煩悩と戦う陰キャモブ
三津島クロエに一方的にやられた後、俺はマレンコフ師匠に断り、トイレに来ていた。
さして尿意もないのに用を足し、手を洗い、一緒に顔も洗い、道場の古ぼけた鏡で自分の顔を見た。
普通の顔、とい一言で片付けるよりはまぁまぁ整ってはいる方の顔立ちだとは思うけれど、起伏に乏しく、人並みに顔の筋肉が発達していないところは如何にも陰キャという感じだ。
生まれてから一度も染めたことがない黒髪は艶々というよりは重い印象だし、とても三津島クロエのような派手の塊みたいな人に気に入られる要素があるとは思えなかった。
こんな冴えない俺を、三津島クロエは好きだと言ってくれる。
何故に? ただフラれてヘコんでいるときに優しくしてあげたから?
ただそれだけで、日本全国の男の子の人気者である人が俺を好きになるのか?
そんなことがあっていいのか。有り得ていいことであるのか、わからない。
俺がそんな幸運な男であっていい理由ってなんだ? 前世が重病人だったことか?
いいや、重病人なんて世界にごまんといる。この世界にも、今も明日をも知れぬ身で闘病している人々だっているはずだ。
その人たちはみんな死んだ後にどこかに転生して、三津島クロエのような可愛い女の子に好かれる運命が用意されているのだろうか?
そんな馬鹿なことがあるはずがない、あるはずがないのに、俺だけがそんな特権的な運命を辿れている理由とはなんだ?
何度己の顔を見返してみても、その理由はわからなかった。
冴えない自分の顔を見ているうちに――性懲りもなく、また脳裏に三津島クロエの顔が浮かんでしまった。
笑っている顔、泣いている顔、怒っている顔……思えばこのたった一ヶ月ぐらいの間に、あの人の色んな表情を知ってしまった。
今をときめく現役JKグラビアクイーン、世界で一番いい女を自称する自信家、お友達が凄く多い人気者……。
その一方で、容姿以外の自分の人間的魅力を信じられず、その暴力的なメスを見せつけることでしか異性にアプローチできない、弱いところのある人。
その化けの皮が剥がれれば途端にひ弱な本性が露呈し、狼狽し、取り繕うと必死になって、落ち込み、しゃがんで泣き出してしまうような人。
どうしたって勝ちようがない運命をラブコメ世界の強制力という名の運命によって一方的に走らされ、散々道化を演じさせられた後、一方的に敗北を突きつけられた人。
一度好きになった後は歯止めが効かず、時折暴走してはとんでもないことをやらかし、後で正気になってショックを受けて泣きわめくような、途轍もなく重くて、面倒くさいともいえる人――。
そう考えているうちに、またもや心臓がドキドキと早鐘を打ち始めた。
もはや戸惑いよりも鬱陶しさが勝ち、俺は蛇口を全開にして水を出し、掌でごしごしと顔を洗った。
バシャバシャと、何度も何度も、心臓の音を無視するかのように水音を立てて。
それなのに――俺のドキドキはなかなか治まってはくれない。
いやむしろ、無視しようとすればするほど、頭の中に三津島クロエのいろんな表情が溢れ出してきて、心臓が高鳴ってしまう。
この間まであの人と一緒にいるときに感じていた、その心地よさに眠くなるほどの安心感とは真逆の、激しく神経を苛立たせ、かき乱すかのようなモヤモヤ感が、不快なことこの上なかった。
煩悩だ。これはきっと煩悩であるに違いない。
俺は煩悩までもが洗われ、流されていくことを期待して、何度も顔を擦った。
これはちょっと三津島クロエのおっぱいを意識しすぎておかしくなっているんだ。
素手で触ったり、グラビア写真を見せられたり、袈裟固めで埋もれそうになったりしたから、性欲が暴走しているんだ。
そうでなきゃこんなに心臓がドキドキするはずがない。全てが穢らわしい欲望でしかないんだ。
お前はこんな薄汚い欲望に塗れた状態で、あんなピカピカ輝いている人の隣にいるつもりなのか?
もっと近寄りたい、触りたい、ひとつになってしまいたい――そんな一方的な肉欲に怯えたまま、いつまであの人の側にいられる?
何度戒めても戒めても心臓の鼓動は治まらず、俺は道着の袖で顔をめちゃくちゃに拭い、トイレを出た。
道場に戻ると――三津島クロエがマレンコフ師匠に背中を押され、道場で柔軟運動の真っ最中だった。
三津島クロエは足を180°に開いたまま、べったりと上半身を畳に這いつくばらせている。
筋骨隆々の巨漢であるマレンコフ師匠、一部を除いてお人形さんのような容姿を持つ三津島クロエが共にトレーニングしている様はまさに美女と野獣という感じで、うわぁ、と俺はその絵面に舌を巻いた。
「うーん、最近ご無沙汰だったからちょっと硬くなったかもなぁ……あ、零宮おかえり!」
そう言って、畳の上の三津島クロエがニコリと、これ以上なく魅力的な笑みを浮かべた。
その弾けるような笑顔に、その笑顔を他でもない俺になんぞ向けてくれているのだという感動に、さっき水と一緒に洗い流したはずの煩悩がムクムクと膨らみ始め、また心臓が騒がしくなり始めた。
しばらくドキドキとしてしまってから――不意に、何もかもバカバカしく感じて、フゥ、と俺はため息を吐いた。
「あれ? 零宮、どうしたん? 怖い顔して――」
いい加減、もう疲れた。
三津島クロエが視界に入るたび、この人の笑顔が脳裏に浮かぶたび、おかしくなってしまう自分が――穢らわしいことこの上なかった。
この人ともっと近くに、もっと親密に、もっと一緒に――そんなことばかり考えている己の煩悩が憎らしかった。
この間、素手で触れた柔らかな感触、好き勝手に楽しんだ芳香――そんなことばかり思い出して、一人勝手に興奮している自分がバカバカしかった。
いい加減にしろ、煩悩。
俺はお前なんかに決して支配されないぞ。
お前がどれだけ俺の身体の中を這い回り、おかしくしようとしても、俺はお前なんかに負けたりしない。
俺はどうやらモルタル製であるらしい道場の壁の前に立ち、ハァ~……と、大きく大きく息を吐いた。
背後に、今から俺は一体何をするんだろうと見つめている三津島クロエとマレンコフ師匠の視線を感じた。
ちょっとだけ精神を統一するために瞑目してから――。
瞬間、俺は克と目を見開いた。
ふざけんな、俺を支配しようとする薄汚い煩悩め。
いくら俺をドキドキさせようとも、俺はお前なんかに負けないぞ。
そうだ、俺は負けたりしない。負けたら男が廃るだけだ。
いくらおっぱい揉まされたって、おっぱい押しつけられたって、負けない。
煩悩なんかに、肉欲なんかに、三津島クロエのおっぱいなんかに。
俺は、俺はおっぱいなんかに負けたりしない――!!
「出ていけェ―――――ッツ! 煩悩ォォォオオ―――――――ッツ!!」
そんな冴えない咆哮とともに、俺は道場の壁に己の額を叩きつけた。
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