任せられたお色気枠
「あ、八百原――」
三津島クロエがそう声を上げた瞬間、クラスは再び、水を打ったように静まり返った。
当然であろう。今しがた、三津島クロエ敗北の報を、他ならぬ本人の口から聞いたクラスメイトたちにしてみれば、この展開は今後の予想が全くつかない事態だったに違いない。
三津島クロエも、名前を呼んでからはどのように反応してよいかわからなかったらしく、少し居心地悪そうな表情を浮かべる他なかった。
ごくっ、と喉を動かして。
八百原那由太は決意の表情で口を開いた。
「あの、三津島、ちょっといいか。それに零宮も」
え、俺も――!? この緊迫の状況下で名前を呼ばれた俺は仰天した。
瞬時、クラスの後方にいる三津島クロエと視線を交錯させた後。
先に立ち上がったのは三津島クロエだった。
「う、うん。いいよ。……ほら、零宮も」
「おっ、おう……」
それぞれ、しどろもどろに声を交わし合ってから、俺たちは席から立ち、八百原那由太へと歩み寄っていった。
◆
しばらく歩き、校舎の人気のないところまで連れてこられて。
ここらでいいか、というように八百原那由太が、何らかの覚悟を決めたのがわかった。
「朝のことはごめん、三津島。それに零宮も」
がばっ、と、ほぼ直角に腰を負って、八百原那由太は俺たちに向かって謝罪した。
俺と三津島クロエが戸惑いの表情で顔を見合わせると、八百原那由太は頭を上げないままに続けた。
「俺、お前らにとんでもないことを言ってしまって……本当にごめん。お前らの事情なんか何にも知らないくせに、かなり無神経な発言だった。謝罪させてくれ」
「あ、いや、いいよ八百原。少なくとも俺は気にしてないから……!」
「いいや、あれは俺が悪かった。謝罪を撤回する気はない」
そこでようやく頭を上げた八百原那由太の顔は、朝よりもかなり憔悴しているように見えた。
「あの後、二階堂にも一葉にもこってり絞られたよ。いくらなんでもあの発言はないって……。俺、ぶっちゃけ、安心したかったんだ。いくら三津島だって堪えてないはずがないのに、自分一人だけ助かったような気になりたくて……」
その一言に、三津島クロエが密かに息を飲む気配が発した。
「三津島の思いに応えられなかったって、そんな状況から逃げ出したかったんだ。でも、それはいくらなんでも無責任だよな。一年間もきっぱり返事できずにいた人間として、最低の義務さえ果たさずに、一人で楽になろうなんて、誰からも怒られて当然の振る舞いだった……」
ああ、やっぱり、こういうところはコイツ、ラブコメの主人公だなぁ。
鈍感で無神経で優柔不断だけど、異常なぐらい優しいし、責任感も強い。
そしてなおかつ、道を間違えたときは、そのことを遠慮なく叱ってくれる人が複数人も側にいる。
だから決定的なボタンのかけ違いをすることなく、彼らの日常はなんでんかんでん上手に回ってゆき、治まるべきところに治まってゆく。
ラブコメという物語が持つ、偉大な自己修復力とでもいうべき力に驚いている俺の目の前で、再び八百原那由太が頭を下げた。
「三津島、俺、もう逃げないよ。俺はお前を選んでやれなかった、その後悔とか反省も、ちゃんと自分なりに背負っていくから――頼む、朝のことは許してくれないか」
神妙な謝罪の言葉の後――数秒経って、ふん、と三津島クロエが鼻を鳴らした。
「ふん、もういいわよ、許す。っていうか、もうとっくに許してた。八百原、頭を上げて」
その命令口調に、八百原那由太がゆっくりと、三津島クロエの顔色を窺うかのように顔を上げた。
その額に向かって、三津島クロエは強烈なデコピンを見舞い、あだっ! と八百原那由太が額を手で覆った。
「今ので一切合切チャラにしてあげる。私をフッたことも、朝のノンデリ発言もね。――いくら私だって、好きな人にずっとムカついたままでいるとか、そんなの嫌だし」
はっ、と俺が三津島クロエの顔を見ると、はぁ~……と、三津島クロエが大きな大きなため息を吐いてから、腰に手を当てて胸を反らした。
「それはそうと八百原、アンタ私をフッたぐらいで安心するんじゃないわよ。アンタには最低でもあと一回、一葉さんか、もしくは二階堂さんをフるっていう重要な決断をしなきゃなんだから」
「うッ――!? そ、それは――!!」
「私はデコピン一発で許したけど、一葉さんと二階堂さんはどうかねぇ? そう簡単に許してくれるかしら?」
ニヤ、と、三津島クロエは酷薄な笑いとともに八百原那由太を睥睨した。
「一葉さんをフるならやっぱりアンタの最期は包丁かねぇ? 後ろからブスッとな。あの人のことだからアンタがいっちばん苦しみ抜いて死ぬような場所を狙ってくるでしょうねぇ。二階堂さんはおっとりとしてるからアンタを包丁で刺したりはしないだろうけど……せいぜい美味しい手料理に致死毒を盛られないよう気をつけてフることね」
「あうッ――!? み、三津島、縁起でもないこと言うなよ……!」
「これは縁起でもないことを言ってるんじゃない、心配してあげてんのよ。アンタのこと好きだからね」
ふふん、と、三津島クロエは意味深に笑った。
「それに八百原。アンタ、これからも私相手に油断すんじゃないわよ」
「え――? な、何が?」
「さっき、ここにいる零宮が言ってくれたのよ。こうなったら大人しく投降なんかしない、私と一緒に山に逃げ込んでアンタ相手にゲリラ戦で戦ってくれる、ってさ」
その瞬間、三津島クロエの両腕が素早く動き、俺の頭を素早く抱き寄せた。
ぐぇ!? と俺が悲鳴を上げる間もなく、三津島クロエが俺の顔面をその巨大な双丘の谷間へと強引に誘い、ぐいぐいと押しつけてきた。
「ということで――八百原。私はこれから、アンタが私をフッたことを物凄く後悔するように、ここにいる零宮とイチャイチャしまくってやるから。覚悟しときなさいよ」
「むーっ! むぅーっ!! うぐ、うぐぐぐぐ……!!」
「アンタ、もうゆっくり眠れなくなるわよ。毎日毎日私と零宮が友達以上恋人未満で仲睦まじくするのを間近でこれでもかと見せつけられて、アンタは四六時中悶々とした時間を過ごすことになるの。私みたいないい女をフッた大バカタレの末路はこんなことになるんだって、全校に、いや全世界に知らしめてやるんだから」
信じられないぐらいのいい匂いと柔らかさで、窒息するより先にイキそうに、否、逝きそうになったところで、俺は三津島クロエの腕を叩いてギブアップの意思を告げた。
三津島クロエから頭を引き抜き、しばらく全身で息をしてセルフ蘇生を図ってから、俺は慌てて三津島クロエを見た。
「あ、あの、クロエ?」
「何? 零宮」
「えっ……ゲリラ戦って、内容そういうことなの? 俺、あのときはなんとかお前を励まそうと思って、正直内容なんかなんにも考えてない発言だったんだけど……しかもその相手って俺なん?」
「何を狐に摘まれたような表情してるの。アレはそういうことじゃない」
何を今更、というような表情で三津島クロエは続けた。
「アンタが俺たち二人で、って言ったんじゃないの。なおかつ八百原の安眠を妨害してやるんだって。つまりはそういうことでしょ? アンタはこれから戦友として私とイチャイチャしまくって、八百原に私をフッたことを後悔させる、それがゲリラ戦ってことじゃないの。違う?」
「えっ、えぇ……!? そ、そうなるの……!?」
俺が素っ頓狂な声を発して驚くと、その様を見た八百原那由太があはは……と苦笑した。
「お前ならそう簡単に俺のこと諦めてはくれないだろうなと思ってたけど……そう来たか。三津島、お前って本当にブレないよな」
「当たり前じゃない、私は世界で一番いい女だもん。そう簡単に捕虜収容所に送られてたまるもんですか。命ある限りアンタに噛みついてやるわよ」
「あはは。そうか。俺もまだまだ油断できないなぁ。……なぁ、零宮」
「な、なんだ?」
一人置いてけぼりにされている俺を尻目に、八百原那由太は一人勝手に何かを納得して、照れたような表情で頬を掻いた。
「俺、こんなこと言えた義理じゃないのかも知れないけれど……一応、三津島とは一番の女友達ってことになってるからさ。お前に俺の大事な女友達を任せたいんだけど……任せられてくれるか?」
「えぇ……!? おっ、お前までこんな変な話に乗り気なの……!?」
「正直、今からお前らに何をされるのか考えると怖いけど……けどさ、三津島は一度言い出したら聞かない人間なのは知ってるから。それに……」
そこで八百原那由太は、俺の隣にいる三津島クロエをちらりと見た。
「零宮。お前といると三津島は凄く楽しそうだし、いつも通りの三津島になるからさ。お前にならきっと任せられるよ。これから三津島をよろしくな」
いや、なんかそんな爽やかな感じで言われても――正直、嬉しさや使命感よりも、戸惑いしかなかった。
何よりも俺は作中に名前すら登場しないモブ、しかもクラスメイトにすら一部名前が知られていないほどの陰キャだ。
いくら転生前の記憶があるとはいえ、そんな人間がヒロインのうちの一人の後釜候補なんて――いくらこの世界が陰キャに都合がいいラブコメ世界だとしても限度があるんじゃないのか……。
とそこで、物凄く戸惑い全開になるしかない俺の左手を、三津島クロエが何の予告もなく取って指を絡めてきた。
いわゆる恋人繋ぎ――当然、俺は慌てた。
「うぇ……!? てっ、手……!!」
「じゃ、改めてよろしくね、戦友! 八百原、見てなさいよ! 私たちはきっとアンタが最終的に選んだ子よりも百倍幸せそうな感じになってやるんだから! せいぜい私たちに寝首掻かれないように用心することね!」
ずびっ、と、空いている方の右手で八百原那由太を指さした三津島クロエは、改めて堂々と宣戦布告をした。
俺は――というと、三津島クロエのような物凄い美少女と手を繋いだ経験もなければ、三津島クロエの手の意外なほどの冷たさ、そして小ささにはっとして、とりあえず無言で挙動不審になる以外になかった。
そんな俺たちを見て、八百原那由太は再び声を出して苦笑した。
ひとつ、学んだ。
基本的にラブコメに敗者復活戦はない。けれど、延長戦はありうるのだ。
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