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「な――!?」
一瞬、頭が真っ白になった。
そう、この世界はあくまでラブコメ世界であり、際どいサービスシーンがあったとしても、所詮は生々しい男女の世界の描写など有り得ない世界。
そんな風に納得、いや、油断していた俺の心臓を鋭く一突きするかのような三津島クロエの行動に、俺は真実、絶句する気分を味わって硬直する他なかった。
二の句が継げずにいる俺に向かって、三津島クロエはとろんと官能に蕩けきった表情で、俺の股間を愛おしく撫でた。
それだけで――俺の背筋から腰にかけて、本能的に電撃が走った。
「これも演技? それとも演技してても隠せない男の本能ってヤツ? どっちでもいいよ。シちゃえば同じだしね」
「く、くくく、クロエ!? おまっ、いっ、一体何を……!?」
「……ねぇ零宮、わかってる? 私、もう八百原に一回フラれてんだよ?」
ぐりぐり、と、今度はまるでドアノブを回すかのように、俺自身を掴んだ三津島クロエの手首がひねるような動きを与え、俺は苦悶の声を上げた。
呻く俺の耳元に口元を寄せ、三津島クロエはどろんと濁った瞳のまま、何故なのか薄く笑っていた。
「つまり一回死んだってコト。零宮、アンタも病気で死にかけてたなら知ってるよね? ――いっぺん死んできた人間は、もうなぁんにも怖いことはなくなっちゃうの」
「おっ、おいクロエ! いっ、痛いって……!」
「私、初めての相手が零宮なら全然悔いはないし。そりゃあまだ八百原への未練は捨てきれてないけれど……優しい零宮ならきっとアイツを上書きして、忘れさせてくれるよね……?」
「ア――! い、いぎっ……!!」
そこでぎゅっと三津島クロエの握力が強まり、俺は悲鳴を上げた。
急所をギリギリと万力のように締め上げられて、興奮よりも、痛みと恐怖故に滲み出た脂汗がこめかみを流れ落ちる。
苦悶の表情でぶるぶると震える俺を、三津島クロエはこれ以上はないという、うっとりとした表情で見つめている。
誰だ。今俺の目の前にいる、この女は一体誰なんだ?
こんな三津島クロエは知らない、この人がこんな淫魔のような微笑みを浮かべる人であったはずがない。
この人はあくまでお色気枠のヒロインであって、その際どいアプローチは、あくまで主人公に選ばれるための行動だったはず。
本当のこの人は意外なぐらい純情で、一途で、今まで失恋を引きずりまくっていたはずなのに。
なんなんだ、この官能と肉欲に蕩けきった表情は?
なんだというんだ、俺を見る、この発情しきったメスの目は?
この人、この人は、一体どうしてしまったというんだ――?
「零宮ぁ、私、もうビッチってことでいいよ。私、今ここでアンタが欲しい。アンタも――私が欲しいんだよね? ここがそう言ってるし」
「あぅ……! く、クロエ、ダメだ、絶対ダメだっ……! こっ、こんなの、お前らしくない……!」
「これ以上なく私らしいやり方じゃん? 使えるものはなんでも使って欲しいものを手に入れる、それが私の流儀だから。さぁ戦友、一緒に一線を超えちゃおうねぇ……」
三津島クロエの唇が、ゆっくりと、脂汗に塗れた俺の顔に近づいてきた。
ある種の興奮と、突如淫魔のように豹変してしまった推しヒロインへの恐怖、むせ返るほどのメスのフェロモンで、気が狂ってしまいそうだった。
犯される恐怖――そうとしか表現できない絶望感と無力感を感じながらも、俺は近づいてこようとする三津島クロエから顔を背け、必死の抵抗を試みる。
ダメだ、絶対にこんな形ではイヤだ――! 涙さえ滲みそうになりながら俺が最後の抵抗を試みようとした、その時。
「八百原君、また追試なの? 大事な話があるから一緒に帰るって約束だったじゃない」
――その声に、俺も三津島クロエも、はっと息を呑んだ。
「はぁ……あなたって人は本当に締まらない人ね。しかも科学と英語の二教科で追試? はぁ、この間私がつきっきりで教えてあげた数学だけは赤点回避してるのがお慰みなのかしらね……」
一葉深雪の声――そう理解したのは、三津島クロエも同じタイミングで、だったらしい。
三津島クロエの、官能と肉欲に濁りきった瞳から、まるで潮が引いていくように狂気が抜け落ちてゆく。
それと同時に、俺の急所を掴んでいた三津島クロエの手から力が抜け、ぱったりと下に落ちた。
「全くもう、本当にあなたってダメな男ね、このダメ人間。こんなにも女の子を待たせておいて電話一本で済まそうなんて考え、私相手じゃなかったら明日からもう口も利いてもらえなくなるレベルの粗相よ? ホント、なんで私、こんな人のこと……」
そこで一葉深雪の声は、おもむろにその先を言い淀んだ。
しばし、何か大切なことを口にしようとするような間があって――。
それでも、その事を口にすることは叶わないのか――曖昧に咳払いの声が聞こえた。
「……何よ、今のは何でもないわ。本当に鬱陶しいからしつこく勘ぐらないでくれるかしら。……うんうん、仕方ない、わかったわよ。後日、あなたにはそれ相応の埋め合わせをしてもらうからね。それじゃ」
そこで通話を切った一葉深雪は、フゥ、と、ため息をついてから、ぼそぼそと、ほんの小さく、恨み言を呟いた。
「……何よ、あの馬鹿男。今日こそはちゃんと『好きだ』って言ってくれるつもりだったんだ、って……こっちだってわかってたのに」
それを聞いた三津島クロエの瞳が、激しい衝撃に揺れた。
それと同時に、三津島クロエの全身から力が抜け、三津島クロエはその場にずるずるとへたり込んだ。
慌ててその身体を両手で支えたけれど……まるで全身の骨がぐにゃぐにゃになってしまったというように、地面への墜落を阻止することは叶わなかった。
仕方なく、俺も三津島クロエの身体を支えたまま、地面に座り込んだ。
トトト……と、一葉深雪がその場を去ってゆく足音が聞こえた。
三津島クロエの瞳が涙に濡れ始めたのは、それと同時のことだった。
可哀想に――。
散々弄ばれたのに、その時の俺の頭に浮かんだのは、その一言だった。
来たるべき涙に向けて、俺は覚悟を決め、そっと三津島クロエの背中に両腕を回し、ゆっくりと擦った。
「ぜろ、みや。零宮……」
「うん」
「零宮、ごめっ、ごめん……ごめんごめんごめんごめんごめん、ごめんなさい……」
「いいよ、気にしてない。ちょっと驚いただけだよ」
「ごめん、ごめん……わたし、わたし、アンタになんてことを……。ああ、最悪、わたし、やっぱりビッチなんだ、ビッチだったんだ……!」
「違う、違うよ。三津島クロエはそんな人じゃない。俺はちゃんと知ってる」
「違う違う、違うよ零宮。私、零宮のこと、ちゃんと戦友だと思ってたのに、思おうとしてたのに、それなのに……!」
ひっぐ、ひっぐと、しゃくりあげる声が耳に聞こえた。
「わたし、わたし、一葉さんの声が聞こえた途端、八百原の顔を思い出しちゃった。八百原が……八百原のことが好きだったんだって、思い出しちゃった。零宮にあんなことしてた最中なのに……もういいやって、もう次に行くんだって、もう、もう、ふっ切れたんだって、そう思ってたのに……!」
「……こっちだって、そう簡単にふっ切られてたまるかよ。俺はまだお前の作ったオムライス、食べてないんだぞ」
俺は憮然と言って、三津島クロエの背中を擦った。
「全く、何を無茶してんだよ、戦友。俺はお前のスリーサイズどころか、八百原とお前が保健室でナニしてたかまで知ってる男なんだぞ。お前はそんなふうな背伸びが出来ない人だって、好きだった人を簡単に忘れられない、一途で純情な人間だってことも……ちゃんと知ってるよ」
俺はぎゅっと、三津島クロエを抱きしめる腕の力を強くした。
「だからもういい、もうさっきみたいな無茶しないでくれ。無理やりあんな形で繋がりなんか作ってもらわなくてもいい。男にフラれたぐらいで落ち込んで、情緒不安定になって、泣き喚いたり落ち込んだり、突然エロくなったり、こんなにもどうしようもなくなってる人……いくら俺だって、ほっといて帰ったりしないからさ」
その一言に、とうとう三津島クロエの感情が大爆発した。
うわーん! と、あの日の校舎裏と同じように、周囲の全てのものを揺らして、三津島クロエは泣き喚き始めた。
やれやれ、全くもって情緒不安定な人だ。
こんなどうしようもない人、俺でなくたってほっとけるはずはないのに。
八百原那由太にはともかく、俺には色仕掛けなんかしてもらわなくたってよかったのに。
ただただ俺の隣でへらへら笑ってくれるだけで、それだけで十分なのに。
自信満々に見えても、本当は容姿以外の自分の人間的な魅力を信じられない、弱いところがある人なのも――俺はとっくにもう、気がついていたのに。
その後、三津島クロエの涙は十分ほど、止まることがなかった。
俺は俺の制服の肩の部分が三津島クロエの涙と洟水で汚れてしまうことをぼんやり考えながらも、それでも三津島クロエの細い身体を離すことなく抱き締め続けていた。
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