武装色の陰キャモブ
煩悩大爆発――。
ラテン語と英語が組み合わさった奇妙な単語であるが、それでもその奇妙さの中に、何かの剣呑さをも偲ばせる単語に思えた。
我知らず俺も表情筋を引き締めてマレンコフ師匠を見ると、フ、とマレンコフ師匠が相好を崩し、道着の裾から一枚の写真を取り出して示した。
そこにはTシャツにデニム姿のマレンコフ師匠が、デレデレの笑顔を浮かべながら、一人の白人女性をお姫様抱っこで抱え上げていた。
ひと目見て、美女と野獣、という言葉がピッタリの、派手で物凄くスタイルのよい、プクッとした顔立ちの金髪の美女である。
こんな美人がこのビスケット・オリバの妻? 俺が不審を満タンに貯めた目でマレンコフ師匠を見ると、いい女だろう? というようにマレンコフ師匠がスケベに笑った。
「もう一度、もう一度だけ妻と夜を共に過ごしたい――あの修羅場の中で、私の闘志を繋ぎ止めたのは煩悩だった。私は雄叫びを上げて引き金を引き、数少ない生き残りとともに戦場を離脱し、そして今がある。何発も被弾したが、不思議と痛みは感じなかった。いや……痛みを凌駕して、あの時の私は全身全霊で愛する妻に欲情していたのだ――」
再び遠い目で過ぎ去りし日の回顧を始めたマレンコフ師匠は、そこで写真を大事そうに懐に仕舞い、表情を引き締めた。
「よいか、零宮零士君。煩悩というものは極まるとどんな痛みや苦痛をも凌駕し、男の全身を鋼の硬度に変えてしまう。あの血と煙の中でそのことを悟った私は、その煩悩を克服することではなく、味方に、武器にすることにしたのだ。そして辿り着いたのがこの境地――溢れ出る煩悩を全身に身に纏い、硬化させ、武器にする――それがこの《煩悩大爆発》の極意なのだ」
要するに、全身を勃起させて硬くなる、ということか。なんて最低最悪な武装色の覇気なんだ――。
大真面目になされたその説明にゲンナリしつつも、その反面、俺は何故か素直に理解しもした。
俺が今、三津島クロエに感じているこのどうしようもない煩悩は、どんな修行や鍛錬を重ねたところで克服など出来やしないだろう。
克服できないならば、飼い慣らし、味方にして武器にする――それは俺がそこそこ読んできた格闘漫画の必殺技の理屈そのものだ。
内容は最低だけれども、確かに最低限納得することは出来る内容といえる……いや、いえるのか?
「君はもう、その素質に我流ながら目覚め始めている。それはおそらく、三津島クロエ君のおかげ――そうだろう?」
不意にそこで断定的な口調で問われ、俺は好きな人を言い当てられた小学生のように顔を赤くして首を振った。
「え!? あ、いやいやそんなそんな!! あっ、アイツとはまだ友達というか――!! まっ、ましてやそんな大切な友達に欲情してるだなんて……!」
俺が慌てて否定する言葉を吐くと、ふむ、と一声唸ったマレンコフ師匠が、部屋の隅にあった机から、一冊の雑誌を取り出してきて俺に見せつけた。
生前の俺もかつて購読していた、やたらとラブコメ漫画多めの週間漫画雑誌の表紙には、どこかの南国の海と砂浜を背にした、眩しい純白のビキニ姿の三津島クロエの姿があった。
普段間近で見ている、弾けるような笑顔とは違う、瑞々しくぷるっとした唇を突き出したセクシーな表情、そして相変わらずたわわとしかいえない胸に、俺は一瞬で心を奪われてしまった。
アイツ、いつもニコニコ笑ってるのに、撮影の時はこんなセクシーな顔もするんだなぁ……エッロ。
思わず俺が見惚れ、それと同時に俺の中の煩悩もムクムクと膨らみ始めた、その瞬間。
マレンコフ師匠がやおら傍らに置かれていたビール瓶を振り上げ、俺の頭に真っ直ぐ振り下ろした。
バチャッ!! と音がして、俺の脳天と激突したビール瓶が粉々に砕け散った。
驚いたことは驚いたけれど、俺の頭にはそれなりに受けた衝撃があるものの、痛みは全く感じなかった。
しかしだからって、いきなり人の頭をビール瓶でぶん殴るとは。大怪我したらどうすんだ――俺が呆然としていると、マレンコフ師匠が、ウーム、と唸って首を振った。
「……全く、信じられん。今のでわかっただろう。私が十五年かかって到達した真理に、君はもう達しかけているのだ。君は既にして己の内に暴れ狂う煩悩を武器にし始めている。覚えがあるのではないかね?」
そう言われて、俺は約一月前に巻き込まれた強姦未遂事件の際、主犯格の男に向かって放った頭突きを思い出して息を呑んだ。
あー……と曖昧に肯定した俺に、マレンコフ師匠が深く頷いた。
「やはりな。零宮零士君、はっきり言ってこれは非常に重要なことだ。君が三津島クロエ君の側におり、三津島クロエ君に穢れた欲望を覚えている限り、君は無敵の戦士であり続けられる――つまり、彼女をどんな困難からも守ることが出来るということだ。わかるかね?」
三津島クロエを守る。その一言に、俺の中にほっと火が灯った気がした。
そうだ。三津島クロエに守られるのではない、戦友として、彼女に心置きなく背中を預けてもらえる、俺はそんな屈強な存在になりたいんだ。
ぎゅっと拳を握り締めて、俺は決意の視線でマレンコフ師匠を見上げた。
「なんだかまだ俺にはよくわからないんですけど――師匠、マレンコフ師匠」
「なにかね?」
「俺、強くなりたいんです。大切な友達の、戦友であるクロエを守りたい。こんなヒョロくてタルタルの俺でも、そういうことが出来るようになれるなら――師匠、俺、どんな鍛錬にも耐えます。耐えてみせますから――」
そこで俺はがばっと上半身を折り、最敬礼で頼み込んだ。
「マレンコフ師匠、改めてお願いします。俺を鍛えてください」
数秒間、そのままでいると――不意に、俺の左肩に分厚く皮の張った手の感触が触れた。
顔を上げると、いかつい顔に満面の微笑みを湛えたマレンコフ師匠が、唇の隙間から白い歯を光らせた。
「Хорошо、素晴らしい決意だ。戦友を守りたい、か。それこそ偉大なる戦士になるためには最も必要な決意なのだ。鍛錬や修行なしにそう思える君はやはり特別な存在であるらしいな――」
強面をくしゃくしゃにしながら、マレンコフ師匠は俺の頭を掌でぐりぐりと撫でた。
三津島クロエがよく俺にやってくるこの頭を撫でる行為、どうやら遺伝元はこの師匠であるらしい。
おそらく、弟子が何かを会得する、出来るようになる度に、こんな風に褒めてきたのだろうと思わせる、手慣れた手つきだった。
「よし、零宮零士君。君の入塾を正式に認めよう。そして君が将来的に偉大なる戦士として彼女と共にいられるよう、君を徹底的に鍛える。いいな?」
「あっ、ありがとうございますッ!!」
俺が再び最敬礼でお辞儀すると、「ただし」という野太い声が後頭部に降ってきて、俺は顔を上げた。
てっきり月謝の話でもされるのかと思ったが、マレンコフ師匠は意外にも人差し指を立て、口元に添えてみせた。
「この秘技は一子相伝、口外無用だ。特に私の妻と三津島クロエ君には絶対に秘密だぞ。こんなスケベな格闘技を習っているなどと知れたら、もう口も利いてもらえなくなるからな。これは男と男の約束、大切な約束だぞ、いいな?」
おどけたようにそう言ったマレンコフ師匠に、わかっていますとも、と俺もスケベな笑いを返した。
しばらく、どこからもほんのりお父さんの臭いがする部屋に、男二人のスケベな笑い声がハミングした。
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