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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅡ
99/127

勇者一行、朝帰りにつき

「起きろ」


 低い声が、耳のすぐそばで石臼みたいに鳴った。


 俺はまず片目を開けようとして失敗した。光が刺さる。まぶたの裏まで白い。昨夜の酒が頭の内側に残っていて、そこへ朝日が遠慮なしに櫂を突っ込んでくる。ひどい。太陽というやつは、酔っぱらいに恨みでもあるのか。


「起きろ、ヴェスタ」


「……沈んだ船に声かけてどうすんだよ、兄貴」


「沈んだ船は返事をしねえ」


「じゃあまだ浮いてんな。奇跡だ」


 毛布の下へ逃げようとしたが、上から大きな手が毛布を剥いだ。


 冷えた空気が腹に入る。俺は呻いた。魔物に腹を裂かれたことはないが、きっとこんな気分だろうと思った。たぶん違う。違うが今はそういうことにしておく。


 見えたのは客室の天井ではなかった。


 薔薇の屋敷の談話室だ。昨夜、晩餐のあとに誰かが流れを作り、誰かが止めそこね、最後は全員がこの部屋に流れ着いた。上品な長椅子。低い卓。壁際の酒棚。薔薇模様の敷物。


 その全部が、朝の光の中でしおらしく荒れていた。


 空き瓶が三本。倒れた杯が二つ。絨毯に落ちた栓抜き。なぜか低い卓の下に転がる銀の匙。皿の上には果物の皮だけが残り、端には俺の片方の靴があった。


 もう片方は、レオンが抱いていた。


 勇者様は長椅子から半分はみ出し、腕の中に俺の靴を大事そうに抱えて眠っている。金髪は潮風に負けた帆みたいに跳ねていた。顔だけはいい。だが顔がいい人間でも、二日酔いで寝ていればただの若造である。


「なんで俺の靴が勇者の護衛対象になってんだ」


「お前が預けた」


 ガイウスは淡々と言った。


「覚えがねえぞ」


「昨夜、お前は靴を賭けて勝負をした」


「何に」


「記憶力だ」


「負けてるじゃねえか」


 床に座ったまま頭を掻く。指の間に寝癖が絡んだ。口の中が乾いていて、舌が革みたいになっている。船の上で安酒を水代わりに飲んだ朝よりはましだが、それは底と底を比べているだけだ。


 ガイウスは俺の前にしゃがんでいた。


 大柄な体が朝日の半分を塞いでいる。助かる。腕の包帯は昨夜よりゆるく見えた。本人もそれを確かめるように、指を握って開いている。痛みで顔を歪める様子はない。


「兄貴、腕はどうだ」


「悪くねえ」


「昨日より動いてねえか」


「そんな気はする」


「契約のせいか」


「分からん」


 そこで終わった。兄貴らしい。断言しないと決めたことは、岩に彫っても断言しない。


 俺は立ち上がろうとして、いったん諦めた。床がわずかに傾いている気がする。いや床は傾いていない。俺の中だけが港の古い桟橋になっている。


 まずは生存確認だ。


 レオンからいくことにした。勇者様の肩を揺らす。返事はない。もう少し強く揺らすと、眉がわずかに寄った。


「おい、レオン。朝だぜ」


 俺は呼んでみた。


 レオンは、眉だけ動かした。


「……光神よ」


「お、祈ったぞ」


「……あと、少し」


「神様相手に二度寝の許可を取るな」


 レオンは目を開けないまま、俺の靴を抱く腕に力を入れた。


「返せ。俺の足が片方だけ貴族になる」


「……すまない」


 謝った。寝ながら謝った。


 だが靴は離さなかった。勇者の責任感が変な場所に出ている。俺は諦めて手を離した。


「こいつは後だな」


 ガイウスが頷いた。


 次はカイだった。


 カイは安楽椅子にきちんと座った姿勢で眠っていた。寝ているのに背筋が残っている。膝の上には空の水差し。片手は杯を握ったままだ。昨夜、水を配っていた姿をぼんやり覚えている。止めるための水だったはずが、気づけば本人も杯を持たされていた。


「カイ。起きろ。朝だ」


「……はい。警戒は」


「ここに敵はいねえよ」


「……水の補給を」


「それは正しい。お前にはまず水がいる」


 カイは目を閉じたまま杯を口へ運んだ。空だと気づくと、世の終わりみたいに肩を落とした。


「申し訳ありません……」


「誰に謝ってんだ」


「……水差しに」


「真面目が過ぎると道具にも謝るのか」


 ガイウスが水差しを覗く。


「空だ」


「知ってるよ。空だからこの顔なんだろ」


 カイはそのまま動かなくなった。椅子の形に合わせて、また眠りへ沈んでいく。朝課だの補給だの口だけは働いているが、本体は帰ってこない。


「次」


 壁際の椅子では、ヴァローが沈没していた。


 沈没といっても姿勢はまだ整っている。薄い紙束を胸に抱え、指先には乾いたインクの跡があった。こいつは最後まで何かを書いていたのだろう。酒と眠気で船が沈む最中でも、帳簿だけ抱えている会計係を思い出した。


 紙の上端が見えた。


 俺は覗き込んだ。


『契約後の挙動について。各自の手背に発現した意匠は短時間で消失』


 そこまではまともだった。


 その下が怪しい。


『酒宴移行後の会話精度は低下。特にヴェスタの比喩は海難事故に偏る』


 さらに下。


『ヴェスタ、歌唱中に椅子を船と誤認』


「おい。これ燃やしていいか」


「やめておけ」


 ガイウスが即答した。


「なんでだよ」


「ヴァローは紙の枚数を覚えている」


「怖えな」


 ヴァローのまぶたが少しだけ動いた。


「……観測上、まだ夜の延長です」


「便利な夜だな。朝だよ」


「……朝の定義には合意が必要です」


「太陽と揉めてこい」


 返事はなかった。合意形成は夢の中へ持ち越されたらしい。


 イーリスは見当たらなかった。


 椅子にも床にも窓際にもいない。空の杯もない。あの人だけ舞台が変わる前に袖へ下がったような顔で消えている。昨夜の歌声ははっきり残っている。腹に響く声だった。あれが入った瞬間、晩餐は宴になった。


 本人はきっと認めない。


 歌は求められたから歌っただけです。そんな顔で白湯でも飲んでいるに違いない。


 最後にラウリだ。


 ソファの上に毛布の塊があった。塊というより小山である。顔は見えない。手も足も見えない。だがソファの横には空の皿が積まれている。夜中に誰かが運んだのか。本人が狩ったのか。皿は狩れない。俺の頭もまだ弱っている。


「これは起こすべきか」


 毛布の中から、ぐう、と低い音がした。


 俺は一歩引いた。


「腹が先に返事したぞ」


 ガイウスは真顔で言った。


「生きている」


「顔より腹のほうが起床が早いんだな」


 もう一度、毛布の中が鳴った。今度は少し長い。腹だけで会話できそうだった。


 昨夜のことが少しずつ浮いてくる。


 最初は固かった。


 長い卓。銀の食器。控えめな灯り。薔薇の香り。皿が置かれる音まで背筋を伸ばしていた。レオンは勇者の顔をしていたし、カイは礼儀で武装していた。ヴァローは料理の材料まで推測していそうだった。


 俺は肩が凝っていた。


 ガイウスは静かに食っていた。ラウリは最初から普通ではなかった。皿が来る。消える。また来る。消える。使用人の顔が少しずつ真剣になる。あれはもてなしというより、厨房と食客の勝負だった。


 酒が出た。


 そこから空気に亀裂が入った。いい意味での亀裂だ。堅い板に最初の釘を打つ音みたいなものだった。


 俺が杯を上げた。ガイウスが受けた。山の酒がどうだの、海の酒がどうだの言った覚えがある。兄貴は比べるものではないと言った。まともだった。だがまともな男ほど、杯を空ける手だけは止まらない。


 レオンが巻き込まれた。


 カイが止めた。


 止めるために近づいたカイが巻き込まれた。


 ヴァローは記録のためと言った。記録のために一杯。比較のためにもう一杯。第三の観測のためにさらに一杯。観測される側へ落ちるまでが早かった。


 そしてイーリスが歌った。


 あれはずるい。


 美しい声というのは、場の逃げ道を塞ぐ。誰かが卓を叩く。誰かが手拍子を取る。誰かが立つ。たぶん俺だ。俺が椅子の背を船尾だと言い張った気もする。だいぶ罪深い。罪という言葉は今の頭に重いので、やっぱりただの馬鹿でいい。


「兄貴」


「なんだ」


「俺は昨日、椅子を船にしたか」


「した」


「沈めたか」


「沈めてはいない」


「ならまだましだな」


「床は揺れると言っていた」


「床に濡れ衣着せたか」


「その後、レオンが横で真面目に頷いていた」


 俺は長椅子の勇者を見た。


 俺の靴を抱いたまま、世界を救いそうな寝顔で沈んでいる。いや今は靴しか救っていない。


「いいやつだな」


「ああ」


「酒場で一番危ない類いのいいやつだ」


「そうだな」


「戦場で死ぬのは新兵と英雄だ。古兵はその間にいる」


「今のは酒の話だぞ、兄貴」


「同じだ」


 扉が軽く叩かれた。


 返事をする前に開いたわけではない。音があり、間があり、それから静かに扉が動いた。その一連だけで、入ってくる相手が誰か分かった。


 アルフレッドだった。


 服は乱れず、白手袋は白い。昨夜の騒ぎなど、季節の挨拶くらいに受け止めている顔である。執事頭の目が部屋をひと巡りした。空き瓶。寝る勇者。謝る椅子の騎士。紙を抱く参謀。腹で返事をする毛布。


 眉は動かなかった。


「お目覚めでございますか、ヴェスタ様、ガイウス様」


「おはようさん。目は覚めた。魂はまだ港に置いてきた」


「お迎えが必要でしたら、人を遣わします」


「魂の迎えまでやるのかよ。この屋敷」


 アルフレッドはほんのわずかに目元を和らげた。


 そして部屋の惨状をもう一度見た。


「昨晩は大変お楽しみになられたようで、何よりでございます」


 叱責ではなかった。


 その声には、磨かれた銀器の奥に残る温度みたいなものがあった。少し嬉しそうにも聞こえた。俺は頭を掻いた。こういう言い方をされると、謝る足場がぬかるむ。


「悪かったな。だいぶ騒いだ」


「皆様がお怪我をされておられないようで何よりでございます」


「怪我より恥のほうが深そうだ」


「そちらは時間が癒やすかと」


「時間って残酷だよな。忘れた頃に誰かが思い出す」


 アルフレッドは答えず、静かに一礼した。


「本日は、お客様方にはお好きなだけご滞在いただくよう、お館さまより申し付かっております。お急ぎでなければ、どうぞごゆるりとお過ごしください」


「魔女様は」


 そこまで言って、俺は言葉を短くした。


「起きてんのか」


「本日は表の務めをお休みになられます」


「そうか」


 それ以上は聞かなかった。


 昨夜、こちらが騒いでいたのは間違いない。屋敷の奥にも気配があった気はする。気はするが、見ていないものを魚市場に並べる趣味はない。俺は元海賊だが、売っていい噂と売ると沈む噂くらいは分かる。


 アルフレッドは続けた。


「西館の客人用湯浴み場の支度が整っております。まずはおふたりでお使いになられてはいかがでしょう」


「こいつらは?」


 俺は談話室の残骸を見渡した。


「レオン様、カイ様、ヴァロー様は今しばらくお休みいただくのがよろしいかと。ラウリ様には、目覚めの順序に合わせて別途ご用意いたします」


「目覚めの順序って腹のことか」


「はい」


「腹を客として扱う気だな」


「必要であれば」


 すごい屋敷だ。腹にも礼を尽くす。


 ガイウスが立ち上がった。大きな影が床から伸びる。俺もどうにか立った。膝が少し頼りない。レオンの腕から靴を抜き取ると、勇者様は一瞬だけ眉を寄せたが起きなかった。


「靴の警護ご苦労さん」


「……光神」


「夢でも言ってやがる」


 ガイウスが短く息を漏らした。笑ったらしい。


「行くか」


「おう。魔女の屋敷で朝風呂とはな。昔の俺に聞かせたら、酒のつまみにして三日は笑うぜ」


「元海賊だ」


「細かいねえ。朝から正しい男は嫌われるぞ、兄貴」


「起こしたのは俺だ」


「恩に着る。少しだけな」


──────────────────────────────


 廊下へ出ると、談話室の酒臭さが背中から剥がれた。


 薔薇の屋敷は朝の顔をしていた。昨夜は灯りと声と皿の音で膨らんでいた場所が、今は息を潜めている。磨かれた床に窓枠の影が落ちている。壁には淡い花の文様。遠くで水の流れる音がした。


 アルフレッドの背中を追いながら、俺は首を回した。


 骨が鳴る。酒がまだ首の後ろに溜まっている。船酔いは外から来る。二日酔いは内側から来る。どちらもたちが悪いが、逃げ場がないぶん二日酔いのほうが卑怯だ。


 ガイウスは平気そうに歩いていた。


「兄貴、本当に酒が残ってんのか」


「少しは」


「少し残ってる顔じゃねえぞ」


「顔に出ない」


「便利だな。俺なんか顔に看板が出る」


「船乗りは隠せんのか」


「海の上じゃ隠す相手も酔ってる」


「公平だな」


「公平って言えば聞こえはいいな」


 窓の外に薔薇庭園が見えた。


 赤い薔薇と白い薔薇が朝露を乗せている。薄桃の花は光を受けて、縁だけが透けていた。枝は整えられているのに、棘の気配だけはどこか生々しい。美しい庭ほど、触るなと全身で言ってくる。


 昨夜の契約を思い出した。


 紙。署名。宙に広がる黒い線。手の甲へ伸びてきたもの。痛みはなかった。痛みがないのに、皮膚の下を通った感覚だけが残っている。縄をほどいたあとの手首みたいだ。


 俺は手の甲を見た。


 何もない。薔薇の文様もない。ただ、何もない場所ほど意識が引っかかる。


「気になるか」


 ガイウスが低く言った。


「まあな。ああいうのは、終わったあとにじわじわ来る」


「痕はない」


「ないのが逆に落ち着かねえ。酒場の喧嘩なら痣が残る。あれなら分かりやすい」


「分かりやすいほうが楽か」


「楽だ。痛いけどな」


 ガイウスは自分の腕を見た。


 包帯の下で指が動く。昨夜までは動かすたびに重そうだった。今はそう見えない。もちろん、見えるだけだ。俺の目は医者じゃない。酔いも残っている。


「腕は」


「痛みが抜けやすい」


「昨夜からか」


「ああ」


「やっぱり契約かね」


「まだ分からん」


「ヴァローみてえなこと言いやがって」


「あいつなら、観測数が足りないと言う」


 そんな話をしているうちに、西館へ入った。


 空気が少し変わる。廊下の石が白くなり、足音がやわらかく返った。薔薇の香りに、石鹸の匂いが混じる。湯気が扉の隙間から薄く漏れている。


 アルフレッドが立ち止まった。


「こちらでございます。替えの衣類と水をご用意しております。ご用の際は、外の控えの者へお申し付けください」


「至れり尽くせりだな」


「お客様でございますので」


「昨夜の俺たちを見てもそれか」


「はい」


 老執事は静かに微笑んだ。


「賑やかな客人は、屋敷に風を通してくださいます」


「壁まで吹き飛ばしたらどうする」


「修繕いたします」


「強えな」


 俺は負けを認めて扉を開けた。


 湯浴み場は広かった。


 白い石の床。淡い青のタイル。高い天井。磨り硝子の向こうから朝の光が落ちて、湯気を白く浮かせている。湯船は港の共同浴場よりずっと大きい。湯の表面が静かに揺れ、端から湯があふれて細い溝へ流れていた。


 石鹸の匂いがする。


 清潔すぎて落ち着かない。昔は港に入るたび、銅貨を払って湯を浴びた。湯はぬるく、床は濡れていて、隣の男はだいたい知らない傷を持っていた。ここは違う。何もかも白くて、裸のほうが無礼に思える。


「貴族の朝ってのはこうなのかね」


 俺は服を脱ぎながら言った。


 ガイウスは帯をほどく手を止めない。


「知らん」


「兄貴の知ってる貴族は」


「山には少ない」


「俺の知ってる貴族は、酒場で殴るか船賃を値切るか、身代金になるかだ」


「偏っている」


「人生がそうだったんだよ」


 衣類を籠へ放り込む。湯気が肌にまとわりついた。酒で乾いた体が、先に鼻からほどけるようだった。


 そして俺は見た。


 口笛が出た。


「兄貴、いいモンもってんな」


 ガイウスは少しも慌てなかった。むしろ湯気の中で堂々と立ったまま、こちらを見ずに答えた。


「山じゃ負け知らずだった」


「本当かよ」


「嘘をつくほどの話か」


「男はそういう話でこそ嘘をつくんだよ」


 ガイウスは眉を少し動かしただけだった。


 山の男は全体が大きい。胸も肩も腹も腕も、石を積んで人の形にしたみたいだ。腰まで堂々としている。あれで山道に立っていたら、通行料を払わずには通れない。


 俺も負けたつもりはない。


 海の体は山ほど厚くない。だが動く。濡れた甲板で転ばず、縄を引き、刃を避け、逃げるときは逃げる。背中には古い擦り傷。脇腹には刃の線。太腿には昔、暴れた樽に負けた跡がある。


 ガイウスが俺を一瞥した。


「お前も悪くない」


「褒めても値切らねえぞ」


「何を売っている」


「昔はいろいろだ。今は評判くらいしか残ってねえ」


「高いのか」


「安売り中だ。昨日の椅子船でさらに下がった」


 ガイウスが低く笑った。


 俺たちは湯をかぶり、石鹸で体を洗った。泡が傷の上を流れる。二日酔いの体に熱い湯はしみる。だが悪くない。皮膚の外側から、昨夜の酒が少しずつ追い出されていく気がする。


 湯船に足を入れた。


 熱い。


 次に気持ちいい。


 膝まで沈め、腰まで沈め、胸まで沈める。思わず息が抜けた。骨の間に詰まっていた鉛が、湯に溶けていく。


「ああ、これは駄目だ」


「熱すぎるか」


「違う。人をだらしなくする湯だ」


「だらしなかったのは昨夜からだ」


「言い返せねえのがつらい」


 ガイウスも湯に入った。湯面が大きく揺れる。山が入れば湯も動く。


 しばらく湯の音だけがあった。


 俺は天井を見上げた。磨り硝子越しの光が白い。頭の奥がようやく朝に追いついてくる。


 昨夜の円卓が浮かんだ。


 レオンの署名。蒼凪の署名。魔女様の手。アルフレッドの沈黙。手の甲へ来た黒い茨めいたもの。あの場にいた全員が、言葉より重いものを飲み込んだ。


 その後に飲んだ酒は、ある意味で正しかったのかもしれない。


 重いものだけ残すと、人は距離を測り続ける。杯が回れば、測る手が少し鈍る。鈍ったところで本音が出る。醜態も出る。靴も取られる。


「変な夜だったな」


「ああ」


「夕方まで、あの賢者と同じ屋敷で酒を飲むなんて思ってなかった」


「俺もだ」


「契約ってのはもっと冷えるもんだと思ってた」


「冷えていた」


「そのあと湯じゃなくて酒に入った」


「酒は湯ではない」


「分かってるよ。例えだ」


 ガイウスは腕を湯から出した。


 包帯を濡らさないようにしている。指を握る。開く。まだ完全ではないのだろうが、動きは軽い。昨夜の前よりずっと楽に見えた。


「無理すんなよ」


「していない」


「兄貴のしてないは信用しづらい」


「なぜだ」


「体がでかいやつは、痛みにもでかい顔をする」


「お前も隠すだろう」


「俺は顔に出るって言ったろ」


「出ても動く」


「そこは否定しねえ」


 二人で少し笑った。


 湯気の中だと、声まで丸くなる。昨夜の黒い緊張も、今は少し遠い。もちろん消えたわけじゃない。海の霧と同じだ。晴れたように見えても、沖に出ればまた出る。


 それでも今は湯がある。


 石鹸の匂いがある。


 隣には山みたいな男がいて、くだらない張り合いに律儀に返してくれる。


「兄貴」


「なんだ」


「山で負け知らずって、誰と比べたんだよ」


「山の男たちだ」


「判定員は」


「酒場の者」


「信用できねえ。酒場は話を盛る」


「海の酒場も同じだろう」


「だから俺は疑ってんだ」


 ガイウスは目を閉じたまま言った。


「なら、引き分けでいい」


「いいのかよ」


「風呂で決めることじゃねえ」


「急に賢くなるな」


「湯だ」


「湯ってすげえな」


 また湯の音だけになる。


 その静けさの中で、俺はふと胸の奥が軽くなっていることに気づいた。契約が結ばれたからではない。宴会で笑ったからでもない。たぶん、その両方が混じっている。堅い約束と柔らかい馬鹿。紙と酒。署名と靴。


 人間関係なんて、案外そんなもので組まれていく。


「昨日のこと、後でルシアンに聞かれるな」


「聞かれるだろう」


「兄貴は正直に言うのか」


「必要なことは」


「必要じゃないことは」


「黙る」


「いい答えだ」


「お前は」


「全部喋る前に止めてくれ」


「分かった」


 兄貴は短く言った。信用できる短さだった。


──────────────────────────────


 湯浴み場を出る頃には、俺の頭の中の波もだいぶ静かになっていた。


 用意されていた衣類は、妙に体に合っていた。袖も肩もぴたりと合う。昨夜のうちに測られたのか、それとも使用人というのは目で人の寸法を読むものなのか。薔薇の屋敷の人間は、礼儀正しい顔で怖いことをする。


 髪を拭いて廊下へ出ると、若い使用人が控えていた。


「軽いお食事のご用意がございます。よろしければ食堂へご案内いたします」


「軽いって言葉、信じていいか」


「ヴェスタ様とガイウス様には軽いものを。ラウリ様には別にご用意しております」


「優秀だな」


「恐れ入ります」


 案内された食堂は、昨夜の晩餐室より小さかった。


 窓が広く、朝の光が卓の上に伸びている。大きすぎない部屋はありがたい。二日酔いの頭には、広すぎる空間も音になる。


 窓際にイーリスがいた。


 白湯の杯を両手で包み、何事もなかったように座っている。髪は整い、服も乱れていない。昨夜の歌も手拍子も、この人だけ別の劇場で済ませてきたみたいだった。


「おはようございます、ヴェスタ様。ガイウス様」


「おはようさん。ずいぶん早いな、歌い手」


「朝の白湯は声を整えてくれますので」


「昨夜、その声が人を壊したんじゃねえか」


 イーリスは涼しく微笑んだ。


「わたくしは、求められた歌をお届けしただけでございます」


「求めたのは誰だ」


「最初はラウリ様でございました」


「最初は」


「二曲目からは、皆様がたいへん楽しげに」


「責任の行方が霧になったな」


「音楽とは、場に溶けるものでございます」


「便利な言葉だ」


「酒場の歌は三番から客が歌うものです。三番まで誰も歌わない夜は、わたくしの負けでございます」


「昨夜は一番から全員歌ってたじゃねえか」


「ええ。負けの新しい形を一つ覚えましたので」


 ガイウスが椅子に座る。


「歌はよかった」


「ありがとうございます」


「酒も進んだ」


「皆様の心が開かれていたのでしょう」


「扉を開けたのは歌だろ」


「鍵をお持ちだったのは皆様です」


 俺は笑って椅子に沈んだ。


 すぐに朝食が運ばれてきた。湯気の立つ粥。白湯。薄く切った肉。香草の卵。みずみずしい果物。二日酔いを見透かしたような並びだった。胃に優しいものだけで隊列を組んでいる。


 粥をひと口食べる。


 塩気がやわらかい。舌の上で米がほどけ、胃がようやく自分の仕事を思い出した。


「うまい」


 声が勝手に出た。


 イーリスが杯を口元へ運ぶ。


「昨夜あれほど召し上がって飲まれたあとで、そのように食べられるのは頼もしいことでございます」


「海じゃ朝飯を食えねえやつから役に立たなくなる」


「沈まれた場合は」


「浮く」


「浮かない場合は」


「兄貴が引き上げる」


 ガイウスは粥を食べながら言った。


「浮かないものは重い」


「そこは助けろよ」


「助ける」


「先に言ってくれ」


「先に沈むな」


「正論は朝にきつい」


 白湯を飲むと、喉から腹まで温まった。湯浴みとは違う熱だ。内側に小さな灯りが入る感じがする。昨日の酒がその灯りを嫌がって逃げていく。そういう気がしただけだが、気分は大事だ。


「レオン様たちは」


 イーリスが尋ねた。


「まだ沈んでる。レオンは俺の靴を守ってた。カイは水差しに謝ってた。ヴァローは朝の定義を揉めてた」


「まあ」


「まあ、じゃねえよ。あんたも関係者だぞ」


「わたくしは歌を少々」


「少々であのありさまなら、全力のときは町が祭りになるな」


「それは光栄でございます」


「褒めてねえ」


 食堂の扉の向こうから、布が擦れる音がした。


 ゆっくり開く。


 ラウリが立っていた。


 毛布を肩にかけたまま。髪は乱れ、目は半分だけ開いている。顔はまだ寝ている。だが鼻と腹は完全に起きている。ラウリは挨拶もなく、空いている席へまっすぐ歩いた。


 椅子に座る。


 その瞬間、使用人たちが動いた。


 皿が来る。


 パンが山になる。肉が積まれる。卵が置かれる。豆の煮込みが湯気を上げる。果物が添えられる。粥の器が追加される。まるで小さな補給拠点が卓の上に築かれていく。


 ラウリは無言で手を合わせた。


 食べ始めた。


 迷いがない。昨夜あれだけ食べた人間の動きではない。いや人間という枠で測るから間違うのかもしれない。山を見て、まだ登るのかと聞くのと同じだ。


 俺は匙を止めた。


「まだ食うのかよ……」


 イーリスが目を細める。


「健やかでいらっしゃいますね」


「健やかで片づける量じゃねえ。あれは厨房との交渉だ」


 ガイウスがラウリの皿を見た。


「よく食う」


「兄貴、それだけか」


「食えるのは強い」


「山の言葉はだいたい強さに着地するな」


 ラウリは返事をしない。


 肉を食べ、パンをちぎり、豆をすくう。目は眠そうなのに手は正確だ。咀嚼だけで朝の支度をしている。皿が減るたび、使用人が静かに補う。見事な連携だった。ラウリの胃と屋敷の厨房が、昨夜のうちに条約でも結んだのか。


 俺は粥を食べながら眺めた。


 昨夜、ラウリが誰に何を言ったのかは断片しか残っていない。蒼凪に向かって何か言った。レオンに肉を勧めた。俺の杯にも勝手に注いだ。笑った。食った。寝た。


 そして朝も食っている。


 単純なことは、たまに心強い。


「昨夜の歌のあと、俺は何を歌った」


 俺は聞いた。


 イーリスが少しだけ首を傾げる。


「海の歌でございました」


「そこは覚えてる」


「船が沈みかけても酒樽だけは守るという内容で」


「やめよう」


「とても勢いがございました」


「勢いしかなかったんだろ」


 ガイウスが言った。


「手拍子は合っていた」


「兄貴の慰めは雑だな」


「嘘じゃねえ」


「それが救いにならねえこともある」


 食後に白湯をもう一杯もらった。


 腹が落ち着くと眠気が戻ってきた。湯浴みの熱と朝食の温かさが合わさって、体が椅子に根を張ろうとする。今日は屋敷に好きなだけいていいと言われた。ありがたい話だ。だが帰らないわけにもいかない。


 勇者一行には、帰る先がある。


 そこにはルシアンがいる。


 あの人は怒鳴らない。だから面倒だ。怒鳴る相手なら、こちらも帆を張って受けられる。ルシアンは静かに聞く。必要な場所へ細い刃を入れるみたいに聞く。そして気づけば、こちらの記憶の底までさらわれている。


 俺は杯を置いた。


「そろそろ死体どもを引き上げるか」


 ガイウスが頷く。


「そうだな」


 イーリスが白湯の杯を置いた。


「どうぞお手柔らかに。二日酔いの勇者様は、なかなか拝見できるものではございません」


「見世物にするな」


「記憶に留めるだけでございます」


「もっと悪い気がしてきた」


 ラウリはまだ食べていた。


──────────────────────────────


 玄関前に馬車が並んだ頃には、光が白くなっていた。


 昼に近い朝だ。そう言うしかない。俺たちの朝は遅れてきた。薔薇の屋敷の石畳は乾いていて、車輪の影がくっきり落ちている。玄関の扉は開かれ、内側の涼しい暗さと外の白い光が境目を作っていた。


 レオンを起こすのは手間だった。カイは起きるなり水を探し、空の水差しを見て絶望した。ヴァローは紙の枚数を確認し、俺を見た。俺は両手を上げた。盗っていない。盗っていないが、読んではいる。そこまでは言わない。


 見送りに出てきたのは、蒼凪とアルフレッドだった。


 蒼凪は乱れていない。


 髪も服も声の気配も、昨夜から何もこぼしていない。あの男はたぶん、嵐が来る前に窓を閉める種類の人間だ。海の上ならいい航海士になる。いや、船に乗せたら乗せたで面倒なことを言いそうだ。


 アルフレッドも同じだ。


 白手袋。整った姿勢。穏やかな目。昨夜の談話室を見たあとでも、客人を送り出す手順に乱れがない。薔薇の屋敷は人を狂わせるのではなく、狂ったあとまで受け止めるのかもしれない。


 レオンが前に出た。


 顔色はまだ少し悪い。だが背筋は戻っている。こういうところが勇者様だ。二日酔いでも、締めるところだけは締める。


「世話になった」


 蒼凪が頷いた。


「こちらこそ」


「昨夜の取り決めについては、こちらでも確認しておく。定期的な訪問と情報共有は進めよう。有事には、手続きを待たずに連絡する」


「日取りはアルフレッドを通してください。急ぎなら直接で構いません。こちらも必要なら動きます」


「分かった。俺たちも、深淵の徒に関わる発見は共有する。必要があれば協力する」


 声は立派だった。


 ただ、少しかすれていた。


 俺は横を向いた。笑ってはいけない。勇者の約束と二日酔いの喉は相性が悪い。悪いと分かっているのに、腹の奥で笑いが帆を上げようとする。


 カイが頭を下げた。


「昨晩は、たいへん失礼いたしました」


 蒼凪は少しだけ首を振った。


「謝ることではありません。怪我人は出ていない。屋敷の空気が動いた。それだけです」


 カイは困った顔をした。


 俺も困った。


 それを言われると、こちらの醜態にも少しだけ働きがあったように聞こえる。困る。馬鹿をした言い訳として便利すぎる。


 アルフレッドが一歩前へ出た。


「エヴァ様より、皆様はいつでも薔薇の屋敷へお越しいただいてよいとのお許しを賜っております。ご来館の折は、どうぞ私どもへお申し付けください」


 レオンが目を伏せる。


「ありがたい。よいのだろうか」


「はい」


 アルフレッドは深く一礼した。


「はい。ただし、飲み比べをご所望の折は、前もってお知らせいただけますと幸いです。水差しを多めにご用意いたします」


 カイの肩が小さく落ちた。


「……お願いいたします」


 ヴァローが静かに言った。


「昨夜の酒量は記録の信頼性が低いため、再現は困難です」


「再現しなくていい」


 レオンの返事は早かった。


 俺はとうとう少し笑った。


 蒼凪の視線がガイウスの腕へ落ちる。


 ガイウスもそれに気づいたらしい。包帯の手を軽く握った。


「腕の具合がよい」


「動きは戻っています」


「昨夜からだ」


「なら、なおさら無理はしないでください」


「分かっている」


「分かっていない人ほど、そう言う」


 ガイウスは少し黙った。


「覚えておく」


 短いやり取りだった。


 だが、その短さが妙にしっくり来た。敵か味方かを大声で言い合う関係ではない。必要なら声をかける。気づいたことは伝える。引くところは引く。そういう細い道が、昨日の夜から敷かれた。


 俺たちは馬車へ乗り込んだ。


 レオンは窓際に座り、すぐ目を閉じた。カイは革袋の水を大事そうに抱いている。ヴァローは膝に紙を置いたが、筆を持つ気力はなさそうだった。ガイウスは向かいに座り、腕を組む。


 馬車が動き出した。


 車輪が石畳を鳴らす。薔薇の屋敷がゆっくり後ろへ下がる。玄関前には、蒼凪とアルフレッドが立っていた。黒い髪の賢者と白手袋の老執事。こちらが門へ近づいても、二人は姿勢を崩さなかった。


 レオンが薄く目を開けた。


「ヴェスタ」


「なんだ、勇者様」


「昨夜、俺は何か失礼なことをしただろうか」


「俺の靴を抱いて寝た」


「それは聞いた」


「なら十分だろ」


「他には」


 俺は窓の外を見た。


 思い出せることはある。レオンは飲み比べの途中で、これは親睦だと真面目に言った。そのあと杯が来るたび、親睦だと繰り返した。最後は誰に対しても親睦と言っていた気がする。靴を抱いて寝たのも、たぶん親睦の末路だ。


 だが今は言わない。


「勇者様らしかったよ」


「それは、よかったという意味か」


「解釈は任せる」


 レオンは眉を寄せたまま、また目を閉じた。


 カイが小さく息をつく。


「ルシアンには、どのようにご報告すべきでしょうか」


 馬車の中が静かになった。


 その名は水より効いた。


 全員が同じ顔を思い浮かべたはずだ。穏やかな笑み。丁寧な言葉。怒らない。怒らないまま、報告の穴をひとつずつ指で押さえてくる男。


 ガイウスが言った。


「怒らんだろう」


「だから面倒なんだよ、兄貴」


 俺は窓枠に肘を置いた。


「絶対こう言うぜ。『皆さん、よい夜だったようですね。では契約の運用について、記憶が鮮明なうちに確認しましょう』」


 カイが顔色をさらに悪くした。


「言いそうです」


 ヴァローが目を閉じたまま言った。


「その後、昨夜の記憶が曖昧であることを理由に、各自から聞き取りを行うでしょう」


「やめろ。具合悪くなってきた」


「項目は、契約内容。連絡経路。蒼凪殿の発言。薔薇の魔女の術。宴席における距離の変化」


「最後なんだよ」


「重要です」


「俺の歌唱は入れるなよ」


「観測済みです」


「消せ」


「紙は消せても、記憶は消せません」


「その記憶、酒で薄まってるだろ」


「残念ながら、印象が強く」


 レオンが目を閉じたまま呟いた。


「ヴェスタの歌には勢いがあった」


「勇者様まで刺すのか」


「褒めている」


「褒められて傷つくこともあるんだよ」


「朝課に遅れた奴ほど走れるんだ」


「……誰の受け売りですか」


「俺が作った。……司祭様には内緒な」


 カイが口元を押さえて笑った。


 その笑いにつられて、俺も息を漏らした。二日酔いの馬車は最悪だ。だが最悪の中にも笑う隙間はある。船旅も同じだった。嵐のあとに濡れたパンを食いながら、誰かの寝言で笑ったりする。


 俺は窓の外を見た。


 薔薇の門を抜ける。街へ降りる道に入る。サルマンディアの白い街並みが広がった。朝の光を受けた壁。細い坂。遠くの海の青。屋根の間を抜けて、潮風が馬車の中まで入ってくる。


 昨日と同じ街だ。


 でも、まったく同じには見えない。


 俺たちは薔薇の屋敷で朝を迎えた。堅い約束を結び、酒で足を滑らせ、靴を奪われ、湯に浸かり、粥を食い、また街へ戻っている。英雄譚に書くには格好がつかない。だが旅の本当の朝なんて、だいたい格好がつかない。


 格好がつかない朝ほど、あとで妙に残る。


 俺は潮風を吸った。


 頭の奥に残った酒の重さが、風に少し削られた。白い街の向こうで海が光っている。帆を上げるには悪くない風だ。


「潮目が変わったな」


 誰に向けたでもなく言った。


 ガイウスが片目を開ける。


「悪い風か」


「いや」


 俺は笑った。


「悪くねえ風だ」

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