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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅡ
100/129

閑話休題:病める時も、健やかなる時も

 薔薇庭園は、朝から人の気配を受け入れていた。


 白い椅子が二列に並び、淡い布の天蓋が花壇の手前に張られている。風が通るたび、布の端に縫い込まれた金糸が細く光った。石畳は水を打たれたばかりで、薔薇の香りと濡れた石の匂いが、庭園の低い場所に残っていた。


 いつもの薔薇庭園とは少し違う。


 花は同じように咲いている。噴水も同じ音を立てている。けれど今日は、庭そのものが客を迎えるために背筋を伸ばしているように見えた。刈り込まれた低木の線は普段より硬く、椅子の脚は石畳の目地に合わせて置かれ、白い背もたれの列が朝の光を薄く返していた。


 ヒュウマは回廊の脇に立ち、庭園全体を見渡していた。


 海守りの仕事ではない。少なくとも、そう呼ばれる仕事ではない。だが人が集まり、道が狭くなり、年配の客や子供が足を止める場であれば、見るべきものはある。水盤の位置。石畳の段差。日差しの強い場所。人が流れを失う角。濡れた敷石の色が濃くなっている場所。花壇の縁から張り出した枝が、客の袖に触れそうな場所。


 海と庭は違う。


 それでも、人が帰る場所を間違えないようにするという意味では、似ているところがあった。波はない。潮もない。けれど人の流れには、知らないうちに寄る場所と詰まる場所がある。そこを見ていると、足元の石まで少し違って見えた。


「海守りの末裔よ」


 低い椅子に腰掛けたエヴァンジェリーネが、扇を閉じた。


 今日は白いドレスではなかった。深い薔薇色の衣装に、黒い薄布を重ねている。喪ではなく、祝祭でもない。その二つの間にある、契約の色だった。金の髪は高く結われ、耳の下で深紅の石が揺れていた。石は光を受けるたび血のように見え、次の瞬間には熟した果実のようにも見えた。


「客の流れを見る目つきになっておるな」


「人が多いので」


「よい。妾の庭で転ばれては、薔薇の評判に関わる」


 ヒュウマは軽く頭を下げた。


 エヴァの言葉は冗談の形をしている。けれど、庭園の使用人たちはその冗談を合図として受け取っていた。白手袋の男が椅子の間隔を直し、メイドが水差しを日陰へ移す。花婿側の年配客が通る道だけ、石畳の上に薄い敷布が足された。


 この館は、祝福の場でも手順を外さない。


 そのことに、ヒュウマは少し安心した。手順がある場所では、人は無理をしにくい。誰がどこを歩き、誰が誰に手を貸し、どの水差しが空になりかけているか。そういう細部が整っているだけで、祝いの場は長くもつ。


「凪」


 エヴァが呼んだ。


 蒼凪は契約台のそばに立っていた。濃い青のローブではなく、白真珠の塔の賢者として外へ出る時の装いだった。深い青に銀糸の細い縁取り。華やかではないが、場の中心に立つ者として不足がない。袖口は細く、手元の動きが隠れない。黒髪は朝の光をほとんど返さず、白い契約台の前で輪郭だけがくっきりしていた。


「何ですか」


「食った分は働け」


 蒼凪は一拍だけ黙った。


「俺は、それほど食べていません」


「お主ひとりの勘定ではない。ラウリも含めてじゃ」


 離れた水盤のそばで、ラウリ・シレリオがゆっくり顔を上げた。


 大きな身体に、濃紺の祭祀衣。首元には鮫の歯の化石が下がり、両手首の飾りが朝の光を小さく拾っている。彼は少し考えた後、胸の前で手を合わせた。


「食った」


「認めるのが早いな」


「飯には礼を言うものだからな」


 エヴァは扇で口元を隠した。


「よろしい。では働け。凪は賢者証人。ラウリは水の清め。ヒュウマは客の足元を見る。イーリスは歌じゃ。妾の館で食い、飲み、寝た者どもには、それぞれ相応の仕事がある」


「契約の場に、外部証人が必要なのですか」


 蒼凪が短く問う。


「必要とされておる。花婿側も花嫁側も、白真珠の塔の賢者に祝福されたいらしい」


「祝福は専門外です」


「なら見届けよ。お主の目は、祝福よりも値が張る」


 蒼凪は反論しなかった。


 ヒュウマは、その沈黙を見た。


 蒼凪が諦めたのではない。役割を受け取っただけだ。エヴァが命じ、蒼凪が短く測り、必要なら立つ。その流れに、古い慣れがあった。契約台の上にはまだ何も置かれていないのに、そこだけ空気が少し固い。


「昔も、こういうことをしていたんですか」


 ヒュウマが聞くと、蒼凪は視線だけを向けた。


「少しな」


「賢者としてですか」


「名目は。実際は、身体を戻す口実だった」


 それだけ言って、蒼凪は契約台の紙へ目を戻した。


 ヒュウマは続けて聞かなかった。


 十二年前の蒼凪が、椅子から立つこと、紙を見ること、人の前で短く言葉を出すことを、ひとつずつ戻していった。そういう話を、以前、談話室で聞いた。今朝の庭園に立つ蒼凪は、その話の先にいる。


 目の前の男は、賢者証人としてそこにいる。


 だが同時に、かつてこの館で人の場へ戻された青年でもあった。白い台。薔薇の匂い。人の視線。たぶん似たものを、あの頃の彼も見たのだろう。


「ヒュウマ」


 蒼凪が言った。


「はい」


「右の水盤の縁、濡れている。子供が触ると滑る」


「見てきます」


「頼む」


 その短いやり取りで、ヒュウマは動いた。


 薔薇の香りの中で、足音が乾いて鳴った。回廊の影から庭へ出ると、朝の光が肩に乗った。水盤の縁には、確かに薄い水の膜が残っていた。そこに薔薇の花びらが一枚貼りつき、指で触れれば滑りそうに艶を持っていた。


──────────────────────────────


 フェリオーネ家の客は、青と白を基調にしていた。


 男たちは淡い絹の上着に、銀の留め具を付けている。女たちは真珠の飾りを耳元や首元に落とし、重すぎない宝石でまとめていた。海運と保険で古くから名を持つ家だと、アルフレッドが説明した。船を持つだけではなく、船に積まれる荷と、それを待つ者の不安まで扱う家だという。


 言われてみれば、彼らの立ち方には港の者とは別の硬さがあった。荒天を見上げる硬さではない。帳簿の数字と、帰らない船名と、海図の余白を見てきた人間の硬さだった。


 セルヴァッリ家の客は、少し色が違う。


 葡萄色。薔薇油の瓶に似た琥珀。丘陵地の土を思わせる柔らかな茶。香油や蒸留酒、葡萄畑を持つ家だと聞いた。海へ物を出すために、フェリオーネ家と結ぶ。


 婚姻とは、二人だけのものではない。


 ヒュウマは、並んだ椅子と客の衣装を見ながら、あらためてそう思った。


 二人が立つ場所の周りに、家が立っている。名がある。土地がある。船がある。畑がある。酒の瓶、保険の帳簿、相続の線、まだ生まれていない子供の名。そういうものが、目には見えない席へ座っていた。


 それを花にして扱うのが、エヴァなのだろう。


「ヒュウマ殿」


 イーリスが声をかけた。


 彼は庭園の端に立ち、弦の細い楽器を抱えていた。今日は旅装ではあるが、いつもより布の色が明るい。緑灰の衣に、淡い金茶の髪がよく映えている。楽器の胴には薄い艶があり、指を置くたびに木目が光の筋を受けて沈んだ。


「そちらの導線は、もうよろしいのですか」


「はい。水盤の縁だけ拭いてもらいました」


「それはようございました。祝福の席で転ぶのは、喜劇としてはよくできておりますが、婚姻の記録としては少々扱いが難しゅうございます」


「歌になりますか」


「転んだ方の器量によります」


 ヒュウマは少しだけ笑った。


 イーリスは弦を一度鳴らす。


 音は小さかった。だが薔薇庭園の空気が、そこだけ薄く波打つ。花も噴水も、音を邪魔しない。むしろ、音が置かれる場所を空けたように見えた。客の小さな話し声が一瞬だけ低くなり、白い椅子の列に耳を澄ませる隙間が生まれた。


「今日は恋の歌ですか」


「いいえ」


 イーリスは静かに首を横に振った。


「恋は、歌にすると軽くなりすぎることがございます。今日は誓いの歌でよろしいでしょう。踏まれても残る言葉のほうが、この庭には似合います」


「踏まれても」


「薔薇は足元にもございますから」


 イーリスの微笑は穏やかだった。


 毒ではない。だが言葉の奥に、語り部の眼があった。祝福される二人を見るだけではなく、祝福が後でどう語られるかまで見ている。彼の指は弦の上に置かれたままで、まだ歌わない音を押さえていた。


 水盤の方で、低い声がした。


 ラウリが両手を水の上へかざしていた。大きな掌に、首元から外した鮫の歯の化石を包んでいる。水盤は庭園の飾りだったはずだが、今はただの飾りには見えなかった。水面は静かで、薔薇の花びらが一枚浮いている。


 ラウリは短く、ヒュウマには分からない言葉を落とした。


 それは祈りというより、海へ何かを尋ねる音に近かった。低く、丸く、長く伸びない。言葉の最後で、手首の飾りがかすかに触れ合う。乾いた骨に似た音がして、水盤の縁に薄く反響した。


 水盤の音が変わった。


 一瞬だけ、庭園の噴水ではなく、潮の縁を洗う音に聞こえた。石の器に収まっているはずの水が、遠い岩場の陰を思い出したように、低く呼吸した。


 近くにいた年配の招待客が、息を止める。若い男が、隣の女へ小声で何かを言いかけてやめた。フェリオーネ家の客の一人が、ラウリの首元と手首を見て、姿勢を直す。


「シャーク・コーラーズ」


 誰かが、ごく小さく言った。


 ラウリは驕らなかった。


 ただ背筋を伸ばした。


 その姿勢だけで、彼が食卓で皿を重ねる男であることと、古い海の祭祀を背負う男であることが、同じ身体の中に収まった。大きな肩が朝の光を受け、濃紺の布に小さな波のような陰影ができた。


「潮が変わったように聞こえました」


 ヒュウマが言うと、ラウリは水盤から手を離した。


「変えたのではない。挨拶した」


「挨拶」


「薔薇の庭に、海の水が少し入る。先に礼を言う」


 ラウリは鮫の歯を首に戻す。


「鮫は歌わない。だが潮の変わり目は覚える」


 イーリスが弦を軽く押さえた。


「それは、たいへん良い一節でございます」


「そうなのか」


「ええ。わたくしが使うと、少しばかり盗作になります」


 ラウリは真面目に考え込んだ。


「なら半分だけ使うといい」


「半分で済む物語は、たいてい半分では済みません」


 ラウリは頷いた。


「なるほど」


 ヒュウマは、庭園の端で笑いを呑んだ。


 笑っていい場だ。けれど笑いすぎる場ではない。白い椅子には、すでに招待客が座り始めている。花婿側と花嫁側の色が庭園に混じり、薔薇の香りの中へ人の香水と布の匂いが重なっていった。


 アルフレッドが契約台のそばへ立つ。


 背の高い執事頭は、銀の盆に紙とインクを載せていた。紙は真っ白ではない。ごく淡い薔薇色を帯びている。光を受けると、繊維の中に細い金が走った。インク壺は黒硝子で、蓋の縁に小さな薔薇の意匠が刻まれている。羽根ペンの軸は磨かれており、置かれただけで手順の重さを持っていた。


 メリッサは少し離れた場所で、招待客の席と控えの使用人を見ている。


 この館では、祝福も記録される。


 ヒュウマにはそう見えた。花が咲く場所と、紙が残る場所。その両方が同じ庭に用意されている。


──────────────────────────────


 花婿は、マテオ・フェリオーネと名乗った。


 若い。落ち着いた若さだった。淡い青の上着に、銀の飾り紐。髪は茶に近い金で、肩にかからないよう整えられている。笑うと柔らかいが、その柔らかさは人前に出る家の者のものだった。緊張を隠しているのではなく、緊張の置き場を知っている顔だった。


 花嫁は、リヴィア・セルヴァッリ。


 薔薇色ではなく、白に近い葡萄色の衣装を着ていた。長いヴェールの端に、香油瓶を象った小さな刺繍がある。歩くたびに、甘い香りが一歩遅れてついてくる。手袋の指先は細く、ペンを持つことまで計算されたように整えられていた。


 二人は契約台の前で向かい合った。


 庭園の音が細くなる。


 イーリスの弦が低く鳴った。歌ではない。歌へ入る前の、一つ目の呼吸のような音だった。ラウリは水盤のそばで目を伏せている。ヒュウマは人の流れを見る役目を終え、回廊の柱のそばに立った。


 蒼凪はエヴァの右斜め後ろに立つ。


 賢者証人。


 その言葉は少し硬い。だが今の蒼凪には合っていた。彼は契約書を見るでもなく、二人を見るでもなく、場の全体を浅く見ていた。水面の反射、紙の浮き方、花婿と花嫁の呼吸、エヴァの手元。それらを一つの盤面として置いている。


 エヴァンジェリーネが立った。


 扇は閉じられている。


「フェリオーネ家、マテオ」


 花婿が頭を下げる。


「セルヴァッリ家、リヴィア」


 花嫁が頭を下げる。


「ここは妾の庭。妾の紙。妾の法じゃ。神官の祝福でも、親族の拍手でもない。愛が契約へ変わる場である。言葉を軽く扱う者は、この台の前へ立つでない」


 誰も動かなかった。


 風が薔薇の葉を鳴らす。


 その音だけが、いまこの庭にある余分だった。椅子の列に座る者たちは、礼服の膝へ手を置き、使用人たちは石畳の端で息を殺している。白い布の天蓋がわずかに揺れ、金糸の光がエヴァの足元に落ちた。


「アルフレッド」


「こちらに」


 アルフレッドが紙とインクを差し出した。


 エヴァが紙へ手をかざす。


 紙は盆から離れ、空中へ上がった。音もなく、契約台の上に浮く。インク壺の蓋が開き、羽根ペンがひとりでに動き出した。


 家名。名。日付。契約の保管。相続。財産。婚姻後の名の扱い。誓いの文言。


 黒いインクが紙の上を走る。


 走っているのに、慌ただしくはない。薔薇の蔓が格子に沿って伸びるように、文字は決められた場所へ収まっていった。羽根ペンの先が紙を擦る音だけが細く続き、客席の誰も咳をしなかった。


 蒼凪の目が、わずかに細くなる。


「凪」


 エヴァが呼んだ。


「強制、幻惑、すり替え」


「ありません」


 答えは短かった。


「署名者の認識は」


「一致しています」


「よい」


 エヴァは満足げに頷いた。


 ヒュウマは、蒼凪の声を聞いていた。


 祝福の言葉ではない。だが、それが祝福の場所を支えている。足場を確認する声。舟を出す前に底を見る声。そういう種類の誠実さがあった。美しい言葉の前に、沈まないことを確かめる役目がある。


 エヴァが花婿と花嫁へ向き直る。


「薔薇の魔女の名に於いて、婚姻の契約を執り行う」


 声は庭園の隅まで届いた。


 大きな声ではない。だが誰も聞き落とせない声だった。


「汝ら、病める時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、喜びの日も、災いの日も、互いを愛し、敬い、偽らず、支え、死が二人を分かつまで真心を尽くすことを誓い給え」


 庭園が止まった。


 病める時も。


 健やかなる時も。


 その順番が、ヒュウマの胸に残った。


 先に置かれたのは、良い日のことではなかった。手が足りない日。歩けない日。熱で声が出ない日。家の帳簿が傾く日。嵐で船が戻らない日。それでも先に誓うのだと、言葉は告げている。


 花婿が答えた。


「誓います」


 花嫁が、わずかに息を吸った。


「誓います」


 声は小さくない。


 ただ、風が長いヴェールの裾を揺らした。介添えの女がさりげなく布を整え、花嫁はそのまま前を向いていた。ヒュウマはそれを、婚礼の場にある静かな所作として見た。


 エヴァは紙を示す。


「名を記せ」


 マテオが先にペンを取った。


 彼の筆跡は整っていた。紙の上へ、マテオ・フェリオーネという名が流れる。黒いインクはすぐに深い赤へ変わった。血ではない。熟した薔薇を光に透かしたような赤だった。


 リヴィアがペンを取る。


 ヴェールの影で、表情はやわらかく隠れていた。彼女は名を書いた。リヴィア・セルヴァッリ。最後の線が引かれると、その名もまた薔薇の赤へ変わる。ペン先が離れたあと、彼女の指が一拍だけ空中に残った。


 二つの名が、同じ紙の上に並んだ。


 エヴァが指を上げる。


 文字列が細く動いた。


 紙に書かれた文言の端から、薔薇の蔓のような線が伸びる。線は二つの名を囲み、絡まり、ひとつの輪になった。そこに棘は見えない。ただ、細い曲線が美しく結ばれていく。


「向かい合え」


 花婿と花嫁が向かい合う。


 エヴァが杖を床へ軽く置いた。


 澄んだ音がした。


 次の瞬間、二人の胸元に深紅の薔薇が咲いた。


 肉を裂く花ではない。


 光だった。


 衣装の上に、大輪の薔薇が開く。花婿の胸にも、花嫁の胸にも。同じ形で、同じ深さで、同じ赤で。花弁はひとつずつ光を含み、朝の庭園に静かに浮かび上がった。薄い布も、銀の飾り紐も、ヴェールの影も、その光だけは遮らなかった。


 招待客の間に息を呑む音が広がる。


 小さな子供が椅子の上で身を乗り出し、母親に肩を押さえられた。年配の女が口元に手を当てる。イーリスの弦は止まり、ラウリは目を伏せたまま手を合わせていた。


 薔薇はほどけた。


 花弁が一枚ずつ光になる。赤い光は空へ散らず、二人の胸へ沈んでいった。最後の花弁が消えた時、衣装には何も残っていなかった。


 傷もない。


 血もない。


 ただ、そこに花が咲いたことを、見た者全員が知っている。


 エヴァンジェリーネは杖を引いた。


「婚姻契約、成立じゃ」


 拍手が起きた。


 最初は控えめだった。すぐに大きくなった。白い椅子の列を越え、薔薇の花壇を越え、庭園の水音に混じって広がる。手袋越しの音、素手の音、年配の客のゆっくりした音が重なり、庭の上へ薄い波を作った。


 イーリスが歌い出した。


 言葉は古かった。


 ヒュウマにはすべての意味は分からない。だが歌の芯は分かった。恋を甘く讃える歌ではない。二人が同じ屋根の下で老いていくこと、朝の水を汲むこと、熱のある夜に布を替えること、帰らない船を待つこと、そういうものを、低く織り込んでいく歌だった。


 庭園の薔薇が風に揺れる。


 蒼凪は契約書を見ていた。


 エヴァは拍手の中で、少しだけ目を細めていた。


──────────────────────────────


 小宴は、庭園の端にある開放廊で始まった。


 大がかりな披露宴ではない。挙式そのものはサルマンディアの専用施設で行われる。ここは婚姻契約の場であり、契約が終われば、祝宴は人間の領分へ戻る。それでも薔薇の館は、客をそのまま帰したりしなかった。


 白い卓には、軽い菓子と果物が並べられている。


 薔薇水で香りをつけた小さな焼き菓子。葡萄の蜜煮。薄く切られた白身魚の酢漬け。香草を練り込んだパン。蒸留酒は昼の場に合わせて薄められ、硝子の杯に淡く光っていた。白い皿の縁には薔薇の紋があり、菓子を取る銀の小鋏まで磨かれている。


 ラウリは卓の前で、真剣な顔をしていた。


「働いた分は食ってよいのか」


「お前は、働く前にも食っておったであろう」


 エヴァが遠くから言う。


 ラウリは考えた。


「なら、これは後払いだな」


「その理屈を教えるな、凪」


「教えてません」


 蒼凪は即答した。


 ヒュウマは水を受け取りながら、肩だけで笑った。こういう場の蒼凪は、少しだけ昔の話に近くなる。エヴァが呼び、蒼凪が短く返し、周りがそのやり取りの古さを知らずに見ている。


「今でも、断らないんですね」


 ヒュウマが改めて聞くと、蒼凪は杯へ視線を落とした。


「たまにな」


「嫌ではなかったんですか」


「嫌だった」


 答えはすぐだった。


 ヒュウマが少し目を開くと、蒼凪は淡々と続けた。


「だが、嫌だと言うためにも、まず椅子から立つ必要があった。だから口実としては悪くない」


「そういうものですか」


「そういうものだな」


 蒼凪は小さく息を置いた。


「エヴァ様は、役目の形にするのがうまい。逃げ道も、出口も、同じ扉にする」


 それは、褒め言葉なのか。


 ヒュウマにはすぐ分からなかった。けれど蒼凪の声に嫌悪はなかった。面倒だと思っている。借りもある。敵わないとも思っている。その全部が、短い言葉の中に折り畳まれていた。


「今は」


 ヒュウマが言いかける。


 蒼凪が目を向けた。


「今は、自分で立っているように見えます」


 蒼凪は返事をしなかった。


 ただ、杯を少しだけ持ち直した。


 それで十分だった。


 開放廊の向こうでは、エヴァが老夫婦と向かい合っていた。


 オルランド・フェリオーネと、クラリッサ・フェリオーネ。


 マテオの両親だという。二人とも年を重ねているが、衰えより先に品のよさが立つ人たちだった。オルランドは杖を持っていた。クラリッサは薄い青の手袋をしている。二人の間には、長く同じ卓についてきた者だけが持つ距離があった。


「あれから何年になる」


 エヴァが言った。


「三十二年でございます」


 オルランドが答える。


「お主は昔から数えるのが細かい」


「妻が覚えておりますので」


 クラリッサが微笑んだ。


「覚えていなければ、こちらの方が困ります。あの日、わたくしは三度もヴェールを踏みました」


「二度じゃ」


「三度です」


「最後の一度は、私が踏んだ」


「では四度でございますね」


 エヴァが低く笑った。


「妾の庭で、よくもまあ転ばずに済んだものじゃ」


「お館さまが、薔薇に頼んでくださったのでしょう」


「薔薇は気まぐれじゃ。頼んでも聞かぬ時は聞かぬ」


 クラリッサは、夫の手に自分の指を軽く重ねた。


「それでも、あの日は聞いてくれました」


 エヴァは答えなかった。


 ただ、二人を見ていた。


 ヒュウマは少し離れたところから、その会話を聞いていた。昔話は穏やかだった。だが穏やかだからこそ、今日の契約が一日で終わるものではないと分かる。


 三十二年。


 朝の水。病の夜。商談の失敗。戻らない船。子供の熱。家の重さ。そういうものを二人で越えてきた時間が、庭園の会話にはあった。椅子から立ち上がる時に自然に差し出される手や、相手の言い間違いを急がず直す声が、その年数を先に語っていた。


「愛とは、続くと形が変わる」


 オルランドが言った。


「若い頃は、手を取ることだと思っておりました。今は、手を離す時を間違えないことだと思っております」


「ほう」


 エヴァが目を細める。


「老いたな」


「おかげさまで」


「妾は褒めておらぬ」


「それでも、ありがたいことでございます」


 クラリッサが笑った。


「わたくしは、毎朝同じ茶を出してもらえることが愛だと思っております」


「安い愛じゃの」


「高い茶葉です」


 エヴァは、今度こそ声を立てて笑った。


 その笑いは庭園の祝福を壊さなかった。むしろ、庭の奥にある古い椅子まで明るくするような笑いだった。近くの客がつられて口元をゆるめ、銀の杯の中で薄い酒が揺れた。


 蒼凪が、ヒュウマの隣へ半歩近づいた。


 人の流れを避けただけかもしれない。通り過ぎる使用人の盆を避けたのかもしれない。それでも、二人の肩の距離は先ほどより近くなった。


「水、もう一杯いりますか」


 ヒュウマが聞く。


「もらう」


 蒼凪は杯を差し出した。


 手渡す時、指先が触れた。


 ごく短い。


 けれどヒュウマは、杯を受け取る手を少しだけ慎重にした。蒼凪も急かさなかった。硝子の薄い縁に光が乗り、二人の手元だけが廊の影から浮いた。


 それを、エヴァが見た。


 老夫婦との会話の途中で、ほんの一瞬だけ。


 金の瞳が細くなる。


 からかいの言葉は出なかった。


 扇も動かなかった。


 エヴァはただ、目を細めた。その視線には、面白がる色と、見届ける者の静けさが同じだけ入っていた。


「お館さま?」


 クラリッサが呼ぶ。


「何でもない」


 エヴァは視線を戻した。


「若い者は、手が近いだけで話が進む時もある」


 オルランドは意味を取りかねた顔をした。


 クラリッサは少しだけ笑った。


 蒼凪は聞こえていないふりをした。


 ヒュウマは水差しを持ったまま、庭園の薔薇を見た。


 薔薇は何も言わない。


 ただ、朝よりも少し濃い香りを放っていた。


──────────────────────────────


 契約書は、式の後も庭園の中心には置かれなかった。


 エヴァの手元へ戻され、淡い薔薇色の紙は銀の筒へ収められた。筒にはフェリオーネ家とセルヴァッリ家の紋が細く刻まれている。さらにその上から、エヴァが赤い封蝋を落とした。


 封蝋は丸く広がり、薔薇の印を受ける。


 メリッサが記録帳を閉じる。


 アルフレッドは、契約筒を黒い小箱へ収めた。


 手順は静かだった。


 祝福の拍手よりも小さく、歌よりも低く、けれどその場にいた誰もが邪魔をしなかった。婚姻契約は美しいものとして見せられ、最後には保管されるものとして扱われる。箱の蓋が降りる音は浅かったが、そこに今日の重さが収まった。


 ヒュウマはそこに、エヴァの仕事の本体を見た気がした。


 咲かせるだけではない。


 咲いたものを、紙に戻す。


 花婿と花嫁は、招待客の間を回っていた。マテオは親族に囲まれ、リヴィアは年配の女たちから言葉を受けている。庭園は明るい。菓子の皿は減り、ラウリの前の皿だけは特に減っていた。


 回廊の柱の陰に、若い男がいた。


 ジュリオ・フェランテと紹介されていた。セルヴァッリ家に出入りする書記だと、誰かが言っていた気がする。彼の袖口には、小さな刺繍があった。客の中に似た意匠は多い。だから、それだけなら何も特別ではない。


 リヴィアが、親族の輪から少しだけ離れる。


 庭園の出口へ向かう途中で、彼女はその柱のそばを通った。


 言葉は交わされなかった。


 視線も、挨拶と呼ぶには短すぎた。


 ただ、彼女の衣装の裾が風で揺れ、柱の影が石畳に動いた。


 それだけだった。


 ヒュウマは、子供が走り出しそうになったのを止めるために半歩前へ出た。だから、そのすれ違いを深く見ることはなかった。子供の手は菓子の砂糖で少しべたついていて、母親が慌てて布で拭った。


 エヴァは契約筒の蓋に指を置いたまま、庭園を一度見渡した。


 ほんの短い間だった。


 蓋はすぐに閉じられる。


「お館さま」


 アルフレッドが箱を受け取る。


 エヴァは箱から手を離した。


「薔薇は咲いた」


 声は低い。


 誰に聞かせるでもない声だった。


「あとは人間の仕事じゃ」


 アルフレッドは何も言わず、箱を胸の高さに持った。


 庭園では、まだ祝福の声が続いている。イーリスの歌は軽くなり、ラウリは子供に菓子の皿を譲っていた。蒼凪はヒュウマに何か短く言い、ヒュウマは頷いて水差しを置く。


 薔薇庭園は晴れていた。


 深紅の花は、どれも美しく咲いていた。


 薔薇の香りだけが残った。

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