ……!」
駅から徒歩十分、という比較的素敵なはずの家の立地が、今夜ほど恨めしく思えたことはなかった。
俺はどうにかこうにか家のドアノブに取り付き、ドアを開いて玄関に倒れ込むと、玄関で俺を待ち受けていた妹のえるが目をまんまるに見開いた。
上がり框にどうにかこうにか尻を押しつけ、文字通りに戦い終わった後の兵士同然になって帰投した俺を、今までどこに隠していたものか、純白の看護婦の衣装に身を包んだえるが抱きかかえてくれた。
「おっ、お兄様お兄様! 予想はしてましたけど大丈夫ですか!? まだ初日なのにそんなにボロボロになって……!!」
「おっ、おぉ、ただいま、える。その看護婦のコスプレ、似合ってるじゃないか。お前にそんな趣味があったとはお兄ちゃん驚きだよ……」
「私のことはいいですから! それよりお兄様、しっかりしてください! 誰か! 誰か担架を――!」
「い、いいよそういう小芝居、どうせ担架なんか来ないんだろ? ……そっ、それよりえる、こっ、こっ、コップ一杯の水をもらえるか?」
「はっ、はい! ただいま――!」
言うなり、えるは抱きかかえた俺の上半身を床に捨て去って駆けていった。
ゴン、と俺の側頭部が床に墜落し、鈍い音を立てたけど、これも美しい孝悌故の痛みであろう。
俺がそのまま横倒しになっていると、純白のタイトスカートの隙間を危うく見せつけながら、えるがコップを持って帰ってきた。
妹の手ごとコップを握り、命そのものを補給するように喉を鳴らしてコップの水を一息に呷ると、ようやく気持ちが落ち着いてきた。
「あー、あーしんどかった……これでようやく人心地ついたぞ……」
「それでお兄様、まさか格闘技の師匠に、初日からそんなにボロボロになるほどの折檻を受けたんですか!? 人間的に大丈夫なんですかその人は!?」
えるが急き込んで問い詰めてきたのも無理はなかろう。俺だって逆の立場なら同じ質問をしたはずだ。
何しろその時の俺は頭から埃まみれで髪の毛がほつれ、ティッシュのこよりを両の鼻の穴に詰め込み、あまりの出血量故に顔は血の気を失って青ざめ、十歳以上も老けたような有り様になっていたからである。
あの後、事情など何も知らない三津島クロエそっちのけで数時間も行われた「特訓」のせいで、俺はまさしく太陽の神ニカになった後のルフィのようにシオシオになっていたのだ。
「いや、師匠はとってもいい人だったよ。ちょっと今のこれはお互い気分が盛り上がっちゃってハメを外しちゃっただけで……」
「なんなんですかその説明!? なんかちょっと如何わしい感じじゃないですか! もっ、もしかしてお兄様の師匠ってソッチの人なんじゃ……!」
「いいや、むしろ素敵な妻を献身的に愛してる素晴らしい人だったよ。……これは俺がはしゃぎすぎちゃっただけなんだ。師匠は悪くないんだ」
俺がよたよたというと、全くもう、と看護婦姿のえるが腰に手を当てて立ち、俺を見下ろした。
「まさか初日からそんなにズタボロにならないだろうと思っていましたけれど、この格好をしていて正解だったようですね。お兄様、忘れてるのかも知れませんけれど、お兄様は今日の今日まで運動なんかこれっぽっちもしたことがない、非リア充の陰キャだったんです。あまり急に動き回ったりして怪我なんかしたらどうするんですか」
何度もいうことだが、俺の妹は兄貴の欲目を差っ引いても可愛い子だ。
背中まで伸ばされた栗色の髪にはくっきりと天使の輪が浮いているし、口調以外はとてもか弱く、庇護欲を掻き立てるような外見をしている。
そんな可愛い子に看護婦の衣装で説教されると、気まずさ以上に何らかの興奮が芽生えてくるから不思議なものだ。
「というかそれよりも、お兄様はその師匠さんとどんな特訓をしていたのですか? 特に顔には殴られたりした跡がないのに鼻血だけは出てるというのは流石に不可解だと思うのですけれど……」
妹のえるが痛いところを突いてきた。
どんな特訓を、と問われた俺は、あのスケベに過ぎる奥義の内容、特訓内容をどう説明しようか迷った。
いやぁ、あれから二時間ほど受けた特訓の内容は、初日だというのに本当に凄かった。
頭から冷水を被ったり、バケツに溜めた小豆を手刀で突いたり、三津島クロエのグラビア映像を一緒にテレビで鑑賞して興奮したり――。
煩悩というものは秘めていることは簡単なのに、意識的に発露するとなるとあんなに大変なんだなとは思っても見なかった。
あの後、俺が師匠から受けた特訓の内容は文字通り筆舌に尽くしがたいものがあり、それと同時に、到底妹に向かって説明できる内容ではなく、結局、俺は意味深に視線を伏せる他なかった。
「……すまないが、師匠に教わっている技の内容は口外厳禁なんだ。たとえ妹のお前に対しても説明するわけにはいかない」
「ほほう、お兄様の分際でなかなか味のある煙の巻き方をするではないですか。口外厳禁の秘伝、ねぇ……特に殴られた痕跡があるわけでもないのにそんなに派手に鼻血を出しているところを見ると、もしやクロエさんとくんずほぐれつしながら好き勝手あの身体を触りまくるような内容だったのではないですかねぇ」
当たらずとも遠からずのことを言われた俺は、生まれて初めて己の身体から「ギクッ」という効果音が聞こえるのを聞いた気がした。
あの後、申し訳ないのだけれど三津島クロエには「師匠と大事な話がある」ということで先に帰ってもらい、後は男二人、好きなだけ煩悩を発散しまくったのだけれど、やはり女であるえるには何か察せられるものがあるのだろうか。
ゴホン、と咳払いをして、俺は表情筋を引き締めた。
「あのな、える。断じて言うが、お兄ちゃんはそんな下心があって格闘技を習おうとしてるわけじゃない。健全な精神は健全な肉体に宿る、それを実践しているだけであって……」
「はいはい、お題目はもういいです。とにかくお兄様、無茶はしすぎてはいけませんよ? 妹である私のお注射では治せない怪我を負わないようにしてくださいね?」
めっ、とばかりに、看護婦姿の愛らしい妹は、ティッシュのこよりが刺さったままの俺の鼻先に向かい、人差し指を立てて念を押した。
わかってる、と素直に頷いた俺は、そこでようやく立ち上がれそうな気配を感じ、玄関の壁に手をついて立ち上がり、シャワーを浴びるべくよろよろと歩き始めた。
とにかく、前世心臓病の重病人、生まれ変わってからは陰キャのぼっちだった俺の人生は、そこでようやく、人並みの熱量を持って動き出した。
三津島クロエという想い人、愛らしくも口汚い妹のえる、二階堂奏、一葉深雪という新しく出来た友、そして俺の肉体と精神とを鍛えてくれるマレンコフ師匠――。
一ヶ月前には影も形もなかった存在を短い期間に多く得ることになった俺の人生は、そこからめまぐるしい「進化」を遂げてゆくことになるのであった。
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