シュレディンガーの恋
その後、妙にテンションが高まった三津島クロエに半ば引きずられるようにして、やれファミレスで山盛りパフェだの、やれマクドナルドでメガマックだのと付き合わされ、ようやく俺が解放されたのはもう夜も九時を回ろうとしていたあたりだった。
ちなみに、案の定というかなんというか、三津島クロエを駅まで送っていった際、別れ際に再び俺は頬にチューをされた。
一発だけなら誤射かもしれない、というどこぞの新聞みたいな可能性を考えていたのだけれど、確信犯的な二発目、しかもさっきの川の土手でサれた時と同じぐらい、頬を赤らめての情熱キッス――。
恥じらうよりも戸惑う俺に向かって、三津島クロエは原作中でも滅多に見せたことがないぐらいにもじもじとしたまま、以下のような言葉を最後に添えて寄越した。
「わかってるかもだけど、一応、キスだけは八百原にもシたことないから。零宮が初めてだよ?」
――そういえばこの人、八百原那由太を下着姿のまま押し倒しはしたけれど、キスはしなかったのだっけ。
今更ながらに思い知った、この人の意外にウブな一面に俺が物凄くドキドキしている間に、じゃあねと手を振って三津島クロエは改札の向こうに消えてゆき――後には、人が行き交う雑踏の中で一人勝手に遅れてきた青春をアミーゴしている俺だけが残された。
そして今――俺は零宮家に帰る道を、まだ心臓をドキドキさせたまま歩いている。
思えば今日はいろんなことがありすぎた。生前推しだったヒロインにさんざん弁当をあーんされ、股間をまさぐられ、かと思えば一転、号泣し始めたのを俺が抱き締めて慰め、土手で青春し、挙げ句に二回もチューされる……。
事実を羅列して人に説明したら「なんじゃそりゃ」と言われそうな、まるでジェットコースターのような一日の終わりの上には満天の星空が輝き、へとへとになって今日一日を戦った俺を静かな輝きでねぎらってくれていた。
ふと――その美しい星空を仰いでいるうちに、思い出した話があった。
今、俺が薄汚れた地上で見ているあの星々の光は、実は何千、何万光年という距離の向こうから放たれた光であり、下手したら数万年前の時を経て今やっと見えている光なのだそうだ。
つまり、今俺が見ている光を放っている星は、下手したら何千年も前に寿命を終えていて、消滅している可能性すらあるそうなのだ。
今はハッキリと見えているのに、本当はもう存在しないかもしれないものの輝き――。
そう、それはどこぞの科学者が考えた思考実験と似たようなもの。
箱の中に猫を閉じ込め、生と死が重なり合った状態とやらを作り出すとすると、「観測」という行為をきっかけに、生と死、どちらかに結果が収束するという、有名な思考実験――シュレディンガーの猫の話。
その話を病室のベッドの上で聞いたときは、何とも言えずに寂しい気持ちになったものだった。
もし箱の中で猫が生きていたとしても、観測した瞬間、「死」に結果が収束したら、箱の中で生きていた分の猫の時間は否定され、なかったことにされはしないのか。
病室のベッドの上で必死に闘病していた「俺」の忍耐や頑張りは、俺の人生が「死」という結果に収束した瞬間、全てなかったことに、存在しなかったことになる――。
なんだかそう言われているようで、この話を初めて聞いた時、「俺」はこの世にはなんて残酷なことを考えるヤツがいるんだと、少し憤ったような気持ちになったものだった。
そう、それは三津島クロエも、二階堂奏も、一葉深雪も、恋とやらにうつつを抜かしている全世界の人間が似たようなもの、箱の中に閉じ込められた猫なのだとしたら。
いくら頑張って、必死に恋をしたとしても、誰か他のヒロインが選ばれてしまった瞬間、彼女たちの思いは一瞬で「死」という結果に収束する――そんなの、そんなのは、いくらなんでも酷すぎる。
いや――本当にそうなのだろうか。
もし、全てのラブコメディ作品において、最初から選ばれるヒロインが決まっているのだとしたら。
ただ果てしなく大袈裟に、ヒロインレースという出来レースをしているだけなのだとしたら。
俺たち読者やヒロインたちが、既に息絶えている猫の名前を、箱の外から必死に呼んでいるだけなのだとしたら。
箱の中での、一人寂しい孤独な死。それが彼女たち、世の中全ての負けヒロインに与えられた役目の全てであるなら。
それは――あまりにも残酷なことのように、俺には思えて仕方がないのだ。
「『シュレディンガーの恋』、か」
俺は一人勝手に、壮大なタイトル回収となる台詞を独りごちた。
思えば、この世界は壮大な虚構、神様ではない誰かの頭の中で創られた世界だ。
この世界は、「俺」が元いた現実世界を生きている人間から見れば、所詮は漫画の世界、壮大な思考実験、作り事の箱の中だ。
そして虚構の中で愛だの恋だの抜かして、その気になれば何ひとつ波風立てずに生きていける生活に、精一杯波乱を巻き起こそうと躍起になっている俺たちって、実は、実は、とんでもなく虚しい存在なのかもしれなかった。
思えばあまりにも馬鹿馬鹿しい、くだらないとさえ思いかけた、その瞬間。
きらり、と瞬き、夜空に流れ星が短く尾を曳いて消えていった。
その、わずか数秒の輝きに心奪われ、ほうとため息を吐いてから――。
いいや、と俺は首を振り、少し笑った。
なぁにをおセンチな気分になってるんだ、俺は。それは生前の「俺」が一番望んでいた生活じゃないか。
愛だの恋だの、人の一生から考えれば本当になんでもないようなことを、まるで人生が懸かっているかのように、全力でやり遂げる――それこそ生前の「俺」なら絶対に出来なかった生き方だ。
どうせ選ばれないとわかっていても、どうせ箱の中で既に猫は死んでいるのだとしても、そんなもの、箱を開けてみるまでは、本当の結果はわからない。
起こるかもしれない奇跡を信じて、精一杯に己を燃やす星の輝きに、人は思わず振り返り、立ち止まることだってある。
それがラブコメという物語が持つ圧倒的な輝きであり、負けヒロインとはラブコメという夜空を駆ける流れ星のようなもの。
どうせ燃え尽きるとわかっていても、燃え尽きた先には虚しさの真っ暗闇だけが待っているのだとしても。
それでも、夜空に真っ白い光を放って消えてゆく彼女たちは――例えようもなく、綺麗なんだ。
ふと、今しがたの流れ星が放った銀色の輝きに、どこぞのお色気枠負けヒロインの髪色を思い出してしまった俺は、なんだか猛烈に照れくさい気持ちで、鼻の下を指で掻いた。
なんだかんだグズグズ抜かしてるくせに、思ったよりもあの人のことを意識してるのかもな、俺。
願わくばこれが、恋という感情にごく近似するものであることを願いながら――俺はようやくかかって零宮家の玄関の前に立った。
玄関の前に立って――唖然とした。
両親ともに共働きで、滅多に家には帰ってこないという「設定」らしい零宮家の玄関のドアに、A4のコピー用紙に、デカデカと墨筆で、以下の文字が書いて貼られていた。
『お兄様はフケツです』
んん? なんだろう、この文言は? フケツって何が?
俺がちょっと戸惑いながらドアノブを捻って中に入ると、玄関の床に以下の文言の紙が貼られていた。
『こんな可愛い妹を一人残して朝帰りするなんて』
あっ、朝帰り――!? と、ぎょっとして横を見ると。
『そんなにおっぱいが好きならおっぱいさんとこの子におなり』
『WOSS(私がお兄様を先に好きだったのに)』
『いつまでもいると思うな妹とカネ』
『男は度胸、女は愛嬌、坊主はお経、妹は最恐』
『よそはよそ、うちはうち、妹は妹』
『お兄様にはもう二度と納豆食べさせません』
『時々ボソッとお兄様にキレる妹のえるちゃんさん』
玄関、いや、リビングの床から壁から天井から、所狭しと貼り付けられた恨み辛みの文言に、ヒエッと俺は悲鳴を上げた。
思わずスクールバッグを投げ捨て、どたばたとリビングにまろび込むと――ゴゴゴゴ、とスカウターが爆裂するほどの怒りのオーラを纏いながら、妹のえるがリビングのソファに正座して俺を待っていた。
「え、える……」
「お帰りなさいませお兄様。お風呂にしますか? ご飯にしますか? それとも三津島クロエさんに『今日はヨかったよ』のLINEにしますか?」
「え、える……! あの、あのな……!」
「聞きましたよ、お兄様。どうやら最近は随分とクロエさんと仲睦まじく過ごされているようで。そして極めつけは今日のやたらと遅くなった帰宅……童貞卒業おめでとうございます」
「どっ、どうて……!? い、いや、える! 今日遅くなったのは別にクロエとそういうことをシていて遅くなったわけでは……!」
「いやですお兄様、口を開かないでください。乳臭くてかないません。……あぁやだやだ、クロエさんのおっぱいをこれでもかと吸い倒した感想は如何でしたか? さぞや真っ黒くて驚かれたんじゃないですか?」
「え、える! とりあえず話を聞け! 今日の俺とクロエは何もなかったんだって! と、とりあえず謝るから……!」
「謝るなら謝るなりの体勢になるのが先なのではないでしょうかねぇ」
そういうなり、えるは傍らにあった一回分のガムシロップを開け、自分が正座しているソファの前の床に垂らした。
俺が床に垂れたガムシロップとえるの顔に視線を往復させていると、えるが信じられないぐらい冷酷な表情と声で言った。
「あらあら、床が汚れてしまいましたね。どこかにこのシロップを拭いてくれるちょうどいい雑巾がありませんかね? 例えばお兄様の舌のような……」
――この妹、マジかよ。
この兄に、這いつくばって舐めろと?
思わず抗議しようと口を開きかけたが、それより先にえるが無言で顎をしゃくり、俺を促した。
俺は信じられないぐらいの絶望感に愕然としながら、逆らおうとする膝頭を二、三度平手で叩いて、えるの前の床に這いつくばった。
「言い訳は《《それ》》を綺麗にしてから聞くとします。私がいいと言うまで顔を上げたりしないでくださいね、お兄様?」
はい、と、震える声で女王様に返答しながら、俺はたっぷりと、床のホコリに塗れたガムシロップの甘さを堪能した。
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