ラッキースケベのお色気枠
その後、どうにかこうにか道着に着替えた俺は、道場の薄暗い廊下を歩いていた。
かつて重い心臓病で明日をも知れぬ身だった俺が、まさか格闘技なんて齧ることになるとは。
いくらこの間、ゴロツキどもに一方的にボコボコにされたことがトラウマになったとは言え、強くなりたい、などと、まさか自分の中にそんな思いが芽生えることになるとは思っていなかった。
ただ、今の俺は幸いにして健康体なのに、部活もしないで家と学校の往復をしているのだけは、嫌だった。
いつか息が切れるまで走り回れるようになる……生前はそんな些細な望みが人生の目標だったのに、いざそれが出来る身体になっても、その身体を漫然と腐らせておくことだけは、避けたかった。
どうせならこの弛んだ肉体をある程度引き締め、いざというときに何らか役に立つ身体に仕上げておきたい……そう思ったって誰も咎めまい。
俺はどうにかこうにか最低限の決意を固めて廊下を歩き、マレンコフ師匠がいたロビーに続くドアを開いた。
ガチャ、とドアを開いた先に。
こちらに背を向け、上半身裸の状態でなにかごそごそと作業をしている銀髪頭がいたのを見た俺は、数秒の間、驚いてその光景をまじまじと凝視してしまった。
中にいた人物は上半身裸になり、傍らのソファに巨大なブラジャーを放り捨てた状態で、その膨らみすぎた胸に必死になってサラシを巻き付ける作業の真っ最中であった。
「フンッ! ふんぬっ……!! ……ああもう、この時ばっかりは邪魔にしかならない脂肪の塊め……! 大人しく潰れろ、潰れろって……!!」
――これぞラブコメ漫画のお約束、ラッキースケベ。
令和の御代も長くなりつつある今、よもや自分がそんな時代遅れなイベントの当事者になると思っていなかった俺は、完全に油断していた己を呪った。
と、そのとき。背後に視線を感じたらしい三津島クロエが振り返った。
「ふんぬぅ、ぐぎぎ……! ……ん? あれ、零宮じゃん。もう着替えたん?」
ひゃー! と思わず素っ頓狂な悲鳴を上げて目を手で覆うと、あっ、と三津島クロエがなにかに気がついた表情になった。
「ああ、そういやこの道場、女子更衣室ないんだよね。だからいつも適当な場所で着替えてたんだけど……ごめんごめん、今日は零宮がいたんだった」
「だからって誰か来るかも知れないロビーで半裸になってサラシ巻くなよ! おっ、お前はいい加減に最低限の危機感と恥じらい持ってくれ! 今時こんな芸のないラッキースケベの被害者になっちまっただろうが……!」
「なぁによ、全裸じゃないし。ちゃんとサラシ巻いてるから水着と一緒よ。……どう、零宮? なんか時代劇に出てくる女剣士みたいでエロいでしょ?」
そんな言葉と同時に、クロエは前かがみになって膝に手を置き、ちゅ、とリップ音を響かせ、潰れた胸の谷間を俺に向かって誇示した。
流石は現役JKグラドル、こういうポーズは様になっていてサラシで潰されててもエロすぎる……じゃなくて。
「むっ、無理無理無理無理! 直視できない! たっ、頼むから早いとこ服を着てくれ……!」
あ、やっぱ無理。この人が視界に入ると、近くにいると、心臓がどうにも騒がしくて仕方がない。
全く、かつて心臓に莫大な障害を持ち、それ故にトラウマを持っていた俺には、全く二重の意味で心臓に悪いとしかいいようがないヒロインである。
俺の必死の懇願に、ケッ、脱ぎ甲斐のない男ね……などとわけのわからないことを吐き捨てた三津島クロエがごそごそと服を着る音と気配がして、俺はようやくほっとした。
「……よし、と。これで準備完了」
新品の道着に半ば着られている状態の俺とは違い、三津島クロエの道着はなかなかに使い込まれて黒ずんでおり、熟練した格闘家の風格を醸し出している。
制服姿ではない、水着姿でもない、また新たに知ることになった三津島クロエの新しい一面を見ていると……何故なのかまた性懲りもなく心臓が騒がしくなり始め、俺はちょっとだけ視線を逸らし気味にした。
「ん? なによその顔。零宮、またドキドキしてんの?」
「うっ、うるさいな……! 仕方ないだろ、自分でも理由がわからないんだし……!」
「うーん、なかなかに重症だなぁ、零宮のそれ。まぁ零宮は前世が前世だから尚更焦るんだろうけれどさ。今は健康体なんだからそんなにビビらなくてよくない?」
「そっ、そりゃ自分でも頭ではわかってるんだけど、どうしてもトラウマがな……」
「トラウマ、ねぇ……ま、前世の零宮はドキドキしたまま死んじゃったんだろうから、仕方ないっちゃ仕方ないんだろうけどね」
こんな状態に理解を示されるのが申し訳なかったけれど、心臓だけはどうやっても鍛えることもコントロールすることもできない。
俺が自分の変化にほとほと困っていると、ぬっ、と奥の方からビスケット・オリバが窮屈に身をかがめ、ロビーにやってきた。
マレンコフ師匠の道着は幾度の取り組みによってかボロボロに擦り切れており、筋肉ダルマとしかいいようがない本人の体型や体格も合わせると、にわかには近寄りがたいような存在感があった。
うおっ、と俺がその存在感と威圧感に密かに怯えていると、マレンコフ師匠が三津島クロエに何事か呟いた。
「……ふんふん、わかった。零宮、準備が終わったなら道場の方に行こう、だって」
「は、はい。よろしくお願いします……」
俺が頭を下げると、うむ、と一言唸ったマレンコフ師匠がのしのしと歩き始めた。
俺と三津島クロエも後に続くと、ロビーから続く細長い廊下の向こうに、一面に青畳が敷き詰められた道場が現れた。
その中央に静かに進み出て行ったマレンコフ師匠が、灰色の瞳で俺を見下ろした。
「零宮、最初も説明したけど、この道場では西洋とか東洋とか関係なく、世界のあらゆる格闘技が研究されてるの。師匠はまず塾生ひとりひとりの適性や能力を観察して、それから本人に一番向いてる格闘技を教えてくれる。だから適性が判明するまではちょっとしんどいかもだけど、頑張るんだよ?」
「適性、かぁ……俺、今まで運動とか全くやったことないのに、そんなもんあるのかな?」
「誰にでも適性や向き不向きはあるもんだよ。まぁ、私の場合は結構何でもイケちゃうタイプだから、特別に色々と師匠に仕込んでもらったんだけどね」
流石は芸能人、こういうところは常人を遥かに凌駕するポテンシャルを持っている、ということか。
俺が密かに三津島クロエというヒロインの能力に舌を巻いていると、マレンコフ師匠が何事かを呟いた。
「えっ、師匠、何? ……はいはい、わかった。零宮。まず零宮の基礎的な能力を見るために、私と試合してみよう、だって」
三津島クロエと試合。その一言に、俺は目を見開いて、とんでもないと恐縮した。
「えっ、えぇ……!? うっ、受け身とか基本的な動作も教わらないうちに試合!? そ、それはちょっと乱暴というか……!」
「ウチの道場は常に実戦っていうのがモットーなの。殴られなきゃ殴られたら痛いってわからないし、避け方もわからない。何より本人の適性を見るためにはいきなり実戦が一番なの。わかるでしょ?」
「わ、わからん! そうなの? としか言いようがないんだけど……!」
「大丈夫だよ、私だっていきなり何もわからない零宮を一方的にボコったりしないから。……ささ、肩の力抜いてよダーリン。私が手取り足取りして、ちゃんとリードしてあげるからさぁ……」
三津島クロエはそこで俺の肩に手を置き、やけに熱っぽい視線と口調で俺を誘惑した。
畜生、お前だってどうせ経験ないくせに、こういうシモいこと発言する様だけは一丁前だな……!
俺はちょっとの憤りと激しい興奮とを感じながら、畳の上に描かれた円の中心に、おどおどしながら進み出た。
俺が円の中心に立つと、三津島クロエも対面に立ち、帯をぎゅっと締め直した。
「よっしゃ、零宮。覚悟はいいかね?」
「う、うん……」
「よーし、じゃあ師匠、合図お願い」
どうすればいいかは皆目わからないけれど、俺はとりあえず少しだけ腰を落とし、全身の筋肉に力を込め、どんな一撃が来てもなるべく痛くないことを期した。
数秒だけ、ひりつくような空気が流れた瞬間――マレンコフ師匠が「Go!!」と合図を発した。
来る――俺が覚悟を決めるか決めないか、そのぐらいの間に。
ヒュッ、という音と共に目の前の三津島クロエの姿が視界から消失し――俺はぎょっと目を見開いた。
あ、あれ!? 消えた――!? 一瞬狼狽えた俺は、次の瞬間、俺の認知がゆき届かない視界の下から急激に伸び上がってくる影を発見し、ぎょっと目を見開いた。
瞬間、俺の顎をしたたかに跳ね上げる寸前でぴたりと拳を止めた三津島クロエが、目だけで下を凝視している俺の眼の前で、ニヤリと微笑んだ。
「はい零宮、一回死亡、だね」
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